第四話:招かれざる“再会”
朝の点呼が終わる頃、詰所の空気がわずかに揺れた。
サヤが赤いマントを翻し、杖を手にして隊の前へ歩み出たからだ。濃紺の装束の切り上げは高く、腰から脚にかけての美しいラインが、そのまま描き出されている。膝上までの同色のソックスと白いブーツだけが、実用性の名残を留めていた。
先輩兵たちの視線が一瞬、揃って吸い寄せられる。慌てて目を逸らした者は、唾を飲み込み、言葉を探すように口を開閉した。言葉に出せない温度が、赤いマントの隊列に沈殿する。それでも誰一人、口に出さない。公務中であることが、その線引きを保っていた。
「行きます。灰の区画から」
短く告げると、隊長が頷く。私兵団の赤いマントが連なり、城壁沿いの通りへ歩き出した。先頭を歩く隊長が道の中央を押さえ、サヤは少し後ろ、左右の路地に目を配る位置についた。
通りには、銀色の輪を首から下げた者がぽつぽつと混じっていた。胸元で小さく光る輪。袖口に縫い込まれた刺繍。腰の袋から覗く祈祷具。どれも、いまは見慣れた印になりつつある。
サヤは歩調を乱さない程度に、そちらへ視線を向けた。
「少し確認します」
そう告げて一歩前に出ると、隊長が横目でサヤを見た。問いただすほどではない、という判断がそのまま視線の動きになっている。サヤは軽く会釈し、最も近くにいた中年の男の前で足を止めた。男は銀の輪を胸元に下げている。
「失礼します。最近、光輪の奇跡の集会が増えていると聞きました。巡回の参考にしたいので、どの辺りで行われているのか教えていただけますか」
男はわずかに肩を強張らせた。サヤの赤いマントと紋章に目を落とし、すぐに表情を整える。
「……どうしてですか。祈りを捧げているだけですよ」
「危険かどうかを確かめるのが、こちらの役目です。人が集まる場所は、どうしても騒ぎの種になりやすいので」
サヤは声の調子を変えず、淡々と続けた。男は言葉を選ぶように唇を動かし、視線を左右へ泳がせる。
「……この辺りの者は、主に南側の広場に行きます。あとは、灰の区画の入り口のほうにも。細かいことは、私はよく知りませんが」
「回数は。週に一度程度ですか、それとももっと多いですか」
「多くなりました。最近は、ほとんど毎日です」
男はそこで口をつぐんだ。言いすぎたと思ったように、銀の輪を指先で押さえる。サヤは深く追わず、短く礼を言った。
「ありがとうございます。巡回の参考にします」
隊に戻ると、先輩の兵が、肩越しに声をかけてきた。
「祈っているだけなら、放っておいてもいいんじゃないか」
「放っておけるかどうかを、確かめています」
サヤは前を向いたまま答えた。それ以上、先輩は何も言わなかった。
巡回は街の中心部から、市場通り、灰の区画へと続いた。路地の角ごとに、銀の輪や刺繍が目に入る。サヤは同じやり方で、信徒と思しき者たちに声をかけていった。
問いはいつも簡単なものだけに留める。どこで、いつ、どのくらいの人数で集まるのか。危険な人物を見たことがあるか。答えはそれぞれに違い、しかし断片としては似通っていた。
その日は、それ以上のことは出てこなかった。特別な手掛かりもなく、場所と回数のメモが少し増えただけだった。
翌日以降も、合間を見て同じように聞き込みを続けた。巡回の範囲は毎回違う。市場通りの日もあれば、別の居住区を回る日もある。その中で、光輪の輪を身につけた者を見かければ、許可をもらい、短く質問する。返ってくる答えも、やはり似たようなものばかりだった。
南側の広場で祈っている者が多いこと。
灰の区画の近くでも輪を見かけること。
集会の回数が、以前より増えていること。
どれも、それだけでは判断の材料にならない。ただの感想で終わるものも多く、印象は薄いままだった。それでも、まったく何もしないよりはいいとサヤは考えた。いつかクララたちが戻ってきたとき、「何も分からなかった」とだけ言うのは避けたかった。役に立つかどうかは分からないが、尋ねておけば、少なくとも「どこで何が話題になっていたか」は伝えられる。そういう程度の気持ちで、サヤは巡回のついでに聞き込みを続けていた。
「……“奇跡”が行われる、と聞きました」
言い淀む婦人の言葉に、サヤは足を止めた。初めて出た言葉だった。声の調子に特別な熱はない。ただ、どこかで拾ってきた噂を、そのまま出しているだけの様子。
「どこで」
