第一話:救済の言葉
クロムヘヴンで二度目の朝を迎えた。〈青鱗亭〉の食堂は、すでに旅人と職人で埋まっている。鍋の湯気と焼いたパンの匂いが漂い、誰もが今日の仕事の話をしていた。リオたちも特別な相談をするでもなく朝食をとり、食後早速、出かけるために外套を羽織った。街へ出たのは、店が開き、人の流れが落ち着き始める頃だった。
石畳の通りへ出ると、朝のざわめきがすでに街を満たしていた。荷を下ろす音、店の扉を開ける音、遠くで鳴る金属の打撃音。それらが重なり合い、クロムヘヴンの日常を形作っている。巡礼者の列は、外郭へ続く道に沿って伸びていた。肩に荷を担ぎ、歩調を揃え、誰もが前を向いている。その胸元や外套に、銀色の輪が見えた。
布に銀糸で縫い付けたものもあれば、紐で首から下げただけの簡素なものもあった。小さな金属の輪を指で握りしめて歩く者もいれば、外套の留め具にして目立たぬように付けている者もいる。形は同じでも、扱い方はまちまちだ。中央通りに近づくにつれ、人の流れが増す。露店が並び、商人が声を張り上げ、買い手が足を止める。その喧騒の中でも、輪は自然と視界に入った。店先の飾りとして下げられたもの、護符のように棚に置かれたもの、子どもの首元で揺れる小さな輪。
「……こんなに種類があるんだね」
セリアが周囲を見回しながら言った。
「同じ形なのに、ずいぶん違う」
クララはそう答え、通りの先へ視線を移す。
北へ進むと、通りの雰囲気が少しずつ変わった。建物は石造りが増え、装飾も控えめだが整っている。通りを歩く人々の服装も落ち着き、歩調は自然と揃っていった。門や壁に刻まれた輪の印が、ところどころ目に入る。その中には、輪の中心に細い十字を添えたものも混じっている。数は多くないが、意図的に配置されているのが分かった。
その前を通ったとき、伊織の足がわずかに止まった。
「……気に入らねぇ」
低い声だった。クララは理由を問わず、ただその横顔を見る。伊織はすぐに歩き出し、何事もなかったかのように通りを進んだ。
さらに歩みを進めると、街の縁が見えてくる。屋根は低く、道は荒れ、空気も重くなる。人の数は減るが、銀色の輪だけは、ここにもあった。板切れに彫ったものや、粗い紐で結んだだけのものが、戸口や柱に下がっている。クララは足を止めず、その様子を一瞥した。街のどこを歩いても、同じ形が視界に入る。それだけのことだ。
中央通りを外れ、少し静かな坂道を上ると、石造りの建物が見えてきた。高い尖塔も、華美な装飾もない。壁は年を経て色褪せ、門も簡素だ。ここが、在来宗派ルメル・サーク本派の修道院だった。門を叩くと、しばらくして内側で足音がし、扉が開く。年配の修道士が顔を覗かせ、その表情がわずかに動いた。
「あ……」
一瞬、言葉に詰まったように見えたが、すぐに穏やかな笑みを作り、深く頭を下げる。
「これは……久方ぶりのお客人ですね。どういったご用向きでしょうか」
視線が一行を順に確かめ、剣や杖を見て、少しだけ声を和らげた。
「ご祈祷ですか? それとも……奉仕活動でしょうか」
言い終えたあと、どちらであっても構わないというように小さく頷く。
「どうぞ、中へ。立ち話も久しくしておりませんので」
その言葉には、控えめながらも来訪を歓迎する色があった。修道士に導かれ、祈堂へ入る。中はひんやりとしており、外の喧騒が嘘のように遠かった。祈りの席は空いているものが多く、人の気配は薄い。しばらく沈黙が続き、修道士は次の言葉を待っているようだった。
「俺たちは――」
リオが口を開く。
「祈祷でも、奉仕でもありません。街で広がっている“光輪の奇跡”について、話を聞きたくて来ました」
その瞬間、修道士の表情がわずかに変わった。
「……なるほど」
すぐに肯定も否定もしない。ただ、一度だけ頷く。
クララが、少しだけ言葉を補った。
「街では、至るところでその話題を見かけました。こちらの教えと関係があるのかと思いまして」
修道士は小さく息をついた。
「最近は、訪ねて来る方も減りまして。多くの方が、街の方へ行かれる。……光輪の奇跡、と呼ばれる集会の方へ」
声は穏やかだったが、そこには隠しきれない疲れが滲んでいた。クララは何も言わず、頷く。
