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【第一章:偽りの光】第四話:クロムヘヴン到着

 ヴァルティカを発って北へ。街道はいつしか、土の色を変えていった。赤茶けた平原の道から、青みを含んだ石混じりの道へ。馬車の車輪が小石を噛むたび、乾いた音が跳ねる。


 ジェイド街道を進んだ一行は、丘を越えたところで都市を望んだ。段丘状に重なる石造りの街並みが、陽を受けて鈍く輝いている。煙突は数え切れず、昼であるにもかかわらず、街の奥には赤い光が滲んでいた。


 街に近づくにつれ、人の数は増えていった。巡礼者、商人、行商の馬車。列は自然に伸び、詰まり、また動き出す。


 それでも、列が乱れることはなかった。誰かが立ち止まっても文句は出ず、前へ出る者がいても咎める声は上がらない。不満がないわけではない。ただ、それを表に出す者がいないだけだった。


「……多いね」


 セリアが周囲を見回しながら言った。


「ええ。想像以上」


 クララも頷く。

 ルヴェリスは前方から視線を外さず、静かに言った。


「クロムヘヴンは、今この時期に人が集まる理由があります」


 城門前は雑然としていた。列はあるが、厳密ではない。荷を下ろす者、門番と話し込む者、通行料を巡って小さく身振りを交わす者がいる。門番の中にはドワーフの姿もあり、槍を持つ腕は岩のように太い。


 列の端に立っていた商人風の男が、隣の連れに小さく息を吐いた。


「……またか」


 声は低く、愚痴というより諦めに近い。その視線の先では、数人の巡礼者が門を抜けていく。彼らの胸元には、銀糸を縫い付けた輪があった。目立つものではないが、確かに分かる。


 門番は、特別な言葉をかけたわけではない。


「次」


 それだけだ。しかし、銀の輪を持つ者たちは、滞ることなく中へ通されていく。


「……急いでるわけでもなさそうだがな」


 別の旅人が、誰に向けるでもなく呟いた。


「口に出すな」


 連れの男が、すぐに小声で制した。視線は門の内側へ向いたままだ。


 誰も抗議しない。誰も「優遇だ」とは言わない。だが、列の進み方に微妙な偏りがあることを、全員が感じ取っている。


 伊織はその様子を黙って見ていた。顔には出さないが、目だけが鋭く動いている。


 城門をくぐると、空気が変わった。煤と油、焼けた鉄の匂い。人の汗と香辛料が混ざり合う。通りの両脇には工房が並び、火箸を操る音、金属を叩く音が絶えない。


 露店が軒を連ね、布や革製品、護符めいた小物が並んでいる。その中に、輪を模した飾りがあった。


「お守りだ。今の街じゃ、持ってて損はない」


 売り手は笑いながら言う。


「銀が一番いいが、安いのもある」


 セリアは足を止めかけたが、リオが静かに首を振った。輪は祈りの道具というより、街の空気に溶け込んだ印になりつつあった。


 通りを進むと、掲示板が目に入る。依頼紙や商談の告知に混じって、一枚だけ異質な紙が貼られていた。


 《大集会》


 日時と場所。中央広場。紙の端には、輪の印が押されている。学術教会の外壁にも貼り紙があった。内容は穏当で、注意喚起に留まっている。


 集会当日は通行の混雑が予想されます。

 騒音・口論が生じた場合は係員に相談を。


 止めない。否定しない。管理するだけ。それが、この街の態度だった。


 中央広場に出たとき、一行は自然と足を止めた。噴水の水音が響き、白い石の縁に光が跳ねる。その向こうに、巨大な石像が立っていた。剣を地に突き立て、遠方を睨む男の像。台座には銘文が刻まれている。


 国境を鎮めし剣、都市を拓きし盾。

 初代クロムヘヴン辺境伯。

 アデルハルト・グレイヴ=クロムヘヴン。


「……傭兵上がり、ですか」


 クララが低く言った。


「この街の成り立ちを象徴しています」


 ルヴェリスは淡々と答える。


 像の前には仮設の壇が組まれていた。翻る旗。銀の輪。その中心に、十字。輪だけの印とは明らかに違う。それを身につけているのは、壇の周囲で指示を出す数名の信徒だけだった。衣の上からでも分かる、銀の輪と十字。隠す気配はない。


 その瞬間、伊織の動きが止まった。視線が、紋章に吸い寄せられる。一拍遅れて、表情が硬直した。


「……先生?」


 リオが気づいて声をかける。


 伊織は答えない。眉間に深い皺が刻まれ、唇が強く結ばれている。


「……似てるだけだ」


 吐き捨てるように言って、視線を外した。それ以上は何も語らない。


 だが、一行は察する。あの紋章は、伊織にとって無関係ではない。


 広場は賑わっている。子どもが走り、巡礼者が噴水の縁で祈りを捧げ、商人が声を張る。その賑わいの底に、偏りがある。まだ制度ではない。だが、確かに空気ができ始めていた。