「東の方。“灰の区画”です。古い修道院が……夜に灯りが見えるとか」
婦人はそれ以上言わずに立ち去った。呼び止める理由もなかった。奇跡、という響きが、今までの話と違う輪郭を持つ。真偽は分からない。判断には足りない。それでも手がかりではある。
灰の区画に入るのは危険だ。治安も衛生も悪く、若い女がひとりで行くのは賢明ではないと知っている。それでも、聞かずに終えるよりは、とサヤは考えた。
日が傾き始めた頃、サヤは詰所とは反対の道に歩き出した。赤いマントを外し、腕に抱える。濃紺の布地が露わになり、通りすがりの視線が変わるのが分かった。白いブーツの足音だけが一定に続く。
東寄り。修道院。夜。
その三つだけで足りるかは分からない。足りなくても、確かめるしかなかった。城壁沿いの道が細くなるあたりで、風が冷たくなった気がした。サヤは足を止めず、灰の区画へ向かった。
* * *
宗派本部の一室。窓は小さく、外の光はほとんど入らない。祈祷具と銀の輪が棚に並び、正面の卓を挟んで幹部信徒が三名、立ったまま控えていた。
「……私兵団の者が動いています。若い女魔導師です」
「何度も見かけました。南の広場から、居住区、灰の区画の手前まで」
「質問は簡単なものばかりですが、頻度が増えています。行き先に偏りも」
三人の声は抑えられていた。互いに補い合うように短く続ける。
「……名は」
卓の奥から声がした。ファルク・マルテ。姿勢は変わらない。祈祷書の上に手を添え、視線だけを幹部へ向けている。
「サヤ、と。私兵団の新兵のようです」
報告が途切れた。室内の空気がわずかに固まる気配があった。ファルクはしばらく口を開かなかった。祈祷書のページに視線を落とし、掌でなぞるように押さえる。
「その者は……銀の輪を害する外法魔術師です」
声は淡々としていた。抑揚はない。断定にも聞こえるが、明確な根拠を示す言い方ではない。幹部の一人が小さく息を呑んだ。別の者が即座に言葉を継ぐ。
「かしこまりました。すぐに触れを出します」
ファルクは頷かなかった。否定もしなかった。ただ、祈祷書から手を離し、卓の端に置かれた灯火に目を向けた。
「救済を求めない来訪者は不要です。……分かりますね」
それだけ告げると、椅子の背にもたれた。幹部信徒たちは揃って頭を下げ、一礼して部屋を下がった。
扉が閉まる直前、灯火の揺れが静かに壁に映った。ファルクはその揺れに目を細めた。揺らぎが収まるのを待つように、動かなかった。
* * *
灰の区画の奥に、修道院があった。金属製の扉は歪み、ところどころ錆びていた。閉じられてはいるが、施錠はされておらず、力をかけると僅かに軋んだ。サヤは肩で押し、隙間に指を入れて扉を引いた。硬い金属が擦れる音とともに、どうにか内部へ入ることが出来た。
中は暗く、祭壇とおぼしき台の上に蝋燭のほのかな明かりが灯されているだけで、人の気配はないようだ。杖を握り直そうとした瞬間、背後から足音がした。振り向く間もなく、背後から腕が回り込み、口を塞がれた。
「っ……!」
口元に手が押し当てられる。別の手が両腕を引っ張り、脚に抱きつかれ、身体の自由が奪われる。 杖が床に転がり、木製の杖が手から離れ、石床に転がって乾いた音を立てた。声を上げようと喉が震えるが、掌が口を塞いで空気が漏れるだけだった。
抵抗しようと身を捻った瞬間、腹部に衝撃が入る。拳か足か、区別できない。息が抜け、膝が折れた。別の手が髪を掴み、そのまま引きずられて行く。引きずられたまま、階段を降りる。石の感触が薄い布越しに伝わり、痛みが断続的に広がった。
「……っ、ぅ……や……っ」
声にならない。地下の扉が開き、湿った匂いが流れ込んだ。男の手が髪を掴み、顔を上げさせたまま暗がりへ押し入れる。腕を後ろに回され、荒い麻縄の感触が手首に食い込んだ。結び目が締まり、身動きが封じられる。
口を塞ぐ手が離れた瞬間、大声で助けを呼んだが、その声は地下室に反響するものの、外にまで届いているのかどうかは判然としなかった。例え届いていたとしても、ここは灰の区画でしかも夜。助けは到底、期待できなかった。
* * *
白い天井が視界に入った。焦点が合わず、輪郭がにじむ。乾いた布の匂いと、薬草を煮出したような苦い香りが混じっていた。身体を動かそうとして、胸の奥が詰まった。息を吸うと、横腹のどこかに鈍い痛みが走る。無意識に身を強ばらせたところで、肩に手が触れた。
