第三話:揺れる想い
レミニア湖を離れ、馬車は街道へ戻っていた。御者台には伊織とリオが並び、冷えた風が頬を刺す。荷台にはクララ、セリア、ルヴェリスが術理書や紙片を膝に置いて座っている。湖面で跳ねた光の余韻だけが、まだ視界に残っていた。
「……どうして、あの洞窟に?」
「気晴らしだ。景色が変われば、頭も変わる。……俺も、お前も。たまにはな」
抑揚のない声音だった。説明でも、誤魔化しでもない。リオは返す言葉を探したが、結局胸の奥で飲み込んだ。何を考えているのかは分からない。聞けば答えてくれるのか、それとも踏み込むべきではないのか。その判断すら曖昧だった。
馬車の揺れに合わせて伊織の横顔がかすかに揺れる。リオは前を向き直っても落ち着かず、また横目で様子を探る。その繰り返しが続いた。
「……先生」
クララの声は、呼吸を整えてから放たれた。
「前に、潜象に触れた“可能性がある”と、先生はおっしゃいました。あれは、やはり……」
「断定はしていません」
ルヴェリスは丁寧に返す。声は柔らかいが、曖昧さを許さない調子だった。
「ですが、顕象の域を越えかけた現象があった。それは事実です。意図せず起きたのなら、不安があるのは当然です」
「触れちゃいけないのに」
セリアが思わず言葉を重ねた。
「“いけない”とは言いません。ただ、制御できないまま踏み込むには危険が大きすぎます。潜象は、触れただけで傷つくこともある領域です」
クララは指先を膝の上で組んだ。揺れに合わせて、わずかに握りが強くなる。
「……私は、どうなるのでしょう」
「決まりきった未来はありません」
ルヴェリスはそう答え、まっすぐクララを見る。
「けれど、選べる未来はあります。そのために、これから学ぶのです。潜象と顕象の“向き”を、自ら選べるように。あなたは術理の高みに登らなくてはならない」
言葉は厳しくはなかった。ただ、揺らぎの余地を与えない芯があった。クララは静かに頷く。セリアはその横顔を見つめ、口を閉じた。
馬車が街道に戻ると、街路樹の枝葉が風に揺れた。御者台のリオは、稽古に使用する木切れで街路樹の葉を軽く叩きながら、前を見たまま口を開いた。
「……新しい稽古、まだ始めたばかりですけど。何だか……吹っ切れた気がします」
伊織は視線を道の先に置いたまま、短く答えた。
「……それは、良かったな」
それ以上は続かなかった。けれどリオには、それで十分だった。
街路樹の揺れが途切れ、石畳の色が見覚えのある調子に変わった。緑色の角を模した看板が視界に入る。借りていた馬車の脚が、ゆっくりとその前で止まった。伊織が御者台から降りた。リオも続き、木切れを軽く肩に乗せたまま扉を押す。
「お帰り」
帳場の主人が顔を上げた。
「馬車は元のところに頼むよ」
一行はそれぞれの部屋に戻り、荷物を降ろした。旅装を解いたことで、ようやく腰を落ち着けられる状態になる。簡単に身繕いを終えると、階下から食堂へ誘う声が響いた。
「夕食の準備ができたぞ」
主人の呼びかけに応じ、五人は順に階段を降りる。席に着くと、料理が運ばれ始めた。 皿が並び、静かに湯気が上がる。話は後回しで、まずは食事に向き合った。
しばらくして、リオが口を開いた。
「……明日、街に入るとして。今のままだと、また同じことになりそうです」
視線は皿に落としたままだ。
「五人並んで歩けば、すぐ分かる。目立たない形にしたいです」
クララが顔を上げる。
「分かれるの?」
「うん。戦える人は別々に。あと……この世界の常識に詳しい人も」
丁度テーブルを挟んでリオとセリア、反対側にクララと伊織、そしてルヴェリスが座っていたので、班分けはその通りにすんなり決まった。
セリアが小さく手を挙げた。
「じゃあ、明日、宿の商人たちに聞いてみるよ。フード付きのマントがあれば良いんじゃないかな」
声は明るく、どこか頼もしさがあった。
