第二話:術理の深淵
馬車の揺れが、腹の奥に残った緊張を揺らしていた。窓を開けていないのに、外気が頬を撫でるような感覚がある。呼吸の仕方が分からない。浅いのか深いのか、それすら曖昧だった。
さっきまでいた場所の気配が、まだ背中に貼りついている。カリオンが向けてきた刃。寸止めではなかった。あれは本気で振り切られた。止めどころも迷いもなかった。殺しに来た。それだけは間違いない。
「……あれ、寸止めじゃなかったですよね」
声がかすれた。確かめるためというより、口に出しておかないと、自分が誤解しているだけかと思いそうだった。
「そうだ」
と伊織。
「寸止めではなかった」
断言だった。慰めも否定もない。ただの事実。
「なんで……寸止めって、あの人、自分で言ったのに」
膝の上の手がわずかに震えた。鞘には触れられない。触れたら、あの瞬間が手首から戻ってくる気がした。
「理由はいくつか考えられる」
伊織は前を向いたまま言った。
「まず一つ。対人経験が無かった可能性だ。長い稽古で身についた“全力での振り切り”が、そのまま出た。約束より、これまでの習慣が勝った」
リオは喉の奥に硬いものが沈む感覚を覚えた。勢いでも、癖でも、斬られれば死ぬ。その単純な事実が、急に重さを増す。
「二つ目。お前の実力を知っていた。だからこそ、中途半端な抑えや遊びは失礼だと感じた。実力者に対しては、本物の剣で向き合うべきだと考えた」
クララが目を伏せた。表情を読み取る余裕はなかったが、息の仕方が変わったように聞こえた。
「三つ目。あいつは寸止めを“非現実的”だと思ったのかもしれない。技の威力やタイミングは、全力で振り切ることで生まれる。だからこそ、本気の初撃で決めるべきだと判断した。約束より、自分の中の“理合”を優先した」
馬車の車輪が段差を越え、全員の体が少し浮いた。
「……約束より、自分の考えが先に出たってことですか」
「そうだ。対人が初めてなら、余計にな」
リオは喉を鳴らして飲み込んだが、飲み込めていない感覚が残った。
「四つ目。競争心や野心だ。同じ領分で名を取るなら、今のうちに排除しておきたい。座や評価、後継の話が絡むならなおさらだ。そういう場面では、“殺すか殺されるか”に踏み込む者もいる」
リオは息を止めた。ゆっくり吐こうとしても、途中で途切れる。
「……俺、殺されかけた、ってことですよね」
「実際、振り切られていた。介入がなければ、お前は倒れていた可能性が高い」
その言葉に温度はなかった。現実の位置を示すだけの音だった。
「どうして止めに入ったんですか」
「膠着が長引けば、次があった。恐怖でも、競争心でも、野心でも、どれでもいい。理由が何であれ、次は止まらないと思った。だから入った」
セリアが静かに、しかしはっきりと言葉を置いた。
「リオ、あれは……遊びじゃなかったよ。寸止めの手合わせなんて、最初の一瞬で形が崩れたんだと思う」
リオは首を小さく振った。否定ではない。まだ、言葉に変えられない沈殿がある。窓の外に水面が見えた。陽が反射して、視界が揺れる。揺れているのは水か、自分か。判断がつかない。
「……怖いです」
自分で言って驚いた。そんな簡単な言葉に行き着くとは思っていなかった。
「怖いなら、それでいい」
と伊織。
「怖さを無理に否定すれば、今度は殺される」
言葉が胸の中心に置かれた。重いが、崩れなかった。リオはゆっくり息を吸った。肺に入る空気の量が、少しだけ増えた。生きているという実感は、まだ遠い。けれど、呼吸はできる。声も出る。手も動く。それで十分だと、今は思うしかなかった。
馬車が止まった。車輪の軋みが、遅れて耳に残った。御者が短く声をかけ、扉が開く。外の空気は街道よりも湿っていて、肺に入ると温度の境目が曖昧になる。足を下ろすと、土の柔らかさと水の気配が同時に伝わってきた。
レミニア湖が広がっている。陽を受けているが、光は派手ではない。風に合わせて水面が小さく揺れる。背嚢を降ろし、伊織が周囲を見回した。それからリオの方へ声を向ける。
「ここが目的地だ。綺麗な湖だろう。まずは荷を降ろそう」
リオは頷いた。頷くことで、自分の体が少し戻るような感覚があった。セリアが湖の方へ数歩進み、水面を覗き込む。
「すごい……こんな景色、初めて見たかも」
