第一話:灰の街の少年
灰の区画の朝は、音と匂いから始まる。城壁の影が地面を切り、日が昇っても光は届かない。溝には灰と泥が溜まり、乾けば舞い、湿れば腐臭を放つ。水道は引かれておらず、井戸は一つしかない。人は列を作るが、順番は守られない。割り込みが起き、肘が当たり、怒鳴り声が飛ぶ。奪い合いになれば、弱い方が下がる。それだけの場所だ。ファルクは列の端に立ち、前が詰まれば一歩引いた。焦っても水が増えるわけではない。空いた瞬間に水桶を下ろせば、それで足りた。
「遅いぞ」
背後から苛立った声が飛ぶ。
「水は逃げたりしない」
それ以上は言わなかった。ここでは、作法や決まりは意味を持たない。
井戸の向こう、人の輪の外側に、見慣れない男がいた。擦り切れた外套、軽そうな背負い袋。手には、木で作られた輪を持っている。装飾はなく、削り跡が残っていた。宗教の信仰者が区画に来ること自体は珍しくない。炊き出しや修繕、怪我人の手当。だが、この男は違った。井戸に近づかず、ただ、輪を胸の高さに掲げ、静かに言葉を繰り返し、口にした。
「祈れ、考えよ、行え――輪は我らの連なり」
声は大きくない。それでも、周囲の喧噪は薄れていった。押し合っていた人々の動きが止まり、視線だけが集まる。しばらくして、男は輪を脇に抱え直し、区画の奥へ歩き出した。人々は何事もなかったように散った。朝の流れが元に戻る。ファルクは水桶を担ぎ直し、住処へと戻った。
翌日、その信仰者は再び区画に現れた。井戸ではなく、崩れた家屋の前だった。輪を脇に置き、黙って瓦礫に手を掛ける。その様子を見て、最初に動いたのは子どもだった。力は足りないが、諦めない。信仰者は何も言わず、梁の下に木片を噛ませ、持ち上げ直す。気づけば、二人、三人と手が増えていた。順番や役割を相談しながら、何だか楽しげであった。
ファルクは、水桶を運び終えた後、その場を見ていた。この界隈で助け合いは珍しい。見返りがなければ、誰も手を貸さない。それが常だった。だが、その場はそうはならなかった。梁が片づき、通路が開く。
「何をしてるんだ」
気づけば、声を掛けていた。
「通れるようにしている」
それだけだった。
「それで、何になる」
信仰者は輪に目を落とし、少し考えた。
「今は、通れる」
確かに、通路は出来ている。誰かが転ばずに済む。荷が運べる。信仰者が再び手を動かす。ファルクは立ち去ることも出来た。だが、そのまま足を止め、落ちていた木片を拾い上げた。どこに置けばいいかは、見れば分かる。梁の下に差し込み、力を掛ける。誰にも頼まれていない。褒められもしない。それでも、作業は進んだ。
「名前は」
「ファルクだ」
信仰者は頷き、それ以上は聞かなかった。
「また来る」
約束のようでも、挨拶のようでもない言葉だった。
その後も、信仰者は区画に現れた。日によって時間も場所も違う。崩れた壁、塞がれた路地。目についた場所で手を動かし、終われば去る。ファルクは何度か手を貸した。呼ばれたわけではない。気づけば、同じ場所に立っていた。
ある日、作業の合間に、ファルクは尋ねた。
「なぜ、ここに来ている」
「出来ることをしに来ている」
「何のために?」
信仰者はしばらく黙り、輪に視線を落とした。
「人々の幸せのためにだ」
ファルクは一度、視線を外し、それから言った。
「……俺でも、役に立つものか?」
「もちろんだ」
信仰者は梁の下を指差した。
「そこを支えてくれ」
ファルクは何も言わず、指示された場所に手を掛けた。その日、最後まで瓦礫から手を離さなかった。
数日後、信仰者は城壁の外へ向かった。ファルクは自然と後を追った。外の空気は澄み、道は踏み固められている。集落では、壊れた納屋の修繕に取り掛かった。集落の者たちは礼を述べつつ、共に手を動かした。作業が終わると、布と食料、それにわずかな銭が差し出された。信仰者は受け取り、それをファルクにも分けた。やがて日が傾き、信仰者が言った。
「今日はここまでだ」
ファルクは頷いた。城壁の影は、もう視界に入らなかった。それからというもの、ファルクは信仰者と共に各地を巡った。城壁の内外を問わず、壊れた家屋を直し、道を開き、夜番に立ち、出来る限りの救済を続けた。いつしか彼は、教えの言葉を口にするようになり、輪を持つことを許された。
そのような活動を続け、瞬く間に二十年という月日が経った。
教団は、彼のこれまでの功績に対し、マルテの称号を贈った。ルメル・サーク教団の始祖であり、救済に生涯を捧げ、死の寸前まで貧しい者たちと共にあり、最期は灰の区画の修道院で亡くなった人物の名だという。その日から、ファルクはファルク・マルテと敬意を込めて呼ばれるようになった。