「そりゃ、良いな!」
伊織が即答した。
「えへへ、でしょ!?」
セリアの笑みが弾む。嬉しさを隠す気は、端からない。
「あの二人、仲が良いよねぇ……」
と、クララも何だか呆れ顔である。リオが椀を置き、視線だけで全員を順に確かめた。
「じゃあ、明日はそれで」
翌朝。〈緑角亭〉の広間はまだ静かだった。セリアが商人を連れて戻ってくる。商人は戸口のところで足を止め、申し訳なさそうに頭をかく。
「本当は、よそへの納品が決まってる荷なんだが……声をかけられてね。少しなら見せられる」
そう前置きし、商人は抱えていた包みを卓へ降ろす。布を解くと、様々な色のマントが現れた。地味なものより、よそから来たという品の方が目を引く。セリアは息をのむように声を漏らした。
「見つけるの、うまいでしょ?」
伊織が目を細めた。
「セリア、流石だな!」
「でしょ!?」
声が弾む。クララはその様子に小さく笑った。セリアは迷わず、鮮やかなピンクのマントを手に取った。胸元に当て、揺れる裾を見つめる。彼女の雰囲気に、不思議と馴染んで見える。
「……これにする。絶対かわいい」
ルヴェリスは淡い緑と白のツートンカラーへ伸ばした。緑地に白糸で繊細な植物紋様が刺繍されている。指先で縁をなぞり、小さく息をつく。
「見事な仕事です。この技術……こんな素晴らしい品揃えの商人を……よく見つけましたね、セリア」
「えへへ……」
クララは赤に手を伸ばしかけたところで、商人が静かに遮った。
「そいつは売れねぇ。クロムヘヴン辺境伯私兵団の色だ。着て歩くと“横流し”だと思われる。面倒ごとを背負う」
「……そうなんですね」
手を引き、代わりに朱色へ目を向ける。赤より柔らかく、しかし華やかだ。クララはそれをそっと胸に当てる。一目で心を掴まれる色だった。クララが合わせると、不思議と品が添う。
「絶対……朱色で!」
伊織は黒に近い濃茶を選んだ。肩にかけ、重さを確かめる。リオが首をかしげる。
「先生は、やっぱり黒に近い色なんですね」
「返り血の色が目立たないからな」
「……うわ」
リオは茶の中から、最も歩いても視線が刺さらなさそうな一枚を手に取る。深く息を吐いて纏い、肩の落ち方を見た。
「これで十分です」
結果、五人の色はばらばらになった。女性陣が色に引かれ、ルヴェリスは刺繍に目を奪われ、伊織とリオは地味な色で落ち着いた。その積み重ねの結果だ。
「これじゃ……目立つんじゃ……」
リオが思わず漏らす。セリアはぴたりと振り返り、胸を張った。
「時代を先取りするの! ね、クララ!」
クララは朱色を抱きしめ、照れ笑いで頷く。ルヴェリスは無言でうんうん、と強く頷いた。
「さて、代金だが……」
商人が声を落とす。リオはすぐに財布を出した。
「調査のためです。僕が払います」
「いえ、自分の分は――」
ルヴェリスが財布に手を伸ばし、リオはその手をそっと押し戻す。
「調査のため、ですから」
言葉を重ねず、視線だけで押し切った。ルヴェリスは一瞬だけ迷い、やがて静かに手を引いた。
「……分かりました。では、お任せします」
商人が頷く。
「嬢ちゃんたちのは別格だ」
商人は慎重に告げた。
「朱色と、そのピンク……どちらも金貨一枚と銀貨八枚だ。そちらの刺繍があしらわれている緑と白のは……金貨四枚になる」
空気が止まった。リオの呼吸が、胸の奥で引っかかった。
「男物の二着は、一般の仕立てだ。一着銀貨三枚でいい」
(クララとセリアで……金貨三枚銀貨六枚分。ルヴェリス先生は金貨四枚……合わせて……金貨七枚銀貨六……?いや、待て、金貨七枚と銀貨六枚……?……いや、考えるな)
視界が揺れた。思考が崩れそうになるのを、歯を噛んで止める。袋から金貨が出た瞬間、手が震えた。汗が滲む。だが、離した。
「嬢ちゃん。あんた、良い仲間を持ったな」
商人がセリアへ向けて言う。
