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【第一章:偽りの光】第二話:旅路の途上

 タリス街道を北東へ向かう荷馬車は、日ごとに三十キロほどの距離を静かに稼いでいた。春先特有の涼しさがまだ残っているものの、陽光は少しずつ強さを帯び、草原を渡る風には新しい季節の匂いが混じっている。


 荷台は相変わらず揺れ、座っているだけで腰の奥に鈍い痛みが蓄積していく。


「……尻が痛ぇ」


 伊織がぼそっと呟き、体勢を変えた。板張りの荷台に布を敷いた程度では誤魔化しようもない。


「先生、前に『ここはあの世だ』って言ってましたけど……」


 リオが苦笑しながら言う。


「こんなにお尻が痛くなる“死後の世界”ってあるんです?」

「うーん……ないな」


 伊織はあっさり認め、肩を竦めた。


「走り続けりゃ息も切れるし、腹も減る。馬車に揺られりゃ尻も割れそうだ。死んでるとは思えん」

「ですよねぇ」

「だとすりゃ……俺はどこから来て、どうやってここに辿り着いたんだろうなぁ」


 その言葉に、リオの表情がわずかに引き締まった。ここだけは、ずっと気になっていた。


「先生。元々どこにいたんですか? 日系の人ってのは分かりますけど……アメリカでも、日本でもなさそうで」

「ああ、日本人だよ。薩摩だよ」


 あまりに平然と告げられたその響きに、クララが思わず身を乗り出した。


「……鹿児島、ですか?」

「おう! 詳しいなぁ、お前!」

「あ、はい……日本史が好きなんです。特に——中村半次郎に興味があって」

「半次郎さんか!」


 伊織はぱっと表情を明るくした。


「あの人は酒も女も強いし、粗暴なところもあるが情に厚い。剣の腕も並じゃない。いやぁ……目の前にいると緊張するぞ。怖い人だが、頼れるしな。さすがは半次郎さん、って感じだ」