「宿へ行こう」


 リオが短く言った。誰も異論を挟まなかった。背後で、銀の輪と十字の旗が、風に鳴った。


 まずは足場を固めるため、宿をとった。半円形の玄関庇に蔦が絡む老舗宿〈青鱗亭〉は、隊商商人からの評判も悪くない。石造りの食堂は昼でも涼しく、二階の角部屋は通りと中央広場を見下ろせた。


 荷を解くとすぐ、一行は情報の流れを追うべく街へ出た。


 最初に訪れたのは、契約従事者連盟のクロムヘヴン支部だった。受付に立つ職員は銅像のように無表情で、依頼掲示板の前へ一行を導く。その半分以上が、「奇跡」に関する小口の仕事で埋められていた。


「奇跡の護衛、行列整理、記録係……ずいぶん仕事がありますね」


 クララの皮肉に、職員は肩を竦めた。


「市の活況は我々にとっても善です。評判は上々、事故はほぼありません」

「“ほぼ”?」


 伊織が低く問い返した。

 職員は視線を外し、言い換えるように続けた。


「細かなトラブルは、どの街にもあります。ですが、市として把握している限り、重大な事故は報告されていません。巡礼者の満足度も高く、反対意見の多くは、宗派や利権に絡むものです」


 次に向かったのは、クロムヘヴン学術協会だった。白壁の回廊に研究者の影が揺れ、掲示板には“奇跡”に関する講話の告知が三枚も貼られている。老学匠は、熱を帯びた声で語った。


「光輪を介した集団暗示により、苦痛の知覚が変容する。これは心身相関の研究史に新章を開く現象です。反対する者は、宗派的偏見に囚われている」


 伊織は短く礼を述べ、廊下に出ると小さく舌打ちした。


「誉め言葉しか拾えない場所は、耳が塞がっているのと同じだ」

「この分では、他のギルドも同様でしょう」


 ルヴェリスが目を細める。


「『善』という名の布で覆えば、多くのものは形が見えなくなります」

「それでも、どこかにほころびはあると思います」


 リオは視線を上げた。


「どこへ行けばいいでしょうか」

「商業会です」


 ルヴェリスは即答した。


「商人は利害で動きます。理念には比較的鈍感ですから」


 クララが思わず吹き出す。


「言い切りましたね、ルヴェリス先生」


 リオも苦笑して呟いた。


「……その言い方、やっぱりエルフらしいな」


 ルヴェリスは視線を逸らす。


「褒め言葉として受け取ります。利害は、最も正直な言語です」


 伊織がにやりと笑って付け加えた。


「それに、商人は街を出入りする。外を知ってる分、この街の異常も見える」


 商業会館は、香辛料と油の匂いが混じる実務の巣だった。帳場では計算盤が鳴り、執行役らしき男が現れる。銀髭に白が混じり、目は油断なく動いていた。


「“光輪の奇跡”について、率直なご感想を伺いたい」


 ルヴェリスが丁寧に切り出すと、男は周囲を見回し、扉を閉めて声を落とした。


「表では誉めるさ。寄付は任意だしな。……だが、寄付箱の前で立ち止まらぬ者は、この街では露店を出しにくい。不思議な話だがな」


 男は引き出しから粗末な木札を取り出した。輪の中に十字が刻まれている。


「“印”だ。これがないと卸価格で品が回らん。印は信徒から渡される。信徒は誰か? 街のどこにでもいる」


 リオが木札を軽く弾き、クララに顔を寄せて囁いた。


「……輪に十字。何かの象徴だよね」


 クララも小声で返す。


「ええ。意味を持たせすぎると、怖いわ」

「十字は勘定の目印でもあります」


 ルヴェリスが肩を竦めると、男は苦笑した。

 その意匠を見つめていた伊織の表情が、曇った。かつて忠義を捧げた島津家の家紋、丸に十字。あまりにも似ている。


「……気に入らん」


 低く吐き捨てるような声だった。

 一行は息を呑んだ。普段は飄々としている伊織が、露骨に苛立ちを見せるのは初めてだった。


「話は単純だ」


 男が続ける。


「印を持たぬ者は、良い場所に店を出せない。巡礼の列の“光の側”にも近づけない。近づけない者は売れない。売れない者は、声を上げる気力を失う。……それでも任意だと言うなら、それを信じる者こそ盲だ」