「でしょ!? 自慢なんだよ!」
セリアは弾む声で答えた。伊織は、横で小さく笑った。
マントを抱えたまま、五人は卓上で相談する。真新しいマントの朱とピンクが揺れ、見るからに上機嫌だ。ルヴェリスも緑と白の刺繍を指先で整える。普段の張り詰めた空気はすっかり鳴りを潜め、どこか気持ちが浮いているのが隠せない。
「……この前のように聞き取りをしても、もう限界があります」
リオが卓に地図を広げる。宿で借りた簡易なものだが、巡回詰所の位置に印が複数記されている。
「五人で固まれば、また目立つ。まずはサヤに会える可能性を探したいです」
「サヤの非番って……聞かなきゃ分からないよね。まずは、会えないと」
クララが地図を覗き込む。
「ここか、こことか。順に聞いて回るのが良さそうですね」
ルヴェリスが淡々と補足する。声は静かだが、刺繍部分をそっとかばうようにマントを持ち直す仕草が、普段との違いを物語る。
「じゃあ、夕食までどうする?」
セリアがマントの裾を揺らしながら尋ねる。
「……稽古する」
リオは伊織と目を合わせた。
「続きだな」
「はい」
二人はそのまま稽古に向かい、扉の向こうへ出ていく。残った三人は鏡の前に集まった。セリアがピンクのフードをふわりと揺らし、裾を回す。
「ね、ね、見て! こうすると可愛くない?」
「似合ってると思う」
クララが朱色を肩に流し、鏡に寄る。頬が少し上気して見えた。ルヴェリスも、緑と白の刺繍をそっと指で整えた。普段の学院講師の顔ではなく、ひとりの女性の表情だった。
「……こうして並ぶと、不思議ですね。 それぞれ違うのに、どこか揃って見える」
「うん! 最強のパーティって感じ!」
セリアの声が弾む。クララも笑って、朱色の裾を揺らした。
稽古が出来そうな野原に向かって歩きながら、リオと伊織は苦笑を交え話した。
「……派手だな、あいつら」
「先生。似合ってるから、いいじゃないですか」
「いや、そういう問題じゃ……」
* * *
翌日。マントを羽織り、二班に分かれて宿を出た。リオとセリアは城壁東側の城門へ、クララ・伊織・ルヴェリスは西側へ向かう。城門前では簡単な身分証の確認だけが行われ、衛兵は淡々と目を通して返した。特に引き留められることもなく、通行を許された。光輪の奇跡の影響が衛兵にまで及んでいる気配はない。
「サヤってご存じですか。私兵団の……」
リオの問いかけに、詰所の兵士がすぐに答える。
「もちろんだ。有名人だよ。中央の三番詰所にいるはずだ。私兵団の紅一点で、綺麗な子なんだよなぁ……」
二人は礼を言い、足早に向かう。一方、クララたちも同じように聞き込みをしていた。
「私兵団で知らない者はいないだろう。中央の三番詰所だ。誰が彼女の心をいの一番に射止めるか、賭けの対象になっているくらいだ」
クララは頷き、地図を確かめる。伊織の眉がわずかに寄る。
中央通りの人波を抜けると、石造りの建物が見えてきた。詰所の前には槍を携えた私兵が立ち、緊張した面持ちで出入りを見張っている。ほぼ同時に到着した二班は、門前で自然と合流した。
「サヤさんに、お会いしたくて」
クララが一歩前に出る。私兵が顔を曇らせ、声を潜める。
「……昨日から戻っていない。丸一日、連絡がない」
「え……?」
クララの表情が崩れる。伊織も眉を寄せた。リオは胸の内に小さな不安が生まれるのを自覚した。
「脱走じゃない。彼女はそんなことは絶対にしない。ただ……何かあったとしか」
隊員の声には焦りが混じっていた。敵意ではない。純粋な心配だった。
「今日は非番じゃないんですか?」
クララの問いに、私兵は強く首を横に振った。
「今日は当番日で間違いない。朝になっても戻らないから、上にも報告した。探しに出たいが、人手が足りない」
ルヴェリスが一歩前に出る。呼吸が浅い。手が胸元へ上がった。
「……彼女のマナを探ります」