「……………………え?」


 クララとリオが同時に固まった。


「えっと先生……今、『目の前にいると』って言いました?」

「『半次郎さん』って、まるで同時代の人みたいに……」

「ん? 実際に会えば分かるさ。あの眼光はな——」

「先生っ!中村半次郎は百五十年以上前の人物ですよ!」


 クララが身を乗り出し、ほとんど叫ぶように言った。


「幕末の薩摩を代表する剣士で、西郷隆盛の側にいた人で、

 史料にも逸話にも名前が残っていて……!」

「……誰だっけ、それ」


 リオが小声で呟く。


「ちょっとリオ、そこ!?」


 クララが即座に振り返った。


「え、いや……名前は聞いたことある気はするけど」


 困ったように頭をかく。


「日本史、ちゃんとやってないでしょ!」

「やってたけど、そこまで詳しくは……」


 二人の温度差など気にも留めず、クララは勢いを止めなかった。


「その中村半次郎と、“目の前にいると緊張する”って……今そこにいる人みたいな言い方をされたら、

 混乱しない方がおかしいです!」


 伊織は腕を組み、ぽかんとした顔で二人を見比べた。


「……何だお前ら。俺が嘘つくように見えるか?」

「嘘とかじゃなくて……!」


 クララは一瞬言葉に詰まり、それでも続ける。


「理解はしてるんです。伊織先生が普通じゃない時間を生きてきたってことも」


 そこで一拍置き、声のトーンを落とした。


「でも……教科書の中の人物と、同じ時代を生きて、剣を見て、言葉を交わしてたって聞かされたら……頭が一回、止まるんです」

「……それは、まあ」


 リオが曖昧に相槌を打つ。

 彼自身、中村半次郎という名前に強い実感はない。

 だが、クララの反応だけで「相当な人物なのだ」ということは分かった。


「先生が長生きなのは知ってる。理屈では分かってるんだけどさ……」


 リオは少し間を置き、素直な疑問を口にした。


「……でも、そんな昔の人と同時代を生きてたって話を、こう、さらっとされると……」


 視線を上げ、伊織を見る。


「……なんで、まだ生きてるんですか?」


 一瞬の沈黙。


「何だお前! 失礼な!」


 伊織が即座に言い返した。


「生きてちゃ悪いのか!俺だって好きで長生きしてるわけじゃねぇ!」

「いや、悪いって意味じゃなくて……!」


 リオが慌てて両手を振る。


「純粋な疑問というか……その……」

「言い方ってもんがあるだろうが!」


 伊織は鼻を鳴らし、ぷいと顔を背けた。

 その横で、クララはまだ半分夢見心地のまま呟いている。


「……でも……本当に会ってたんだ……」


 興奮と混乱が入り混じったその声に、

 伊織は小さくため息をついた。

 その横で、ずっと黙っていたルヴェリスが、おずおずと手を上げた。


「……あの、ひとつ伺ってよろしいです?」


 三人が同時に振り向く。


「“ナカムラ・ハンジロウ”とは……どなたなのです?」


 ルヴェリスが首を傾げた。


「百五十年以上前の……日本の英雄です」


 クララが答え、言いながら自分でも混乱する。


「でも……伊織先生は、ついさっき会ってきたみたいに話してて……」


 ルヴェリスは一瞬だけ考え込み、それから静かに言った。


「……百五十年という時間自体は、特に問題ではありません」

「ただ、人間が“歴史”を、あの距離感で語るのは珍しいですね」


 伊織は肩をすくめた。


「何だよ。俺が昔話しただけだろ」


 ルヴェリスは小さく息を吐いた。


「ええ。だからこそ、少し興味深いのです」


 この瞬間、セリアの視線がふっと鋭さを帯びた。


「……ねぇリオ」


 袖が軽く引かれる。


「あなた達三人、やっぱり“同じ場所”から来たんじゃないの?」


 リオは息を呑み、クララも目を見開いた。

 隠していたわけではない。ただ、聞かれなかっただけだ。


「……そうだよ」


 リオがゆっくりと頷く。


「うん。わたし達は、同じ世界から来たの」


 クララも穏やかに続けた。

 ルヴェリスは、その答えを聞いても驚きより“納得”の色を浮かべた。


「なるほど……そういうことでしたのね。どうりで、術式に対する感性が他の学生とは違うわけです」

「えっ、そんなに違いました?」


とクララが聞くと、


「もちろんです。良い意味で、ですが」


とルヴェリスは微笑んだ。

 セリアは胸に手を置き、ぽつりと呟いた。


「そう。やっぱり……そういうこと」


 馬車はそのまま街道を進み、ちょうどその頃、丘の影の向こうに宿場町スヴィロの屋根が見え始めていた。

 そして、町の入口。

 旅人が行き交う街道の真ん中に、ひとりの影が立っていた。

 風に外套を揺らし、細身の湾曲剣を腰に下げた若い男。

 鋭い琥珀色の瞳が、まっすぐリオへ向けられている。


「——リオ・ナカムラ。噂どおりの姿だな」


 リオが息を呑む。


「サヴェルナで聞いた。魔物を一太刀で斬り伏せた若い契約従事者がいる、と。サヴェルナの連盟は噂が広まるのが早い。旅人が通れば一日で街道の先まで届く。その腕前——ぜひ確かめたい」