称号を得たことで、立ち位置が変わった。呼ばれる場が増え、席が用意されるようになった。集会では末席ではなく、教団の中枢に近い場所に座らされる。講話を求められることも増えた。しかし、いくら現場での窮状を訴えたとしても、いつも会合の内容は、現場の話から離れていく。救済の手順や工期、必要な人手の話よりも、寄進の額や次に建てる施設の場所が優先される。数字は整っていた。成果として示される表も揃っている。ファルクは否定しなかった。数字が間違っているとは思えなかったからだ。
だが、配分の話になると、名が挙がらない場所がある。灰の区画だった。理由は簡単だった。効率が悪く、成果が見えにくい。手を入れても、状況が改善したと示しづらい。誰もが理解できる説明だった。理解できるからこそ、ファルクは黙った。言い返す言葉はあったが、そそれを口にすれば、決定が先延ばしになる。決定が先延ばしになれば、別の場所への配分も遅れる。今ここで止めれば、救われるはずの者まで止まる。それは、選べることではなかった。
ある日、ファルクは灰の区画へと赴いた。城壁をくぐった途端、空気の重さが変わる。溝に溜まる灰と泥、崩れたままの壁、井戸の前にできた歪な列。以前と何も変わっていなかった。
「また壊れてる」
「直しても、すぐだ」
井戸の近くで、顔見知りの男が吐き捨てるように言った。ファルクの姿に気づき、声を落とす。
「……マルテ様」
男は救いを求める目つきで、彼に声を掛けた。ファルクは現状をしばし眺めてから尋ねた。
「修繕は?」
「ずっと来てません」
「いつ来ると聞いている?」
「分かりません」
男は短く答えた。理由を聞くまでもなかった。ここは優先度が低い。修道院に入ると、備蓄棚は大半が空だった。包帯は細く裂かれ、繰り返し使われた跡がある。修道士が視線を逸らす。
「今月分は、まだでして……都市部が優先だと」
説明はそれだけだった。
区画の奥に、人だかりが出来ている。ファルクが近づくと、若い女が地面に座り込んでいた。腕の中には、布で包まれた小さな塊がある。動かない。
「朝までは、息をしてたんです」
ため息つくように、女は魂の抜けたような青ざめた顔つきで言った。
「ずっと咳が止まらず、熱が下がらなくて……」
「薬や治癒師は?」
「ありませんでした。治癒師もず全然来て下さらなかった」
残酷な現実。必要なものが無かった、それだけだ。
ファルクは輪を握る。削り跡に指を掛ける。輪は象徴であって、道具ではない。それでも、この区画で何度も掲げてきたものだ。翌日も、知らせはあった。別の路地で、別の家で、同じように。
「まただ」
「今度は、イルヴァの子だ」
救いの手が全く無かったわけではない。それでも、この区画から“死”が消えることはなかった。ファルクは輪から手を離した。行いは残っている。結果も残っている。だが、それだけでは足りなかった。
その夜、ファルクは食事会の席へ招かれていた。とある修道院の一室で、教団の高位聖職者と、街の名士数名が食卓を囲んでいた。食事は簡素だった。肉は少量、野菜が中心で、酒も控えめだ。贅沢ではない。だが、困窮とも言えない。
「寄進の件ですが」
年長の聖職者が帳面を開く。そこには、過去数年分の記録が並んでいる。どの施設に、どれだけの資材と人手を回したか。その結果、どれほどの利用者がいたか。
「前回整えた治癒院は、想定以上に人を集めました」
「街道に近い立地が効いたのでしょう」
「評判も良い。次の寄進の話が、すでに動いています」
帳面の上に指が置かれる。具体的な数だ。利用者の延べ人数、滞在日数、修繕にかかった日数。
「救済の効果が示せる場所は強い」
「示せば、理解される」
「理解されれば、支援は続く」
誰も異を唱えない。言っていることは正しい。
ファルクは黙って聞いていた。輪は卓の端に置かれている。象徴として、ではない。話題に上らないまま、そこにある。
「……人手が足りていない場所もあります」
慎重に言葉を選び、口を開く。
「修繕が追いつかず、毎日助かるはずの命が失われています。……灰の区画です」
「そこは以前から把握している」
高位聖職者が答える。
「だが、手を入れても改善を示しづらい」
「数字として残らない」
「結果が見えなければ、寄進は続かない」
帳面を閉じる音がした。
「救済は、連なりだ」
別の者が静かに言う。
「祈り、考え、行う。その積み重ねが、輪を形作る」
教義としては、正しい。ファルクは否定しなかった。
「だからこそ、輪を広げねばならない」
「広げるには、まず費用が要る」
輪は、ここではすでに完成されたものとして扱われてしまっている。本来、この輪は日々の努力と対話を通じて自ら『磨き上げる』存在を象徴していたはずだ。だから素朴でささくれだった木の輪を象徴としていたはずではなかったのか。祈り、考え、行い、その積み重ねで環を強める。輪の内と外は断絶ではなく、広がりの可能性だった。救いは与えられるものではなく、結果として生じる循環だ。