「サヤ……随分、無茶をしたのですね」
ルヴェリスの声だった。サヤは喉を鳴らし、短く息を整えた。指先を動かすと、包帯の感触が伝わる。腕は自由だったが、力が入りにくい。少し間を置いて、別の気配が近づいた。足音が止まり、影が落ちる。
「……本当に、ごめんなさい。私たちのせいで……」
クララの声だった。語尾が揺れ、そこで止まる。続きはなかった。サヤは首だけをわずかに動かし、視線を向け、精一杯笑顔を作った。
「大丈夫。生きてる。それで十分」
そう淡々と答えるサヤを見つめていたクララは口を押さえ、声を殺そうとしたが、涙だけは止まらなかった。少し離れた位置で、セリアが立っていた。視線はサヤに向いているが、瞬きが少ない。指先が白くなるほど、衣の端を握っている。声は出さない。感情を爆発させるクララと、静かに受け止める二人の姿が、この世界の残酷さを、はっきりと示していた。
冷えた夜気が、汗の残る首元に触れた。〈緑角亭〉の扉を押すと、鈴の音が小さく鳴った。中は思いのほか静かだった。食事を終えた客が数人、壁際で酒を啜っている。主人は帳場に肘をつき、帳簿を閉じかけたところだった。顔を上げ、リオたちを見ると、わずかに目を細める。
リオが一歩、奥へ進んだところで、主人が低い声で呼び止めた。
「……ちょっと。奥を見てくれ」
声量は抑えられていた。冗談めいた調子でもない。伊織が足を止め、視線だけで理由を問う。主人は言葉を足さず、顎で奥の広間を示した。木の床を踏む音が、やけに大きく響く。奥の席は、昼間よりも照明が落とされていた。壁際の長椅子に、ひとりの男が腰掛けている。ローブ姿。背筋は伸び、杯にはまだ手をつけていない。その横顔を見た瞬間、リオの足が止まった。
「……〈青鱗亭〉で声をかけてきた……」
言葉の続きは、口の中で途切れた。男がこちらを向く。穏やかな動きだった。
「こんばんは。再び会えて、良かった」
声は低く、丁寧だった。視線が、リオの肩越しを越えて、その先へ移る。
「……セリア・ファイン」
名を呼ばれた瞬間、セリアの身体が硬直した。顔色が抜け、呼吸が一拍、遅れる。言葉は出ない。ルヴェリスの視線が、男の口元に吸い寄せられた。名の呼び方。家名まで、淀みなく言った。この街で、セリアをそう呼ぶ者はほとんどいない。宿屋の主人も、詰所の兵も、たいていは名前で済ませる。家名を含めるのは、公式文書でしか使わない呼び方だ。
ルヴェリスは、セリアの肩越しにリオたちの位置を確かめた。自分たちの場所が特定されたことは何も不思議ではない。偽装したつもりだったが尾行されていたのだろう。だが。彼女の家名は外から拾える情報ではないはずだ。それでも、この男は知っていた。
男は立ち上がらなかった。距離を詰めることもない。ただ、椅子に腰掛けたまま、淡々と続ける。
「君には、“救済の器”となる素質がある」
伊織が一歩、前に出かけて止まる。ルヴェリスは黙ったまま、男とセリアの間にある距離を測っていた。視線が一瞬、天井へ向く。
「この世界は……よく出来た檻だ」
表情は凪いだまま。瞳の奥に、冷たい光が一瞬だけ宿る。
「君は、その内側に、手が届く」
セリアは答えない。視線だけが揺れ、足元から動かない。リオが息を吸い、言葉を探すより早く、伊織が半歩前に出た。
「……〈青鱗亭〉で声をかけてきたのは、あんただな」
男は否定もしなかった。杯に触れもしないまま、伊織を一瞥する。
「覚えていてくれて光栄です」
丁寧な言い回しだった。距離を詰める気配はない。ルヴェリスは、男の手元に目を向けた。祈祷書は閉じられたまま、ただ置かれている。読む気配も、祈る気配もなかった。視線を上げると、男はすでにセリアから目を外していた。用件は伝え終えた、と言わんばかりだった。
「選ぶのは、いつでも本人です」
男はそう言って、静かに立ち上がった。椅子が床を擦る音が、小さく響く。
「今夜は、ここまでにしておきましょう」
言い残し、踵を返す。主人が気配を察したように身を引き、通路を空けた。男は会釈もしない。扉へ向かう足取りは迷いがなかった。鈴の音が一度、鳴る。冷えた夜気が流れ込み、すぐに扉が閉じた。
残された空気が、ゆっくりと戻ってくる。セリアはまだ動かない。ルヴェリスはその背に視線を置き、何も言わなかった。伊織が短く舌打ちし、リオは拳を開いた。
〈緑角亭〉の奥で、誰かが溜め息をつく音がした。