 セリアは思わずクララの腕を掴んだ。

 伊織は「やれやれ」と言わんばかりに頭をかいた。

 男は胸に手を当て、名乗った。


「エルゼヴァン神聖教国の騎士——カリオン。貴殿に一戦、手合わせを所望する」


 空気がきゅっと張りつめた。


「手合わせと言われても……」


 リオは剣を少し下げ、戸惑いを隠せない声で言った。


「俺はまだ、修行始めて一年そこらの初心者なんだって……。第一、実戦みたいな“殺し合い”なんて、やる気はないぞ?」


 その言葉に、カリオンはわずかに眉を上げた。だが、すぐ静かな声で否定する。


「誤解だ。手合わせは“殺すため”ではない。基本は寸止め。命を取りに行く真剣勝負ではない」


 リオはほっとしたように息をついたが、すぐに眉をひそめた。


「それならいいけど……噂が勝手に広まってるのも困るんだよな。俺、まだまだ初心者だし」

「だが、魔物を両断したのであろう?」


 カリオンは淡々と返す。


「実戦ほど、真価を映すものはない」

「……その話、広がるの早すぎない……?」


 リオは小声でクララに囁く。


「何でも噂になるのよ、この世界は」とクララも小声で返した。


 伊織は軽くため息をついた。


「やるしかあるまい。逃げても面倒が増えるだけだ」

「ですよねぇ……」


 周囲の旅人たちが距離を取り、簡易的な輪ができていく。

 リオとカリオンが向かい合うと、外套の裾がふわりと弧を描いた。


「では——始めよう」


 カリオンと名乗った異国の剣士は、周囲の喧騒など存在しないかのように、ただひたすらリオだけを見据えていた。

その眼差しは揺るがず、静かで、どこか張りつめている。


 しかし──構えを取ったその瞬間。カリオンの唇が、わずかに動いた。


「……炎よ、輪となりて敵を灼け──」

「詠唱……?」クララが息をのむ。


 リオも驚いて構え直した。


「魔法剣士なのか……?」


 本来なら空気が熱を帯び、詠唱の途中で術式が光を帯び始める。

 しかし。

 沈黙。

 わずかな揺らぎすら生まれない。

 二度、三度と詠唱を変えてみせても、すべて“無”。


 詠唱が誤っているのではなく、術が立ち上がる“土台そのもの”が存在しないかのような静寂。


「……これは……?」


 カリオンの声に、困惑と警戒が混じる。本来なら術式が立ち上がり、空気が熱を孕むはずの詠唱——だが、いくら詠唱しても“沈黙”しか返ってこない。


(術が……立たない? 何故だ……?)


 焦りが胸をかすめた瞬間、彼の視線は自然とリオの足元へ落ちた。徐々に間合いを詰めようと、僅かずつだがにじり寄ってきている。噂に聞いた“魔物を両断する斬撃”の残像が、脳裏にちらつく。


(……魔法が使えぬ以上、距離を詰めるしかない。だが……この男の一撃を、真正面から受け止められるのか?)


 剣士としての勘が告げる。

 ——魔物を一刀両断するという剣士。踏み込めば、斬られる。張りつめた沈黙が、周囲の空気を凍らせていた。

 その緊張を、一瞬で断ち切ったのは——


「——はい、終わり」


 伊織だった。

 風が吹いたのかと錯覚するほど自然に、二人のあいだへ入り込んだ。


「動かねぇなら無駄だろ。これで終いだ」


 語気は軽いのに、拒む余地のない “絶対の断言” だった。

 カリオンは瞬きもせず、伊織を見た。


(……何だ、この“底”。読み取れない……)


