第五話:日常のままに
中央通りの一角に、人だかりができていた。粗末な布を縫い合わせただけの衣装を身にまとった大道芸人が、声だけは通りの端まで届くほど張り上げている。
「魔人の従者、その名も“黒刃”が容赦なく村人に襲いかかる!」
剣の代わりに木切れを振り回し、芝居がかった動きで斬り結ぶ真似をする。
「そこへ我らが“銀の輪の聖者”!」
観客から拍手と笑いが起きた。
「魔人と従者を討ち果たしに現れた!」
誇張された剣戟が続く。倒れ込む役者に合わせて、子どもが歓声を上げ、大人は半ば冷やかし半ば本気で拍手を送る。
リオは足を止めた。輪の外側に立ったまま、前に出ようとはしない。視線は芸人の動きではなく、その言葉にだけ向けられていた。少し離れた露店では、伊織が干し肉を指さし、店主と値段を詰めている。声音は低く、いつも通り淡々としていた。
「……先生は、そんな人じゃない」
リオの声は、喧騒に紛れて自分にしか届かないほど低い。言い返す気はなかった。ここで否定しても、何も変わらないことは分かっている。騒ぎを起こす理由もない。
芝居が終わり、人垣がほどけ始めた。その隙間を抜けて立ち去ろうとしたとき、背後から声が投げられる。
「まぁ、作り話なんだろうけどよ。……案外、その“魔人”ってのが英雄だったりするんだよな」
冗談めかした口調だった。誰に向けたとも分からない一言。リオは振り向かない。そのまま歩き出す。ただ、口元がわずかに緩んだ。
分かる人間は、いる。
なら、この世界も、捨てたものじゃない。
夜。宿の洗面所は静まり返っていた。壁際の水瓶から、一定の調子で水が落ちている。クララは袖をまくり、桶に溜まった水を掬い上げた。その瞬間、水が落ちなかった。本来なら指の隙間から零れ、下へ戻るはずの水が、形を保ったまま手のひらに留まっている。
「……え?」
力を抜くと、水は崩れて桶に戻った。気のせいだと思い、もう一度掬う。同じ現象が起きる。何度繰り返しても変わらない。詠唱はしていない。集中した覚えもない。ただ、掬った。それだけだった。
「潜象です」
背後から、即答に近い声がした。ルヴェリスだった。
「水は流れるものです。下へ落ち、散り、形を失う。それが顕象」
淡々とした説明だった。
「ですが今、あなたの手の上では逆が起きている。散るはずのものが留まり、崩れるはずのものが形を保っている」
ルヴェリスはクララの掌を見下ろす。
「あなたの掌の上だけで、顕象が潜象に切り替わっている」
クララは言葉を失ったまま、再び水を掬った。水はまた留まる。
「潜象は、止める術ではありません。進むはずの変化を、進まない状態に戻す理です。本来は詠唱を介し、術式で囲わなければ成立しない」
一拍、間が置かれる。
「それが、今は囲われていない」
ルヴェリスの視線が、水からクララへ移った。
「あなたが意識する前に、理が先に働いている」
その言葉を最後に、ルヴェリスは口をつぐんだ。無詠唱とは、技術ではない。存在が術理に近づいた者にだけ起きる現象だ。自分ですら、到達していない領域がある。その一段階手前に、今、クララは立っている。クララは静かに手を下ろし、自分の掌を見つめた。できてしまう理由は分からない。ただ、制御できていないことだけは、はっきりしていた。
夜の宿は静かだった。食堂の喧騒が引いたあとの廊下には、足音だけが低く響く。食後、煙草をゆっくり愉しんだ伊織が戻ってきたのは、その静けさが落ち着いた頃だった。
廊下の先で、ルヴェリスが立ち往生している。両腕いっぱいに荷物を抱え、扉の前で身動きが取れずにいた。扉を開けるにも、荷を下ろすにも、どちらにも手が回らない。
「どれ、俺がやろう」
伊織はそう言うと、返事を待たずに荷物を受け取った。重さを確かめる様子もなく、まとめて抱え直す。そのまま扉を押し開け、中へ入った。
「……狭いな」
部屋の奥まで進み、床に荷を下ろす。必要な作業はそれだけのはずだったが、伊織は一度視線を巡らせてから、思い出したように続けた。
「明日は早い。起きられなかったら、声をかける」
それだけ言って、踵を返す。引き留める間もない。
