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クロムヘヴンの偽導者  作者: 甘栄堂
第一章:偽りの光
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第五話:群衆を惑わす声

 クロムヘヴンの朝は、鉄の匂いで始まる。


 〈青鱗亭〉の食堂では、料理よりも先に噂が運ばれていた。給仕が盆を運ぶたびに同じ言葉を落とし、客がそれを拾っては隣の卓へ渡す。誰かが声を張る必要はない。繰り返されるだけで、それは街の予定になる。


「今日は中央広場だそうですよ」

「銀の輪の教団ですって」

「光輪の奇跡……声を聞くだけで、救われるとか」


 言葉は軽い。だが軽いものほど、遠くまで届く。


 リオは椀を置いたまま、そのやり取りを聞いていた。昨夜、食堂に入ってきた男の姿が、否応なく脳裏に浮かぶ。背は高くない。衣は質素だ。声も張らなかった。それでも、視線を向けられた瞬間、意識を外すことができなかった。


 調査対象が向こうから姿を現すなら、足を運ばない理由はない。

 この街に漂う違和感は、避けるものではなく、確かめるべきものだった。


 伊織は窓の外を一瞥し、短く言った。


「人が集まる」


 通りには、すでに人の流れができ始めている。巡礼者の荷、労働者の荒れた手、商人の布袋。目的は違っても、足は同じ方角を向いていた。


「全員で出る必要はない」


 それだけで十分だった。

 セリアは黙って頷く。人混みの中で自分がどう見えるかを、彼女は誰よりも理解している。ルヴェリスも異論を挟まなかった。観察者は、必ずしも現場に立つ必要はない。


 外套を羽織ったのは、リオとクララ、伊織の三人だった。

 中央広場へ向かうにつれ、通りの空気が変わっていく。声が増え、歩調が揃い始める。肩が触れても、誰も咎めない。怒るより先に、同じ方向へ引かれている感覚があった。


「マルテ」

「光輪の奇跡」


 呼び名には拍があり、歌になる手前で抑えられている。その抑制が、かえって期待を煽っていた。

 広場には仮設の壇が組まれ、噴水と傭兵王像を背に、銀の輪と十字の旗が翻っていた。壇の脇には献金箱が並び、木箱の口は喉のように暗い。


 最初に壇へ上がったのは、若い信徒だった。年の頃は二十前後。声は明るく、表情は柔らかい。剣も杖も持たない、街のどこにでもいそうな青年だ。


「皆さん、ようこそ。今日は、忙しい中ありがとうございます」


 歓声が返る。

 若者はそれを制しもせず、煽りもせず、自然に受け止めた。


「ここに集まった理由は、人それぞれだと思います。祈りのための方もいれば、噂を聞いて来た方もいるでしょう」


 彼は一度、広場を見渡した。


「仕事に疲れている方。正しく生きようとして、報われなかった方。誰にも弱音を吐けなかった方」


 いちいち声を張らない。だが、言葉は的確に刺さる。


「光輪の奇跡は、そうした方々のためにあります。過去に何をしたか、どんな選択をしてきたかは問いません」


 胸元の銀の輪に、そっと指を添える。


「努力が足りなかったから苦しい、なんて言いません。信仰が弱かったから報われない、なんてことも言いません」


 群衆の表情が、わずかに緩む。


「ここでは、誰かと比べる必要はありません。早い人も、遅い人も、同じ輪の中にいます」


 その言葉は、安心を与える形をしていた。


「だから、どうか聞いてください。考えすぎなくていい。ただ、耳を傾けてください」


 若者は一歩下がり、深く一礼した。


「……その答えを、今日はこの方が語ってくださいます。私たちが、そう呼ばずにはいられない方――ファルク・マルテ」


 空気が、静かに沈んだ。視線が一点に集まる。群衆の視線が、壇の脇へ一斉に寄せられた。沈黙は、合図のように広場へ落ちた。ざわめきが消えたのではない。


 押し殺されたのだと、リオには分かった。数百人分の呼吸が、同時に浅くなる。

 そこから現れた男を見た瞬間、リオの思考が止まった。


 ――同じだ。


 名も、立場も、何者かも分からない。

 だが、昨夜〈青鱗亭〉の食堂で感じた、あの感覚と完全に重なった。


 背は高くない。体つきも目立たない。衣は質素で、街に溶け込む色合いだ。顔立ちも、記憶に残りにくいほど平凡。それでも、視線だけが違う。見ているようで、測っている。距離を詰めずに、逃げ場だけを消してくる。