 恐怖ではない。

 剣の道を歩む者がごく稀に出会う、

“実力差を本能が告げる時の静かな畏れ” だった。

 カリオンは剣を収め、短く告げた。


「……失礼した。若き従事者よ、また機会があれば」


 そう言うと、踵を返し——街の奥、クロムヘヴンへ続く街道へと歩き去っていった。周囲にざわめきが戻る。


「……何だったんだ、今の」


 リオが呟き、クララが駆け寄る。


「リオ、大丈夫!?」

「うん、平気。……何もされてないし」


 そう口では言いながら、リオは自分の胸のあたりを無意識に押さえた。

 攻撃は受けていない。痛みもない。

 ただ——あの瞬間、理由の分からない“圧”のような緊張が、胸の奥に貼りついたまま残っていた。


「……変な感じだな。怖かったってわけでもないんだけど……なんか、息の仕方が分からなくなる瞬間があった」

「緊張が抜けてないだけよ」


 クララが軽く息を吐き、リオの背をさすった。周囲では、ぽつぽつと見物人たちの声が上がり始めていた。


「今の、やっぱり不発だったよな……?」

「詠唱してたのに、光らなかったぞ」

「エルゼヴァンの騎士だろ? 外すなんてこと、あるのか……?」


 好奇と戸惑いと、少しの畏れ。

 さまざまな色を帯びた視線が、リオに突き刺さる。


「……見物されたくてやったんじゃないんだけどなぁ……」


 リオが肩を落とすと、伊織が肩で笑った。


「まぁ、お前さん、すっかり“噂の若い剣士”らしいからな。嫌でも目立つ」

「嫌ですよ、俺は……」

「贅沢言うな。強い奴はどうしたって目立つ」


 軽口なのに、妙に説得力がある。

 そこへ、長身の影がすっと近づいてきた。


「……不思議な現象でしたわね」


 ルヴェリスだった。

 白い肌に青い瞳、腰まで届く金の三つ編みが春風に揺れる。


「先生……さっきの、“あれ”」


 クララが不安げに問いかける。


「“あれ”って……?」とリオ。


 ルヴェリスはふたりを見比べ、小さく息を吐いた。


「正直に申し上げますと、見ていて背筋が冷えました。――リオ。あなたの周囲だけ、マナが完全に沈黙していました」


 その言葉に、伊織の表情がわずかに揺れた。

 “マナ”——この世界では術理の語だが、彼にとっては妻が幾度も口にし、娘に与えた大切な名でもある。

 ふと視線がルヴェリスの横顔へ流れ、金の髪越しに見える聡い眼差しが、かつて寄り添った日々の記憶をかすかに呼び起こした。伊織は小さく息をのみ、何事もなかったように視線を戻した。


「沈黙……?」

「ええ。あの騎士が使おうとしたのは“魔法”ですが……」


 ルヴェリスは静かに続けた。


「魔法は、体内に貯えたマナを“外へ押し出す力”があって初めて成立します。

 詠唱はその放出のための“構え”にすぎません。

 本来なら、術者のマナが外へ流れ出し、炎や雷の形をとるはずなのですが……」


 薄い青色の瞳がリオを見つめる。


「あなたの周囲では、その放出が——完全に遮られていました。

 まるで、外側へ押し出す前に、術者のマナが霧散してしまうような……そんな奇妙な静けさでした」

「え、ちょっと待ってください。

 それって……俺に“濃いの”が溜まってるってこと?」

「乱暴に言えば、そうなりますわね」


 リオは思わず顔をしかめた。


「なんか……すごく迷惑な体質みたいに聞こえるんだけど……」

「迷惑かどうかは、これからの使い方次第です。ただ一つ、はっきりしているのは――」


 ルヴェリスはしばらく黙り、言葉を慎重に選んでから口を開いた。


「先ほどの“魔法が沈黙する現象”ですが……あれは、越境者に見られる特性と考えられます」


 クララが小さく息をのむ。リオは眉を寄せたまま黙っている。


「まず、魔法は“体内マナの濃度”によって成否が決まります。術者自身のマナを外へ放つとき、相手のマナ濃度が自分より高いと、術は発動途中で押し返されるのです」


 彼女は手を軽く前へ出し、見えない壁に触れるかのように示した。


「今回の騎士——カリオン殿は、体内マナの濃度がそれほど高くありません。対してリオは、越境者特有の影響でこの世界の住民ではありえないほど高いマナ濃度を内包しています」

「……俺が?」


 リオは思わず自分の胸に手を当てた。


「ええ。その“差”があまりに大きかったため、カリオン殿の魔法は発動途中で圧し潰されたのです。術が失敗したのではなく、成立する前に消えたと言うべきでしょう」


 クララは不安げに尋ねる。


「リオ自身に、危険は……?」

「ありません。ただ、魔法を用いる相手には“術を封じてしまう”可能性が高いというだけです。霊唱術は精霊が媒介するので、マナ濃度の衝突は起きません。影響を受けるのは魔法体系だけなのです」


 静かな声だが、言葉の一つひとつに確信があった。


「異界、異界と言うが……」


 そこで、伊織が腕を組んだまま首をかしげた。


「それは結局、何なんだ? 国が違う、ってのとは違うのか」


 ルヴェリスは一瞬考え、比喩を探すように空を仰いだ。


「そうですね……。国が違う、というのは“地図の上で場所が違う”程度のお話です。異界というのは――地図そのものが違うところから来た、ということです」

「地図そのものが?」

「はい。この世界とは別の“理”と“歴史”を持つ場所。時の流れも、空の形も、魂の扱われ方さえ異なるかもしれない――そういう場所を、便宜上“異界”と呼んでいるのです」