ルヴェリスは一瞬、言葉を失った。声を掛けられるまで、気配をまったく感じ取れなかった。エルフですら感じ取れない移動。そんな芸当が出来た者は、悠久の時を生きてきた彼女の人生に一人もいなかった。その事実が、遅れて意識に引っかかる。
「……意外です」
背中に向けてそう告げると、伊織は肩をすくめた。
「そうか?」
「あなたほどの人が……」
続きが言葉にならない。伊織は振り返らず、廊下へ出る。
「人は助け合わなきゃ、生きていけないぞ?」
淡々とした口調だった。教え諭す調子でも、含みを持たせるでもない。ただ、そういうものだと述べただけだ。ルヴェリスは、その言葉を受け取るのに時間がかかった。
目の前にいるのは、大地を断ち、理を外れ、百五十年を孤独に生き抜いた存在だ。その男が口にしたのは、あまりにも素朴で、どこにでもある常識だった。
扉が静かに閉まる。ルヴェリスはその場に立ったまま、しばらく動けなかった。
理を語る者は多い。力を誇る者もいる。だが、そのどちらでもない言葉が、胸の奥に残っている。理由は分からない。理解しようとしても掴めない違和感が、まだそこにある。それでも、もう一度あの背中を思い出している自分がいる。その事実だけが、静かに残った。その感情を、名前にすることは出来ないまま、夜は過ぎていった。
昼の中央第三詰所は、常に人の気配があった。訓練場の一角では、私兵団員たちがそれぞれの持ち場に就き、装備の点検や交代の確認を進めている。金属が触れ合う音と、短い報告の声が途切れなく続いていた。
新調された制服に身を包んだサヤは列の端に立っていた。視線に迷いはなく、装備の位置も正確だ。問題がないことを確かめると、簡潔に頷く。
「サヤ、南門の巡回を頼む」
隊長の声に、サヤはすぐに顔を上げる。
「了解しました」
返答は明瞭で、声の張りも十分だった。姿勢も崩れていない。命令を受ける所作は、いつもと変わらない。ただ、詰所の通路を進む際、人とすれ違う瞬間に、ほんの僅かに間合いを取る。無意識の動きだった。広さに余裕があっても、半歩、距離を空ける。その所作はあまりに自然で、ほとんど誰の注意も引かない。
装備を受け渡すために背後へ回られたとき、サヤは一瞬、体の向きを変えた。避けるほど大きな動きではない。ただ、そこに立ち続けることを選ばなかっただけだ。先輩兵の一人が、その様子をちらりと見て、近くの兵と小声で話す。
「……灰の区画の件、上には上げたんですか」
「状況はな。だが証拠がない。銀の輪も、誰も付けてなかった」
「サヤを灰の区画に誘導したのは信徒だったというじゃないですか」
「それでも、襲った連中が信徒だという証拠がない。今は動けん」
短い休憩の合間、サヤは壁際に立ち、水筒を手に取った。飲み口に唇を寄せる前、無意識に下腹部へ手が伸びる。触れたのは一瞬だけで、すぐに離した。その動作を、自分でも意識していない。近くで装備を外していた兵が、ふと目を向ける。一拍遅れて、何もなかったように視線を逸らした。
詰所には、何事もなく時間が流れている。号令が掛かり、巡回の交代が告げられ、兵たちはそれぞれの持ち場へ散っていく。サヤは命じられた通り、南門の巡回へ向かった。足取りは確かで、歩幅も一定だ。背筋を伸ばし、前だけを見て進む。その姿は、任務に慣れた魔導師そのものだった。
誰も、何も言わない。彼女自身も、口にしない。何もなかったように業務が続いていく。それが、この詰所で最も不自然なことだった。それでも、日常は予定通りに進んだ。
夜の宿は、人の声で満ちていた。食器が触れ合う音、低く交わされる会話、椅子を引く足音。昼間の張り詰めた空気とは違う、緩んだざわめきが食堂を覆っている。セリアは卓に向かい、手を止めていた。杯に注がれた酒はまだ温度を保っている。指先が縁に触れたまま、動かない。
――ファイン。
名を呼ばれた瞬間の感触が、遅れてよみがえる。家名を知る者は限られている。しかも、突然現れた男が、淀みなく口にした。偶然ではない。聞き違いでもない。理由も、目的も分からない。だが、知られている。その事実だけで、十分に気持ち悪かった。視線を上げることができない。周囲の音は変わらないのに、自分だけが場から切り離されたように感じる。過去の出来事が、具体的な形を取らないまま、背後に立っている。
(……見ていた?)