「ルヴェリス先生、ここは――」
クララが慌てて腕を掴む。セリアも制するように横に回った。
「街中で、それは……」
私兵が言いかけ、唇を噛む。街中では生活魔法以外の霊唱術や魔法の発動が許されないのは理解している。しかし、逡巡の末、隊長と思しき男が決断した。
「……黙認する。ここでやってくれ。責任は俺が取る」
「隊長!? 王国法は……」
「構わん! サヤを放ってはおけん!」
私兵たちの間に、緊張と決意が走った。ルヴェリスは静かに頷き、深く息を吸い、目を閉じる。指先がかすかに震えた。
「始めます」
霊唱術に入る直前、空気が張り詰めた。
ルヴェリスは深く息を吸い、詠唱に入る。
——澄み渡る眼よ 移ろいを捉えよ。
——境を越えた声を 我へ渡せ。
——名なき精よ 行き先を示せ。
空気が微かに震えた。
「……東。街の内周の外れです」
「灰の区画だな」
私兵が息を呑む。
「不衛生な場所で、治安も悪い。俺たちで探しに行く。あんたたちは——」
「正確な位置は私にしか分かりません!」
ルヴェリスが声を張り上げると、私兵は頷いた。
「なら、一緒に来てくれ!」
灰の区画は、目に見えて空気が変わった。舗装の乱れ、崩れかけた建物、漂う埃。周囲には視線を伏せた人影が点在し、私兵団が近づくと道を開ける。
ルヴェリスは時折立ち止まり、精霊からの反応を確かめながら進む。
「……この先です」
朽ちかけた修道院のような建物の前で、反応が強まった。重い鉄扉には施錠がされているようだ。
「この鍵……鍵穴が潰されている」
隊員の一人が低く言う。錠前を壊す道具を持っているか、全員で体当たりしてみてはどうか、と私兵団が喧々諤々の議論を始めた横で、伊織が一歩前に出た。右肩へ刀を引きつけ気合一閃、袈裟に振り下ろす。鉄扉は凄まじい金属音と共に斜めに裂け、音を立てて崩れた。呆気にとられる私兵団を尻目に伊織は一言、「行くぞ」とだけ言い置き、中に侵入した。
室内は湿り気を帯びた空気と、古い香のような残り香が漂っていた。床にサヤがいつも持っていた杖が転がっているのを見て、一同は気色ばむ。祭壇のあったであろう台がずらされており、その下に階段が伸びている。リオたちは慎重に降り、足元の土を踏みしめた。
地下室の中央で、サヤが縄で拘束されていた。両手を後ろ手に太い縄で縛られ、その縄は柱に巻かれ固定されている。衣服は乱れ、肌には無数の痣が浮かんでいた。呼吸はある。意識はある。だが体を起こす力はないようだった。
「サヤ!」
クララが駆け出しそうになる。セリアが肩を掴み止める。ルヴェリスが一歩踏み出す。視線はサヤに向き、状況を正確に見極めようとしていた。口元が強く結ばれる。判断が一瞬で固まる。
「……男性は全員、外へ!」
その声は普段とは違い、明確な命令だった。伊織が短く頷き、リオの肩を押した。私兵団も言葉なく踵を返し、階段へ向かう。ルヴェリスが素早く状態を見極める。脈はある。意識もある。呼吸も乱れていない。
「サヤ、聞こえますか」
微かに開いたサヤの目が、揺れた。
「……ちょっと、失敗しちゃった」
弱く笑みの形を作りかけて、呼気だけが漏れた。
階段を戻った途端、私兵団の空気が変わった。ある者は唇を噛み、ある者は拳を握りしめている。
「……誰がやった」
「見つけ次第、俺が……」
「違う、俺がだ」
敵意もさながらに、過剰なまでの庇護欲が渦巻く。視線の鋭さは、向かってくる者がいれば斬り伏せかねない殺気の温度だった。隊長が歯を食いしばり、命令を搾り出した。
「抜刀は許可しない……だが、近づく影があれば排除する! 誰一人、ここを通すな!」
彼らは戦意を抑えるのではなく、制御しているという表情だった。リオは一瞬だけ横目に見て、理解する。
「……サヤさんは、大切にされているんですね」
「当たり前だ」
隊長が短く返した。声は震えていた。