「本来、我々の教えは単純なものでした」
修道士は祈堂の壁に掛けられている素朴な木輪に視線を向ける。削り出しただけの円で、飾りはない。磨かれてはいるが、銀のような光沢もなかった。
「貧しき者も、富める者も、同じ環の中にある。ただ、それだけです」
声は穏やかだが、そこには確信よりも、どこか諦めに近い響きがあった。
「ですが今は、違う言葉が好まれる。……選ばれること、価値があること。そうした言葉は、人の心を強く掴む」
言葉を選びながら話しているのが分かる。誰かを非難する口調ではない。ただ、状況を述べているだけだ。
「若い修道士の中にも、あちら側へ行く者が出ています。引き留める理由が……私には、ありませんでした」
クララは、壁の木輪を見て一瞬、既視感を覚えた。街で目にしてきたものと、意匠は同じだった。ただ、素材が違う。
「……木、ですね」
リオが声を落として言う。
「ええ。銀じゃない」
クララも小さく応じた。
「形は……同じ、ですよね」
セリアがそう言ってから、言葉を切る。
三人は、それ以上は口にしなかった。修道士はその様子を見て何も言わず、ただ壁の輪を一度見上げてから、静かに話を続ける。
「昔は……これで十分だったのです」
それだけ言って、言葉を止めた。
そのとき、祈堂の奥で椅子に腰かけていた老修道士が、ふと伊織に目を向けた。じっと黒髪を見つめる。
「……珍しい髪じゃの。この大陸では、あまり見ぬ色だ」
そう言ってから、少し考えるように視線を落とす。
「昔から、語り継がれておる話があってな。このあたりで妙な剣士が暴れ回った、と。多くの魔物を斬り、あらゆる遺跡を荒らし……話が話を呼んで、街中に広まったそうじゃ」
老修道士は肩をすくめる。
「荒唐無稽な話ばかりじゃが、数が多すぎた。領主である辺境伯家にも、当然のように報告が上がったと聞く」
そこで一度、言葉を切る。
「だが、誰も確かめには行かん。人の世に害をなすわけでもない。結局――噂だけが残った」
小さく息を吐く。
「それを、この国の人々は“北の魔人”と呼ぶようになった、という話じゃ」
それ以上は語らなかった。伊織は視線を逸らしたまま、小さく呟く。
「……生きるために、必死だっただけだ」
その声を、リオは聞き逃さなかった。一瞬だけ伊織を見る。
「……やっぱり」
修道院を出て、中央通りへ戻ると、人の流れが一か所で滞っていた。石畳の先で、声が重なっている。
「だから言ってるだろう。あそこでは、悔い改める必要も、これまでの生き方も問われない」
胸元に銀の輪を下げた若い男が、声を張り上げていた。向かいに立つのは、年配の信徒だ。外套には、使い古された布の印が縫い付けられている。
「信じるだけでいい。どんな人間でも、どんな生き方をしてきても、救われる」
年配の信徒は、言葉を失ったように若者を見る。
「……それで、何が残る」
低い声だった。
「汗も流さず、悔いもなく、明日を改めようともせずに、救われたと言えるのか」
若い男は鼻で笑った。
「だから、それが古いんだ。努力だの勤勉だの、そういう話はもう終わったんだよ」
言い切る声には、疑いがない。
「選ばれた者じゃなくていい。何もできなくても、何も成してなくても、“信じた側”に入れば、それで終わりだ」
年配の信徒の顔から、血の気が引いた。
「……そんなものは、救いじゃない。それは、人が人である理由を、投げ捨てる言葉だ」
若い男は答えなかった。答える必要がないとでも言うように、銀の輪に触れ、背を向ける。周囲の巡礼者は息を詰めたまま立ち尽くし、商人たちは目を合わせぬように通り過ぎていった。
口論は終わった。だが、溝だけが、はっきりと残った。
しばらく、誰も口を開かなかった。セリアが小さく息を吐く。
「……同じ言葉を使っているのに、まったく、違うものを見ていたね」
ルヴェリスは頷いた。
「理解し合おうとしていないのではありません。最初から、理解できないのです」
リオは、去っていく若い男の背を見つめていた。
「救われる、って言葉が……あいつにとっては、終わりの宣言みたいだった」
伊織が鼻で短く息を鳴らす。