誰が、いつから。答えは出ない。ただ、否定もできない。
「……顔色が悪い」
向かいから、クララの声がした。セリアは一拍置いて、口元を引き結ぶ。
「……大丈夫」
嘘ではなかった。話せる。ここに座っていられる。ただ、説明できないだけだ。家名を呼ばれた。それだけのことのはずなのに、身体が先に反応している。背中に冷たいものが残り、息が浅くなる。誰かに触れられたわけでもないのに、距離を取りたくなる。食堂の灯りが揺れる。誰かが笑い、別の卓で杯が鳴る。日常は、何事もなかったかのように続いている。
セリアは杯から手を離し、ゆっくりと息を吐いた。知られているという感覚だけが、胸の奥に残る。それをどう扱えばいいのか、まだ分からなかった。だが、その感覚に重なるように、別の言葉が引っかかる。家名を呼ばれた時と同じ調子で、あの男は口にしていた。
救済の器。
意味を考えずに聞き流せる言い方ではなかった。堕界体が憑いたこの身体を、そう呼ぶことは出来てしまう。理屈としては、あまりにも自然だ。だからこそ、その言葉が今になって形を持つ。あの男は、何を知っているのか。何を見て、そう呼んだのか。知られている。その感覚だけが、ゆっくりと深さを変えていった。
夜も更け、宿の食堂には人影がまばらになっていた。卓の上には、片付けきれなかった皿がいくつか残っている。伊織は煙管を燻らせながら、向かいのルヴェリスと酒杯を重ね、他愛も無い話をしていた。
「セリア、甘いの好きだったな」
伊織は皿の端に残った菓子を指で示した。
「残ってたら、取っとこう。どうせ誰も食わん」
それだけ言って、椅子に深く腰を下ろす。
「リオは……いつも大盛りだな。あいつは」
軽く鼻で笑うように言って、杯を傾けた。どれも、取るに足らない話だった。誰かを気遣うほどのことでもない。それなのに、ルヴェリスはその言葉を聞き逃さなかった。力の話でも、理の話でもない。誰かと同じ時間を過ごすためだけの、何気ない会話。杯の中身は、まだ残っている。だが、手を伸ばそうという気にはならなかった。酒の熱は、喉ではなく胸の奥に溜まっている。視界の端で、他の宿泊客が笑い合い、給仕が皿を運んでいく。その光景が、ひどく遠く感じられた。
向かいに座る伊織は、いつもと変わらない。杯を傾け、黙って食事をし、こちらを急かすことも、覗き込むこともしない。その無関心に近い態度が、今はひどく落ち着かない。この男は、力を持つ者だ。理を断ち、世界を斬ることができる。その事実を、恐怖として理解している。怒りでも誇示でもなく、必要とあらば躊躇なく斬る。その選択を、当然のように置ける人間だ。
だからこそ、視線が向く。
だからこそ、目を逸らせない。
彼は術理を語らない。理屈で世界を切り分けることもしない。それなのに、何気ない言葉で、こちらの積み上げてきた前提を揺さぶる。飲んで、生きて、また明日やり直す。ハレとケを行き来するだけの、単純な在り方。それが、どうしてここまで胸に残るのか。思考が、追いつかなくなっている。理解しようとするたびに、別の感覚が先に立つ。これは、観察ではない。評価でも、警戒でもない。その事実に気づいた瞬間、喉が詰まった。否定しようとしたが、言葉が見つからない。
――惹かれている。
認めてしまえば、簡単だった。同時に、取り返しがつかないとも思った。
「……あなたは、ずるい人です」
「突然、何だ?……まぁ、聖人君子でないのは認めるけどなぁ」
「あなたは私の名を一度も呼んで下さらない」
「……いや、それを言ったら、あなたも……」
バン!とルヴェリスがテーブルを叩く。僅かに食堂に残る他の宿泊客がギョッとして、こちらを見た。伊織は微動だにしない。
「……あなた……あなたはッ!」
「あなたは大地を斬り裂くほどの強大な力を持っています!私は、あの時、それが怒りでも誇示でもないと分かりました……だから恐怖した……あなたは、ためらいなく“斬る”という選択を置ける人間です……」
伊織は言葉を発することも無く、じっとルヴェリスを見据えたままだった。
