【第一章:偽りの光】第三話:中継都市ヴァルティカ
サヴェルナを発って北東へ。タリス街道は、なだらかな平原をまっすぐ貫いていた。遠くの地平線は白くかすみ、その手前を一本の川が銀の糸のように横切っている。源流はヴォロデツクの高地にあり、そこから流れ出た水が平野を潤し、やがてサヴェルナの近くを通っていくのだと、ルヴェリスが簡単に説明した。
昼前、街道に沿って低い城壁がのび、その向こうに屋根の群れが見えはじめた。北方交易の要衝ヴァルティカである。
門をくぐると、空気の密度が一段変わった。土埃に、香辛料と焼いた肉と干し魚の匂いが混ざり、行き交う人の声が層をなして押し寄せてくる。
「すごい、人……」
セリアが思わずつぶやく。通りは荷馬車と背負い籠と行商人で溢れ、露店が道幅を奪い合っていた。布地を広げる商人、塩の塊を割る男、革を叩いて艶を出す女、串に刺した肉を焼く屋台からは、油のはじける音が絶えない。遠くの路地では鍛冶場の槌音がカン、カンと響き、荷を引く獣ラクが鼻を鳴らして行き交う人の波を押し分けていた。
「ここを抜ければ中央広場です。市場の中心に、噴水と……騒がしい何かが、あるようですね」
ルヴェリスがわずかに眉をひそめ、先を見やる。確かに人の流れは一方向へと吸い寄せられ、その先からは妙に揃った歓声が、風に乗って断片的に届いていた。
中央広場は、街の心臓そのものだった。噴水を中心に大きな円形の空間が開け、その一角に、急ごしらえの木の壇が組まれている。壇の上には粗末な旅装束の男たちが数人立ち、胸には銀糸で縫い取られた輪の印が光っていた。その前には、びっしりと人垣ができている。
「……あれは?」
リオが思わず足を止める。壇上の男のひとりが両手を広げ、よく通る声で叫んだ。
「聖者マルテのお名を讃えよ!」
「マルテ!」
人波がどっと応じる。続けて、別の言葉が響いた。
「光輪の奇跡に感謝せよ!」
「光輪の奇跡!」
唱和は拍子を持ち、まるで歌の一節のように繰り返される。手を打つ音、歓声、笑い声。周囲の屋台まで、その熱に押されて静まりかえっていた。
「……“光輪の奇跡”?」
リオの眉がぴくりと動く。連盟の支部で聞いた依頼の名が、そのままの形で、見知らぬ街の広場に響いている。
「どうやら、調べ物の方が向こうから出迎えてくれたようだなぁ」
伊織が肩をすくめて笑った。
一行は人波の後ろに回り込み、少し離れた場所から壇上の様子を眺めた。男たちは代わる代わる前に出て、似たような文句を繰り返している。
「苦難は終わる! 痛みは過ぎ去る! 聖者マルテは、あなたの傷口に光を置かれる!」
「マルテ!」
「あなたがどれほど怠けていようと、どれほど報われずにいようと、関わりはない! ただ、この輪の内に在りさえすれば、すべては等しく赦される!」
「光輪の奇跡!」
群衆が歓声と共に両手を掲げる。中には涙を流している者もいる。子どもを抱き上げて見せる女、互いの肩を組んで揺れる若者たち。言葉の善し悪しではなく、「一緒に叫ぶ」ことそのものが目的になっているように見えた。
「……なんだか、嫌な感じですね」
クララが小さくつぶやく。顔色は悪くないが、目は笑っていなかった。
「ただの演説、ですよね?」とセリアが首をかしげる。「なのに、あんなに……」
ルヴェリスは群衆と壇上を交互に見やり、静かに息を吐いた。
「言っている内容が問題です。“怠けていようと関わりはない”“ここに居ればすべて赦される”……それは、理解し、選び、積み重ねるという七理の前提を、最初から否定している」
壇上では、先ほどとは違う男が前に出ていた。傍らには、地味な服の中年の女が一人、俯きがちに立っている。
「ここに、ひとりの姉妹がいる!」
男が女の肩に手を置き、声を張り上げる。
「この者は、夫を病で失った! 絶望し、働き、それでも報われず、悲しみに沈み続けた! だが――」