 昨夜、杯を持つ手が一瞬止まった理由を、今になって理解した。


 伊織が、リオの前に半歩出る。それは庇う動きというより、位置の修正だった。無意識に身体が選んだ、最短の防御。


 男は壇の中央で足を止める。拍手は起こらない。だが、拒絶もない。すでに場は、受け入れる準備を終えていた。

 男は、ゆっくりと息を吸った。


「……おはようございます」


 声は張られていない。


 それでも、広場の端まで届く。音量ではない。言葉の輪郭が、空気を切り分ける。昨夜と同じだ、とリオは思った。小さな声なのに、聞き逃せない。聞き返す余地を与えない。


「集まってくださって、ありがとうございます」


 誰に向けたともつかない言葉が、なぜか自分に向けられたように感じられる。群衆の中で、同じ錯覚が連鎖しているのが分かった。


「あなたが、ここに立っている。その事実だけで、十分です」


 肯定の言葉が、疑念を溶かす。リオは、周囲の表情が変わっていくのを見逃さなかった。


「孤独な者には名を。倒れた者には手を。迷った者には輪を」


 簡潔で、覚えやすい。祈りのようでいて、祈りより実用的だ。


「ここには、巡礼の方がいる。働く方がいる。商いをする方がいる。家族を支えている方もいる」


 一人ひとりを指さない。だが、誰もが自分のことだと思える距離。


「どれも、尊い」


 間が置かれる。


「……そして、どれも、疲れます」


 群衆の肩が、同時に落ちる。それを見て、男は続けた。


「頑張ったのに、報われなかった人はいますか」


 手は挙がらない。だが、頷きが生まれる。


「誰にも褒められなかった人は」


 頷きが、波になる。


「……大丈夫です」


 その言葉が、努力の重さを静かに削っていく。リオは確信していた。昨夜の男だ。だが、それ以上は何も分からない。分からないまま、場だけが支配されていく。


 男の声は、いつの間にか熱を帯びていた。だがそれは、声量の変化ではない。言葉が、向かう先を変えただけだった。問いかけではなく、許可へ。説明ではなく、断定へ。


「あなたが苦しかった理由を、探す必要はありません」


 ファルクは、静かに言った。


「誰かのせいでも、自分のせいでもない。理由を探すこと自体が、あなたを疲れさせてきた」


 群衆のどこかで、小さく息を吐く音がした。


「世の中は、説明を求めます。なぜ失敗したのか、なぜ遅れたのか、なぜ選び間違えたのか」


 彼は、その“なぜ”を軽く首を振って否定した。


「そんな問いに、答える義務はありません」


 リオは、背筋に冷たいものが走るのを感じた。否定しているのは責任ではない。思考そのものだ。


「現実は、あなたに重すぎる」


 穏やかな声だった。


「だから、輪がある」


 銀の輪が、陽を受けて鈍く光る。


「働けなかった日も、逃げた夜も、間違えた選択も」


 指を折るように、ひとつずつ数える。


「それらは、意味を持ちません。意味を与える必要がない」


 群衆の表情が、ゆっくりと変わっていく。考える顔から、委ねる顔へ。


「あなたが背負ってきた現実は、ここでは外に置いてください」


 輪の内と外。線が、はっきりと引かれた。


「輪の中では、ただ、息をしていればいい」


 それは救済ではなかった。人間を、思考を要しない存在として扱う宣言だった。ファルクは、そこで言葉を切った。


「……今日は、ここまでにしましょう」


 唐突だった。だが、誰も続きを要求できなかった。


「考える時間は、必要です。輪は、逃げません」


 一歩、退く。沈黙が落ちた。それは空白ではない。余韻だった。


 最初に動いたのは、信徒たちだった。誰かの合図ではない。献金箱を抱えた若者が、自然な動きで前へ出る。硬貨が、箱の底に落ちる音がした。澄んだ金属音が、次の行動を許可する。


 ひとつ、またひとつ。


 やがてそれは、小さな雨のようになった。誰も命じていない。誰も強いていない。それでも、人は自分から動いていた。群衆は、熱を抱えたまま静かに散っていった。怒号も、歓声もない。ただ、軽くなったような顔だけが残る。


 〈青鱗亭〉に戻ったのは、夜になってからだった。

 卓についた三人の間には、昼の声がまだ残っている。耳鳴りのように、消えない。


「……嫌な感じだ」


 リオが言った。恐怖ではない。だが、確かな拒否感だった。


「人間を、楽にしてるんじゃないわ」


 クララは低く言う。


「考えなくていい場所を与えてるだけ。――選ばなくていい、責任を持たなくていい、って」


 伊織は、杯の水を一口飲み、静かに言った。


「知性を切り落としてる」


 二人が顔を上げる。


「分かる者ほど、あれを危険だと思う。ああいう言葉はな……現実を生きてきた人間を、最初から相手にしていない」


 その言葉に、リオははっきりと理解した。ルヴェリスがあの場にいれば、同じことを言っただろう。隣の卓の老人が、こちらを見ていることに気づき、やがて立ち上がる。


「……あんたら、昼のを見た口か」


 リオが頷くと、老人は声を落とした。


「昔はな、ルメル・サークと言ってな。木切れの輪を掲げるだけだった」


 両手で、小さな円を描く。


「貧しい者も、旅の者も、皆、その輪の中にいた。入るとか、選ばれるとかじゃねぇ。ただ、囲まれてただけだ」


 老人は、短く息を吐いた。


「だが今の銀の輪は違う。印になる。数になる。数になると……力になる」


 皺だらけの手が、杯を握る。


「輪を持たねぇ者は、外になる。声も、意味も、届かなくなる」


 それだけ言って、老人は席を離れた。


 部屋へ戻る途中、リオは立ち止まり、振り返った。もう見えないはずの広場の方角に、昼の声が残っている気がした。優しく、静かで、逃げ場のない声。それはまだ、何も奪ってはいない。だが、人が生きてきた現実を、最初から不要だと切り捨てる声だった。