ファルクはゆっくりと立ち上がり、出席者を見回した。そして、普段よりも一段低い声で言った。
「……あなた方は、 “輪”を磨いておられますか?私にはその輪が、あたかも銀の輪のように思えてならないのですが」
半瞬、沈黙が場を支配した。しかしすぐに名士の一人が、大笑しながら叫んだ。
「これは言い得て妙だ!確かに救済にはまず銀が必要だ!まさに銀の輪ですな!」
この台詞をきっかけに食卓は笑いの渦に包まれた。ファルクはそれ以上、何も言うことはなかった。その後、食事会は穏やかに終わった。部屋を出た後、ファルクは輪を手に取った。削り跡は変わらない。これまで各地で、人と共に磨いてきたものだ。だが、その輪が今、何を示すためにあり続けたのか。その思いだけが、はっきりと残った。
ファルクは足を止めた。この世界は間違っている。正しく作り直さなければ、誰も救われない。その考えは、怒りから生じたものではなかった。長い年月をかけて積み上げてきた行いが、静かに突きつけてきた計算だった。二十年以上、彼は人の役に立つことだけを考えて生きてきた。壊れた家を直し、道を開き、夜番に立ち、病人の傍らに座り続けた。いつか、この世のどこにも不幸がなくなる日が来ると、本気で信じていた。
その願いは、無意味ではなかった。救われた者は確かにいた。評価もされた。ついには、ルメル・サークの始祖の名を冠した称号まで贈られた。ファルクは、その名を背負った時、自分の人生は無駄ではなかったと心から思えた。だが、現実は別の形をしていた。
救済は、必要な場所に届いていない。届いているのは、目に見えやすい場所ばかりだった。灰の区画で失われる命を前にしても、教団の配分は変わらない。理由は明快だった。成果が示しづらい。数字に残らない。寄進が続かない。どれも間違いではない。論理としては正しかった。だからこそ、修正が利かなかった。
ファルクは気づいてしまった。自分の名声が、その構造を正当化するために使われていることに。聖人が関わっている。成果が出ている。救済は進んでいる。そう語られるたびに、彼の知らない場所で、救われないものが切り捨てられていく。これは裏切りだった。だが、自分に対する裏切りではない。この世界そのものが、救われるべきものを裏切っている。
部分的な修正では足りない。行いを重ねても、歪みは増すばかりだからだ。ならば、仕組みそのものを終わらせるしかない。一度、すべてを均さなければならない。その上で、新しく築く必要がある。救済が結果として生じる世界を。そのためには力が要る。術理が必要だと結論づけるまでに、時間はかからなかった。問題は、そこへどう辿り着くかだった。
教団が所蔵する古い聖典を読み漁ったが、理屈ばかりで肝心な部分が欠けている。必要なのは理念ではない。実行可能な方法と、その結果だった。そこで、ファルクは一人の名を思い出した。
グウィノル。灰の区画で育ち、巡礼に同行し、その後、アストリア術理学院サヴェルナ校の図書室で働いていると聞いた男だ。特別な才能があるわけではない。ただ、記録を扱い、不要とされた紙に触れる立場にいる。直接会いに行く距離ではない。サヴェルナは遠い。ファルクは契約従事者連盟を通じて書簡を出した。近況と、今も人のために動いていること。灰の区画で起きている事実。そして、助言が欲しいという依頼。
返事は早かった。グウィノルは、彼を覚えていた。力になれることがあるなら惜しまない、と書かれていた。それから、ファルクの要望に応えて様々な情報が届くようになった。主に術理の運用に関する書籍の写しだったが、グウィノルは期待以上の働きをしてくれた。――禁書庫にある書籍の内容までもが届けられたのだ。ファルクはそれらを理論として読まない。線を引き、順番を並べ、必要な手順を書き出す。
そうした中、ある事故報告の一節が目に留まる。堕界体に関する記録だった。通常は人が耐えられないとされる負荷が、例外的に残存したケース。理由は分からない。ただ、記録として残っている。ファルクは、その写しを何度も読み返した。
木の輪を卓上に置く。削り跡はまだ残っている。これを掲げて歩いてきたはずだった。だが、あの席で人々が見ていたのは輪ではない。献金箱に落ちる音、数えられる額、並べられる名。
――これは木ではない。銀だ。
木は、磨けば光る。手を掛け、時間をかけ、対話と行いを重ねることで、少しずつ艶を増していく。だが、銀は違う。市場に流通する銀は、使われるほど摩耗していく。価値として扱われる以上、削られ、均され、やがてただの量になる。救済も、同じ道を辿っていた。本来は木として磨かれるべき教えが、いつしか銀として流通し始めた。数えられ、評価され、並べられるうちに、救いは行為ではなく実績になった。
輪を広げる前に、その輪が立っている地面を均さなければならない。そう考えた時、ためらいは消えた。
方法は、すでにそこにあった。