「ですが、あの時……あの魔法剣士に冷たい無色の目を向けていたあなたが、私を一瞥したその目は……」
「どうやら、大分酔ってしまったようだ。お開きにしないか」
そう伊織が優しく声を掛けたが、言い終わらない内に、
「酔ってなど、いません!」
ルヴェリスは一段大きな声で叫んだ。彼女のこのような姿を、伊織は見たことがない。おそらくクララやセリアもだろう。こりゃ、痴話げんかですかな?と下衆な勘ぐりを始めた宿泊客の目を気にして、伊織が、 「ちょっと夜風に当たりませんか」 とルヴェリスを戸外へと誘導する。
怒りとも悲しみともつかない目つきでルヴェリスは伊織を睨んだが、言われるがままに席を立ち、無言で後に付いて来た。宿の明かりがほんのりと道を照らす。宿の外にしつらえてあるベンチに二人は腰を下ろした。夜風の冷たさが、急速に顔のほてりを冷ましていく。暫く無言だった二人だが、ルヴェリスは再び口火を切った。
「私を一瞥した、あなたの目は……」
「……はい……」
「優しかった」
「……はい?」
「あなたは、冷酷にもなれる人。しかし、そう“しない”選択もできる人なのです」
伊織は考えあぐねた。この美しいエルフの女性は何が言いたいのだろう?まるで自分という人間を総括しているかのようだった。やはり先生という職業柄なのだろう。しかし、何だな、観音様に説教されているようで、これはこれで悪くないな。
「あなたは"術理"の何たるかを知らない、"理屈"で物を語ることもしない」
「はぁ……何だか、相済みません……」
「ですが、あなたは言いました。『難しくするな』『飲んで、生きて、また明日やり直す』と。ハレがあって、ケがあって……その二つは対立しているのに、循環してて……」
伊織はギョッとした。ルヴェリスの透き通るような青い双眸には、涙が溢れていた。
「あなたは、私が長年信じてきた『対立と張力で理が立つ』世界を、静かに壊しに来た人」
伊織には何も言えなかった。何を語られているのか全てが理解出来ている訳ではない。自分はこの女性にとって、あってはならない存在だったのかも知れない。どう言ってあげたら良いのだろう、謝った方が良いのか、ぐるぐる色々な考えが伊織の頭を席巻した。
やおらルヴェリスは立ち上がり、伊織の前に立ちはだかった。涙が頬を伝う。その涙は伊織の両腿にぽつり、ぽつりと落ちる。
「あなたに惹かれてはいけないと理解している!しかし意識は勝手に向いてしまう!あなたの名前を心の中で揺らしてしまう!でも、触れられる距離にあるのに、遠いと感じてしまう!」
ああ、自分は馬鹿だった。伊織は目の前が暗くなった。この聡明な女性に、こんなことを言わせてしまった、自分の愚かさを呪った。
「さあ!なぜ、あなたは私の名を一度も呼んで下さらないのですか!ずっと遠くて、遠くて……」
あとは言葉にならなかった。まるで子どものように泣きじゃくり始めたルヴェリスを、おもむろに立ち上がった伊織は抱きしめた。抱きしめた腕の中で、ルヴェリスの嗚咽が次第に小さくなっていく。夜風に冷えた肩が、まだ震えていた。伊織は何も言わず、その背に手を置いたまま、しばらく黙っていた。
「……理由なら、ある」
低い声だった。言い訳の調子ではない。ただ、隠してきたことを置く前の間だった。
「昔、エルフの妻がいた。子も、一人いた」
それだけ告げて、言葉を切る。腕の中の体が、わずかに強張るのが分かった。
「戦争で、はぐれた。生きているのか、死んでいるのかも分からない」
声は淡々としている。感情を乗せることを、最初から選んでいない。
「……あなたを見ていると、時々、その影を思い出した」
短い沈黙。
「似ているわけじゃない。だが、重なってしまった。俺の都合でだ」
吐き捨てるようでも、弁解でもない。事実をそのまま置いた声だった。
「だから、名を呼ぶのを避けた。失礼だと思った。あなたに対しても、あの人に対しても」
伊織は一度、息を吐いた。抱く腕に、わずかに力がこもる。
「それでも……」
言葉が、途切れる。
そして、はっきりと。
「ルヴェリス」