男はそこで言葉を区切り、観衆を一度見渡した。
「だが、光輪の奇跡は生と死の境すら取り払う!この姉妹の夫は、聖者マルテの光によって甦り、新たな命を得て戻られた! そうでしょう?」
男がそう呼びかけると、前に立たされた女は、涙で濡れた目を輝かせながら大きく頷いた。
「はい……! 夫は帰ってきました! あの方は、わたしたちを見捨てなかったのです……!」
声は震え、けれど幸福に満ちていた。
男はさらに声を張り上げる。
「聞きましたか皆さん! 死を越えて、家族の元へ帰られたのです!これが、聖者マルテの光輪の奇跡! 術理を超え、努力すら不要とし、ただ在るだけで救われる新たな秩序なのです!」
群衆は歓喜の声を上げ、手を打ち鳴らし、女の言葉に涙さえ流していた。
壇上で掲げられた“奇跡”は疑われることなく受け入れられ、喜びの波が、広場の隅々まで押し寄せた。
「マルテ!」「光輪の奇跡!」
叫びが幾重にも重なり、広場の石畳まで震えたように感じられる。
クララは鳥肌が立つのを自覚した。死者が甦る――言葉として聞けば、ただの物語の一節だ。だがそれを、本気で信じて熱狂している人々の顔が、どうしようもなく気味悪く見えた。
「……あれ、本当にできるのでしょうか」
思わず漏れた声に、ルヴェリスが即座に答える。
「蘇生の霊唱術と魔法は、理論上は存在します。霊唱術なら第十階唱、魔法なら第十階梯に属しますが……」
ルヴェリスは少し言葉を区切り、淡く首を振った。
「いずれも“世界の理を揺るがす”と伝えられる領域で、実際に扱える者がいたのかどうかさえ定かではありません。少なくとも、あの壇上の連中の口ぶりを見る限り、とても触れられる段ではないですね」
その口調は淡々としていたが、瞳の奥には冷たい怒りが宿っていた。
「“だれでもここに居れば赦される”“努力はいらない”――そう繰り返して、人を縛る。ああいうものは、異端と言って差し支えません」
「リオ?」
クララが隣を見ると、リオは黙ったまま群衆の波を見つめていた。表情に強い感情は浮かんでいない。ただ、どこか遠くを見るような目つきだった。
「……こっちの世界にも、ああいうのがあるんですね」
ぽつりと漏らした言葉は、仲間にだけ聞こえるような小ささだった。
「元の世界にもあったの?」とセリアが首を傾げる。
「似たようなのは、いくらでも。何もかも上手く行かない人を拾って、“ここにいれば大丈夫”って言って、代わりに全部考えるのをやめさせる。そういうのは、だいたいろくな終わり方をしない」
言ってから、リオは自分の言葉の棘に気づいたように、わずかに口をつぐんだ。
「ともかく、今は様子を見ましょう。長居して聞く話でもありません」
ルヴェリスの言葉に従い、一行は人垣から離れた。広場の喧噪を背に、表通りから一本入った路地にある旅籠を見つける。木の看板には、素朴な湯呑の印が刻まれていた。
部屋を取り、荷を置くと、夕刻まではそれぞれに時間を過ごした。クララは窓辺で日記を広げ、セリアは市場で買った菓子をつまみながら寝転んでいる。ルヴェリスは机で地図を広げ、ヴァルティカとクロムヘヴンを結ぶジェイド街道の情報を書き込み、伊織は黙々と刀の手入れをしていた。
「……さっきの、やっぱり変でしたよね」
夕餉の席で、温いシチューを前にしたとき、クララが口を開いた。宿の食堂は旅人たちで賑わっており、どの卓でも今日の出来事が肴になっている。やはり広場の説教の話題も多く、あちこちで「マルテ」「光輪の奇跡」という単語が聞こえた。
「何と言いますか……あれほど荒唐無稽な話を、誰も疑わない顔で聞いているのが、いちばん怖かったです」
「でたらめだからこそ、信じやすいのかもしれませんね」とルヴェリスが淡々と言う。
「現実の理に照らして少しでも検証できる話は、疑われる余地があります。でも“全部ひっくり返る”とだけ言ってしまえば、楽な方を選びたい人には都合が良い」