 部屋へ戻ると、すでに灯りが入っていた。湯気の残り香が、廊下まで漂っている。石鹸とも薬草ともつかない、温泉帰り特有の匂いだった。


「あ、おかえりなさい」


 ルヴェリスが椅子に腰かけたまま、穏やかに言った。いつもより髪が緩くまとめられている。セリアは窓際に立ち、外を見ていたが、こちらを振り返った。


「……温泉?」


 クララが一瞬、言葉を失い、それから声を上げた。


「ずるい!」


 リオも思わず頷く。


「なんで俺たちが不穏な演説聞いてる間に……」

「勧められたからです」


 ルヴェリスは平然としている。


「この街の湯は、身体よりも思考を緩める、と」

「それ、今聞くと嫌な表現だな……」


 伊織が苦笑した。セリアは肩をすくめる。


「人が多いところ、避けた方がいいって言われたから」


 それで納得がいった。昼の広場を思い出し、誰も反論しない。


「で?」


 ルヴェリスが、ゆっくりと三人を見た。


「聞かせてください。何を見て、何を聞いたのか」


 リオが、昼の出来事をかいつまんで話す。


 若者の前説。

 名を告げぬ男の声。

 現実を外に置け、という言葉。


 話が終わる頃、ルヴェリスの表情から、柔らかさが消えていた。


「……なるほど」


 彼女は静かに息を吐く。


「それは、救済ではありませんね」

「やっぱり、そう思う?」


 クララが身を乗り出す。


「ええ。人間性への配慮が、完全に欠けています」


 ルヴェリスは指を組んだ。


「彼は、人が生きてきた履歴を“ノイズ”として扱っている。努力も失敗も、関係性も。すべてを一度、無効化する思想です」

「楽になるけど……」


 リオが言葉を探す。


「代わりに、何も残らない」


 ルヴェリスは即答した。


「考える主体が、消えます。残るのは、輪の内と外だけ」


 セリアが小さく言った。


「……選ばれた、みたいな顔になる」

「そう」


 ルヴェリスは頷く。


「……まあ」


 ルヴェリスが指を組んだまま、少しだけ表情を緩める。


「今日のところは、私たちが人混みを避けて正解でしたね。湯も、静かでしたし」

「温泉かぁ……」


 クララが天井を仰ぐ。


「聞けば聞くほど、ずるいんだけど」

「次は一緒に行こうよ」


 セリアが、思い出したように言った。

 その声は軽く、悪気は微塵もない。


「今度は、クララも一緒に」

「いいね、いいね!」


 リオがすぐに乗る。


「調査対象に温泉とか、普通に最高じゃない?」


 伊織も肩をすくめた。


「悪くない。街の話も、湯船の方が転がり込みやすい」


 空気が、完全に和んだ――その瞬間だった。

 セリアが、ぽつりと言う。


「……クララの裸、見てみたいし」


 視線が、一斉にセリアへ向いた。


「…………」


 クララが固まる。瞬きすら止まり、次の瞬間、耳まで一気に赤くなった。


「なっ……!?」


 声にならない音が喉で弾ける。

 ルヴェリスは、反射的に視線を逸らした。頬に、分かりやすい熱が上がっている。


「せ、セリア……」


 いつも冷静な声が、わずかに裏返った。


「そういう言い方は……」

「? だめ?」


 セリアは首を傾げる。


「綺麗だと思うし」


 悪意はない。計算もない。だからこそ、場に残る破壊力が凄まじかった。


「だ、だめに決まってるでしょ!」


 クララが叫ぶ。


「なに平然と言ってるのよ!?」

「えー……」


 セリアは少し考え、


「じゃあ、見る前にちゃんと許可取る」

「そういう問題じゃない!!」


 リオは口を押さえ、肩を震わせている。


「……セリア、君、時々とんでもない地雷踏むよな」

「踏んでない」


 即答だった。


「本音言っただけ」


 伊織が、深く息を吐く。


「……まあ、元気そうで何よりだ」


 その一言で、場の緊張がほどけた。クララはまだ赤い顔のまま、椅子に座り直す。


「……と、とにかく。温泉の話は、また今度」

「今度ね」


 セリアは素直に頷いた。ルヴェリスは、咳払いを一つしてから言う。


「……では、その“今度”の前に」


 声は、もう完全に理性に戻っていた。


「明日からは、聞き込み調査です」


 全員の視線が集まる。


「感情ではなく、事実を集めましょう。助けられた人。離れた人。疑問を抱いた人」


 伊織が頷く。


「耳ではなく、足だな」

「ええ」


 ルヴェリスは微笑んだ。


「今日は十分、耳を使いましたから」


 リオは、昼の声を思い出す。

 優しく、静かで、逃げ場のない声。だが今は、仲間の声がある。混乱も、赤面も、怒鳴り声も含めて。それだけで、世界はまだ現実に繋がっていると感じられた。


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