「楽な話だ。だからこそ、人が集まる」
クララは何も言わなかった。ただ、胸の奥に残った重さを、言葉にできずにいた。
路地を抜けると、街の外れに近い一角に出た。そこでは、数人の信徒が老人を介抱していた。胸元や外套の留め具には、銀色の輪が揃って見える。老人は足を痛めたらしく、壁にもたれて座り込んでいた。
「無理をなさらず」「水をどうぞ」
手際は慣れている。声も柔らかい。老人が礼を言うと、信徒の一人が穏やかに首を振った。
「当然のことです」
施しは本物だ。疑いようもない。
「……善行と、教えの歪みが、同じ顔をしている」
思わず、呟く。
「だからこそ、切り分けが難しいのです」
ルヴェリスが応じた。
通りの端で、少年が立ち止まってこちらを見ていた。胸元には、小さな銀の輪が揺れている。リオが視線に気づき、歩み寄った。
「どうした?」
少年は一瞬ためらい、それから小さく言う。
「……ファルクさまの言葉を聞いて、初めて、生きていていいと思えた」
声は震えていた。縋るような目だった。リオは、すぐに言葉を返せなかった。
「それは……」
言葉を探す、その一瞬。少年の表情が、わずかに強張る。
「でも……あなたたちも、どうせ否定するんでしょう」
その言葉に、リオは言葉を失った。否定した覚えはない。否定するつもりも、まだなかった。だが、少年の目には、すでに答えが用意されている。肯定する者と、否定する者。輪の内と、外。胸の奥が、ひどく冷えた。こんな年端もいかない子どもにまで、その分け方が染み込んでいる。リオは、すぐに何も言えなかった。言葉を選べば選ぶほど、どれも遅すぎる気がした。少年は、その沈黙を見て、わずかに身構える。やはり、とでも言うように。
広場に出ると、人の輪ができていた。その中心で、痩せた男が震える声で語っている。
「弟は……三か月前に死にました。病で……」
群衆が静まり返る。
「でも、あの夜……帰ってきたんです。歩いて、話して……私の名を呼んで……」
拍手が起こり、涙を流す者もいた。クララの指先が冷たくなる。
「死者を……?」
セリアの声が揺れる。
「ありえない……。理論上は……」
ルヴェリスが一歩前に出た。
「死者蘇生は、魔法であれば第十階梯、霊唱術であれば第十階唱に相当します。理論上は存在しますが、人が成し得た例はありません」
周囲がざわめく。
「それは、神の領域とされている現象です。個人が扱える力ではない」
信徒たちの視線が、一斉に刺さった。伊織が低く言う。
「死人が歩くってのは、ロクなもんじゃねぇ」
答えは返らなかった。代わりに、輪の内側の熱だけが強まっていく。
日が傾き、街に灯りが入る。窓辺に、路地に、軒先に。銀の輪が、火を受けて鈍く光った。クララは、その光景から目を離せなかった。
救済の言葉は、すでに街を覆い始めている。
日が傾き、街に灯りが入り始めた。窓辺に、路地に、軒先に、次々と火がともる。昼の喧噪がゆっくりと沈み、代わりに人々の声が低く、柔らかくなっていく。その光を受けて、銀の輪が鈍く反射した。
昼間に見たときよりも、輪は穏やかで、温かくさえ見える。祈りの言葉も、怒号も、今はない。ただ、信じているという静かな確信だけが、街の空気に溶け込んでいる。
クララは、その光景から目を離せなかった。誰かが声高に強いたわけではない。剣で脅したわけでも、奇跡を証明したわけでもない。それでも、人々はすでに同じ方向を向き始めている。救われる、という言葉を、疑う理由を持たないまま受け取っている。
それが、善意と結びついているからこそ、なおさら厄介だった。施しは本物で、涙も本物で、縋る想いも偽りではない。そのすべてが重なり合い、問いを差し挟む余地を、少しずつ奪っていく。
これは嵐ではない。破壊でも、暴力でもない。もっと静かで、もっと穏やかなものだ。気づいたときには、すでに足元まで満ちている、潮のようなもの。
救済の言葉は、まだ街を支配してはいない。だが、選ばれずにいることの不安だけは、確実に芽吹き始めている。
クララは、胸の奥に沈んでいくその感覚を、言葉にできないまま受け止めていた。
侵食は、もう始まっている。