 伊織は難しい顔で頭をかいた。


「ふーむ……地図が違う。理も違う。つまりだな……やっぱり今いるのは“あの世”ってことか?」

「……どうしてそうなりますの」


 ルヴェリスは額に手を当てた。


「いやだってよ、俺から見りゃ、死んだと思った後に来た世界だし、“元のところとは違う理”で動いてるんだろ? だったら、俗に言う“あの世”じゃねぇのか」

「……もう、それで良いです」


 深いため息とともに、ルヴェリスは話を打ち切った。クララが苦笑し、セリアもくすっと笑う。重たくなりかけていた空気が、ほんの少しだけ緩んだ。そんな中で、ふとセリアが口を開いた。


「さっきの人……エルゼヴァンの騎士だって言ってたでしょ? “剣”と“一緒に”さっきみたいな魔法を使う戦い方をする人達を、この大陸では“魔法剣士”って呼ぶの」

「まほうけんし……」


 伊織は、やや不機嫌そうに眉をひそめた。


「ああいう、不思議な力を剣に混ぜるやつか。剣を志す者が、そんな得体の知れんもんに頼るとは……邪道もいいところだな」

「先生……本人の前で言わなくてよかったですね、それ」


 リオが顔をしかめる。


「事実だろうが。剣は剣、その腕一本で立つべきだ。おい、リオ」


 そこで伊織は、ぐっと身を乗り出した。


「お前、さっきみたいな“よく分からん力頼りの奴”に後れを取っていたら承知しないからな」

「……もし負けてたら?」

「そりゃあ、お前、修行が足らんってことになるわな。もっと厳しく鍛えてやる。朝から晩まで走り込み、打ち込み――」

「ひえええええ……!」


 リオは頭を抱え、周囲から小さな笑いが漏れた。

 笑いが一段落したところで、ルヴェリスが小さく咳払いをした。


「……笑っているところ申し訳ありませんが、一つだけ、今ここで確かめておきたいことがあります」

「確かめる?」


 クララが首をかしげる。


「ええ。先ほどお話ししたように、“魔法”は術者自身と周囲のマナの濃度差を用いて発動します。ですが、霊唱術は違います」


 ルヴェリスは、クララの手をそっと取った。


「クララ。簡単な霊唱術で構いません。リオの剣に、灯りを宿す程度のエンチャントを試していただけます?」

「……うん。やってみる」


 クララは一歩前に出て、リオの刀身にそっと手をかざした。深く息を吸い、短い霊句を紡ぐ。


「焔よ、刃に宿りて敵を灼け」


 風が一瞬だけ止んだように感じられた。

 次の瞬間、リオの刀身に沿って、小さな燐光がすっと灯る。

 炎のように燃え上がるわけではなく、夜の蛍火のような、控えめで柔らかな光。


「……おお」


 リオが思わず目を丸くする。


「ちゃんと、ついたわね」


 クララがほっと微笑んだ。

 ルヴェリスは満足そうに頷く。


「ご覧のとおりです。精霊に呼びかける霊唱術は、リオ君の周囲でも問題なく発動します」


小さな光粒がリオの肩口でふわりと揺れた。


「霊唱術は、術者が思い描く“術想”ではなく、精霊の意思と、術者との関係性によって成立します。精霊が応じれば術は流れ、応じなければ沈黙します。マナの濃度は、この体系にはほとんど影響しません」


ルヴェリスは静かに続けた。


「ですから、越境者であるリオの体内マナがどれほど濃くても、霊唱術が妨げられることはありません。

 精霊にとって重要なのは、術者との“つながり”の方です」

「よし、話はそれくらいにしてだな。腹が減った。宿に行くぞ」

「結局そこなんですね先生……」


 クララが呆れた声を出す。


「腹が減っては何とやら、だ。 “異界”の話も“妙な力”の話も、飯食ってからゆっくり考えりゃいい」

「……そういうところ、嫌いじゃないけどさ」


 リオが苦笑し、セリアもくすくすと笑った。

 スヴィロの宿場町の灯が、黄昏の風に揺らめいている。馬車が進むにつれ、ざわついていた旅人たちの声は遠ざかり、代わりに夕餉の香りが漂ってきた。

 その背後で、リオは知らないうちに拳を強く握っていた。魔法が沈黙した中心にいたのは、自分だった。その事実は、まだはっきりとした恐怖にはなっていない。

 けれど、明日からの旅路が、今日までとは違う色を帯びる――その予感だけは、確かに胸の奥に根を下ろしつつあった。


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