セリアはパンを齧りながら、眉間にしわを寄せた。
「だって、“ここに居るだけでいい”って……そんなの、ちょっと子どもだって変だって分かりますよ」
「分からないくらい追い詰められている人も、世の中には多いのです」
ルヴェリスの言葉に、セリアは口をつぐんだ。
「群衆ってのはな」
シチューの皿を半分ほど空けたところで、伊織が匙を置いた。どこか楽しげな声音だった。
「声が揃えば勝手に熱を帯びるもんだ。誰かが手ぇ叩きゃ、もう一人が叩く。太鼓が入れば足も動く。そこに“聖者”だの“奇跡”だの看板が立ってりゃ、なおさらだ」
「先生……」
リオがたしなめるように名を呼ぶ。
「そうやって軽く言われると、不安になります。俺たちは調査に来ただけですけど、“光輪の奇跡”があの熱狂と結びついているなら、放っておくわけにも」
「放っときゃいいんだよ」
伊織はあっさりと言い切った。
「どのみち、ああいうのはしばらく騒いで、勝手に落ち着く。上から押さえ込もうとしても、火種を散らすだけだ。……ええじゃないか、ええじゃないか、ってな」
最後の一言だけ、妙に楽しそうだった。
「ええじゃないか?」
セリアが面白がって繰り返す。
「先生のところの言葉ですか?」
「昔あった騒ぎの掛け声さ。誰も何をしてるのか、よう分かっとらんまま踊り続けてた。今のあれを見とると、ちょいと似てるなと思ってな」
伊織がそう言って笑うと、セリアはすっかり面白がってしまったらしい。
「ええじゃないか、ええじゃないか!」
椅子の上で小さく揺れながら、意味も分からず唱和を真似る。その様子に、クララとリオは思わず苦笑し、ルヴェリスは「やめなさい」と軽くたしなめながらも、口元にわずかな笑みを浮かべていた。
重く沈みかけていた空気が、少しだけ軽くなる。
その夜。灯りが落ち、宿が静まりかえっても、リオの目は冴えたままだった。窓の外からは、まだ遠くで歌う声や笑い声がかすかに聞こえる。広場の熱気は、完全には冷めていないらしい。
(……少し、歩いてこよう)
そう決めると、リオは慎重に寝台を抜け出し、外套を羽織って部屋を出た。木の階段が小さく軋む。夜番の主人に一声かけ、冷えた夜気の中へ踏み出す。
石畳は昼間よりも固く冷たく、吐く息は白かった。酒場の前には酔った男たちが座り込み、歌とも呻きともつかない声を上げている。そんな喧噪を抜け、リオは自然と中央広場へ足を向けていた。
昼間の壇は、今は暗闇の塊のように見えた。だが噴水の縁には、ひとりの若者が腰を下ろしていた。まだ二十にも届かないような年頃で、粗末な上着に、昼の説教者と同じ銀の輪の印を胸に縫いつけている。
「マルテは救いを与える……光輪の奇跡は、すべてを新しくする……」
若者は、誰にともなく小さな声で言葉を繰り返していた。祈りというより、自分に言い聞かせているような調子だった。
リオが近づくと、彼は気づいて顔を上げた。
「……旅の方ですか?」
月明かりの下で見るその瞳は、熱を孕みながらも、どこか疲れていた。
「そうです。さっき、昼間の話を少し聞きました」
リオが答えると、若者の表情がぱっと明るくなる。
「聖者マルテのお話を、ですか? でしたら、少しだけでも聞いていってください。あの方が、どれほど多くの者を救っているかを」
断りきれず、リオは噴水の縁に腰を下ろした。若者は自分のことを語りはじめる。
貧しい家に生まれ、いくら働いても食べていくだけで精一杯だったこと。病気の母を看取ったとき、誰も助けてはくれなかったこと。仕事場では失敗ばかり責められ、友と呼べる相手もいなかったこと。
「そんなときに、ファルクさまの言葉を聞いたんです。“ここに来なさい。何も持たず、何もできなくてもいい。ただ輪の中に在りなさい”って。初めてでした。自分が、いてもいい場所を見つけたって思えたのは」
若者は照れたように笑った。
(……ファルク?)