 伊織が腕を組んだ。


「事故や揉め事は?」

「増えた。だが、揉めた者は翌日にはいない。別の街へ行ったのだと、皆が言う」


 男は目を伏せる。


「悲鳴は祈りの声にかき消される。そう学んだ」


 短い沈黙が落ちた。


「……ありがとうございます」


 セリアが小さく頭を下げる。


「あなたの言葉は、きっと役に立ちます」


 男は表情を引き締めた。


「この話の出所は、決して漏らさないでくれ」

「心配するな」


 伊織が笑って言った。


「死んでも口は割らねぇ」


 男の顔が、かえって強張った。

 ルヴェリスが一歩前に出る。


「ご安心ください。我々は軽々しく他言する者ではありません」


 ようやく男の表情が和らぐ。その様子を見て、伊織は不満げに口を尖らせた。


「むさい男の言葉より、美人の言葉の方が効くか」

「人徳の違いでしょう」


 ルヴェリスは静かに返した。


 日が落ちると、〈青鱗亭〉の食堂はゆっくりと賑わい始めた。石造りの壁は昼の熱を溜め込み、外気が冷えるにつれて、室内はほどよい温度を保っている。卓ごとに小さな灯りが置かれ、料理の湯気が柔らかく揺れた。


 一行は壁際の長卓に腰を落ち着けていた。焼いた肉と豆の煮込み、黒パン。旅の宿としては十分すぎる食事だが、誰も杯を重ねようとはしない。


「……商業会の話、本当だと思う?」


 セリアが声を潜めて言った。


「作り話には聞こえませんでした」


 クララが答える。


「具体的すぎる。数字や制度を語らず、空気だけを話す人は、たいてい本当のことを言っています」


 リオは黙って皿を見つめていた。視線が自然と、中央広場の方角へ向かう。昼間に見た銀の輪と十字の旗が、頭から離れなかった。


 ルヴェリスが静かに言った。


「連盟も学術協会も、同じ方向を向いていました。否定はしない。ただ、疑問も持たない。あれは、思考停止に近い」


 伊織はパンを割り、ゆっくり噛みながら聞いていた。


「止める理由が無い、って顔だったな。危険が見えないんじゃない。見ない方が楽なんだ」


 その時だった。


 食堂の入口が開き、夜気が流れ込む。客たちの会話が、ほんの一拍だけ途切れた。

 数人の男が入ってくる。衣は質素だが、布地は良く、仕立ても整っている。その中の一人が、自然に先頭へ出た。背は高くない。肩幅も目立たず、体つきはむしろ均整が取れている。


 顔立ちは平凡だった。強い印象を残す造作はない。だが、近くで見て初めて、目が離せなくなる。視線が、静かに人を捉える。鋭さはないのに、逃げ場がない。


 胸元には、銀の輪。

 その中心に、十字。

 幹部信徒なのだろう、と一目で分かる。


 男は店主に軽く会釈した。動作は控えめで、客の視線を集めようとはしない。それでも、周囲の空気がわずかに静まる。騒がしくも、探す風でもない。まるで、そこにいることを最初から知っていたかのようだった。


「……来たな」


 伊織が、低く呟いた。

 男は一行の卓の前で足を止めた。笑みは穏やかで、敵意はない。だが、距離を詰める気配もない。


「突然の訪問をお許しください」


 声は低すぎず、高すぎない。よく通るが、張り上げることはない。耳に残るのは音量ではなく、言葉の切れ目だった。聞き返させない話し方だ。


「良き光を宿す方々が、この街に来られたと聞きまして」


 名乗らない。だが、名を告げる必要もない、という態度だった。視線が、一人ずつをなぞる。リオで止まり、クララで止まり、ルヴェリスで一瞬だけ測るように留まり、そして――セリアへ。

 ほんの刹那。


 セリアの背筋に、冷たいものが走った。理由は分からない。ただ、胸の奥がひどくざわつく。息が一拍、遅れた。男は何も言わない。視線を外し、微笑を保ったまま続ける。


「皆さまが、この街で良き時を過ごされることを願っています。それだけをお伝えしたくて」


 ルヴェリスが一歩だけ前に出た。声は丁寧で、距離を保っている。


「ご配慮、ありがとうございます」


 男は小さく頷いた。


「夜は、人の本心が顔を出しやすい。どうか、お気をつけて」


 その言葉が、忠告なのか、警告なのかは分からない。

 伊織が、男を真っ直ぐに見た。


「名は?」


 男は一瞬だけ、笑みを深くした。その表情に、優しさ以外の感情は浮かばない。


「必要な時が来れば」


 それだけ言い残し、幹部信徒たちを伴って食堂を後にする。扉が閉まると、ざわめきが戻った。誰も彼らを引き留めない。誰も話題にしない。

 しばらく、誰も口を開かなかった。


「……先生」


 リオが小さく言う。


「あの人、何なんですか」


 伊織は杯に残った水を一口飲み、静かに答えた。


「分からん。だが――」


 言葉を切り、天井の灯りを見上げる。


「自分が正しいと、疑っていない顔だった」


 ルヴェリスが頷いた。


「引力のある人物です。威圧ではなく、同調を引き出す型」


 クララは唇を噛んだ。


「……嫌な感じ」


 セリアは、まだ胸のざわつきが収まらないまま、俯いた。

 外では、どこかで祈りの声が上がっている。穏やかで、整った声だ。宿の壁を越えて、夜の街に溶けていく。

 その音を背に、伊織は短く言った。


「明日だな」


 誰も異論を挟まなかった。


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