聞き慣れない名が、胸の奥に小さく引っかかった。
だがリオは、それを言葉にはしなかった。
「みんなで声を合わせて祈ると、胸の中のざらざらしたものが、少しずつ削れていくんです。昼間の姉さんも、前は本当にひどい顔をしていました。でも今は、あの通りです」
リオは黙って、熱心に語る若者の様子をひたすら観察していた。
「あなたも、光を持っているでしょう?」
ふいに向けられた言葉に、リオは瞬きをした。
「光?」
「はい」
若者は即座に頷いた。迷いはなかった。
「だって、足を止めてくれたじゃないですか」
それが理由らしかった。
「ほとんどの旅人は、聞こうともしない」
若者は小さく笑う。
「でも、あなたは立ち止まった。だから、きっと大丈夫だと思ったんです」
大丈夫、という言葉が、奇妙に胸に引っかかる。
「それに……」
若者は自分に言い聞かせるように、しかし次第に熱を帯びて続けた。
「ファルクさまの教えは、難しいことを何ひとつ求めません」
彼は言葉を区切り、噴水の水面を見つめる。
「正しくあろうとしなくていい。強くあろうとしなくていい。ただ、輪の中に来ればいいんです」
顔を上げ、今度はまっすぐにリオを見る。
「居場所がなくても、何も持っていなくても、誰にも誇れるものがなくても」
若者は微笑んだ。
「世の中には、いろんな神さまや女神さまがいます」
若者は、噴水の水面から視線を上げて言った。
「でも、どれを信じても、結局救われない人は救われない。それが、現実なんです」
言い切る声は、静かだった。
「正しく生きたからとか、たくさん祈ったからとか」
首を横に振る。
「そういう理由で救われるなら、誰も絶望しません」
そして、そこで初めて笑った。
「光輪の奇跡は、違います」
「信じてきたものも、間違えてきたことも、何も問わない」
「救われる資格があるかどうかなんて、考えもしないんです」
一拍置いて、言葉を結ぶ。
「だから……」
「いかなる人にも、救われる“用意”がある」
「それこそが、本当の救済だと、ファルクさまは教えています」 息をつく間も与えず、言葉を重ねる。
「争わなくていい。比べなくていい。間違えても、切り捨てられない」
声は穏やかなままだったが、その確信だけは揺るがなかった。
「……こんなに楽で、こんなに優しい教えが、他にありますか?」
一拍置いて、最後の一言を投げる。
「それでも、信じない理由がありますか?」
問いは疑問の形をしていたが、答えを求めてはいなかった。
「まあ、今じゃなくてもいいです」
若者はふっと力を抜いた。
「大事なことですから。考える時間は、ちゃんとあります」
そう言って立ち上がる。
「また、どこかで会えたら」
軽く会釈し、付け加える。
「そのときは、続きを話しましょう。どうして光輪の奇跡が必要なのかを」
銀の輪の印が、夜の灯りを受けて静かに揺れた。
* * *
翌朝。荷をまとめて宿を出ようとしたとき、入口のそばに立つ人影に気づいた。昨夜の若者だった。
「おはようございます」
彼はまっすぐにリオを見つめ、軽く頭を下げた。
「昨日の話なんですけど」
若者はそう切り出した。
「……まだ、考えている感じでしたよね」
問いかけというより、確かめるような口調だった。
「でも、それでいいと思うんです」
彼はすぐに続ける。
「すぐに決められない人の方が、光は残りやすいって、ファルクさまは言っていましたから」
背後で、クララとセリアがわずかに息を呑むのが分かった。ルヴェリスも黙って様子を見ている。
リオは答えを探した。だが、やはり言葉にならない。
否定したい気持ちはある。けれど、彼が語った孤独と渇望を思うと、「全部まちがっている」と切り捨てる言葉が喉の奥で絡まり、出てこなかった。
沈黙の時間が、妙に長く感じられる。
若者はそれ以上踏み込まず、代わりに小さく笑った。
「また、どこかで会えたら」
そう言って、軽く会釈する。
彼は背を向けると、すぐに人波の中へと紛れていった。
その背中が見えなくなるまで、リオはただ立ち尽くしていた。
「どうして、何も言わなかったのです?」
若者の姿が完全に消えてから、ルヴェリスが問うた。
「言い返す言葉が、浮かばなくて」
リオは正直に答える。
「否定したい気持ちはあるのに、うまく形にならないんです。宗教が誰かの支えになっているのも知っているから、全部だめだと言い切るのも、違う気がして」
ルヴェリスは少しだけ目を細めた。
「ならば、どう言えばよかったのか分からない、ということですね?」
「……はい」
「私の答えは単純です」
そう前置きしてから、ルヴェリスはきっぱりと言い切った。
「だめなものは、だめなものです」
あまりに真っ直ぐな言い方に、リオは思わず目を瞬かせた。
「……南雲先生みたいだ……」
ぽつりと漏らした一言に、ルヴェリスがぴくりと眉を跳ね上げる。
「一緒にしないでください!」
頬をわずかに染めて言い返すその姿に、クララとセリアの口元がほころんだ。重くなりかけていた空気が、ほんの少しだけ緩む。
それでも、若者の言葉と背中の残像は、リオの胸の奥に小さな棘となって刺さり続けていた。