クララも視線を向ける。
「綺麗ね。本当に、こういう場所があるんだ」
リオは荷をほどき、鍋と薪を手前に寄せた。手の届く範囲に並べ、火を起こす位置や風の向きを確認する。考える順番が見つかれば、体も少し動きやすくなる。伊織は薪を持ち上げながら言った。
「落ち着いたらでいい。今日は動きすぎた」
声は抑えてある。説明が過ぎるでも、突き放すでもない。リオは火床の位置を見直す。短く息を整え、肩の位置を確かめた。クララが鍋を受け取りながら言う。
「無理に言葉を探さなくていいわ。言える時に言えば十分よ」
「……うん」
返事は小さかったが、言葉として形になった。セリアが振り返る。
「ごはん、簡単なのでいい? 作るから、手伝って」
伊織がこたえる。
「簡単でいい。リオ、手を貸せるか」
「……大丈夫です」
「じゃあ任せる。夜は魔物が寄らないように焚き火を続けよう」
言いたいことが喉の奥まで上がってきた気がしたが、形にならなかった。何を聞けばいいのか、それすら決まっていない。言葉は引き返し、代わりに手だけが動き始めた。
焚き火が落ち着いた。炎は必要な高さだけを保ち、はぜる音が間隔を空けて響く。火の向こう、湖と反対側の森に目を向けると、暗さが少しずつ濃くなっていた。伊織が薪を足しながら言った。
「洞窟がある。昔、しばらくいた場所だ」
それ以上を説明する気配はない。リオは火越しにその方向を見た。何かがあるのかもしれないし、何もないのかもしれない。けれど、言葉より先に視線だけが動いた。
鍋の湯気が立ち上る。セリアとクララが簡単な食事を整えている。ルヴェリスは少し離れた場所で、焚き火と湖の明かりを交互に見ていた。リオは立ち上がりかけて、止まった。足の裏に力を入れ直し、息を整える。
「……あの、」
声がそこで途切れた。続きを探すほど、言葉が遠のいた。自分が何を求めているのか、まだ形になっていなかった。伊織は火から視線を外さないまま、言う。
「言いたいことがあるなら、言葉にしてからでいい。形にならないなら、立ち止まってていい」
促すでもなく、待つでもなく。その間に立つ言葉だった。リオは拳を握り直し、喉の奥の言葉に形を与える。
「……対人戦の練習をしたいです。今日みたいになった時、何もできないのが怖い」
伊織は火ばさみを置き、ようやくリオを見る。表情に判断を乗せず、確認だけするような視線だった。
「……人の斬り方なんて、教えたくはないんだがな」
火が低く唸り、薪が崩れる音がした。リオは一度だけ息を整え、言葉を足す。
「先生……この世界は、どうも人の命が軽いようです。 俺は、その中で生きないといけない。だから……教えてください」
伊織は返事をせず、星の出始めた空に視線を投げた。ひと呼吸分の沈黙。それから、呟くように言う。
「……仕方ねぇなあ」
それ以上の説明はなかった。了承とも、諦めともつかない声音だった。セリアが鉄鍋の蓋を開け、湯気が立ちのぼる。夕食の匂いが、少しだけ場を動かした。
「まずは食え。話は明日だ」
伊織はそう言って座り直した。焚き火は弱い風に揺れて、夜を迎える準備をしていた。
翌朝、湖畔の冷たい風の中で二人は向き合った。伊織はそこらの立木から折った木切れを手にしている。リオも同じように手頃な枝を探し、握り直す。形や重さは頼りない。それでも、構えるしかない。
「約束どおりの形だけやる。動きは決まってる。迷うな」
伊織が踏み出し、木切れが振り下ろされる。リオは受け、次に打ち返す。決められた順番、決められた間隔、決められた止め方。何度やっても同じ流れだ。変化はない。ただ繰り返す。
「もう一度」
伊織の声、それだけで流れが始まる。足の置き場、視線の高さ、肩の力の抜き方。考えている間に一本が終わり、また次が来る。汗が顎を伝う頃には、本当に何度目か分からなくなっていた。
「これで……対人戦ができるようになるんですか?」
問い終える前に拳骨が額に落ちた。乾いた衝撃が一つ。
「なる。だからやるんだ。決まった形の中で、一撃で終わらせる意志を入れる。間合いで生き残る。初太刀で全部を決める。そういう稽古だ。つべこべ言うな」
リオは木切れを握り直し、頭を下げる。再び向き合い、型に戻る。土の湿り気が靴底に吸い付き、少しずつ足が馴染んでいくようだった。
少し離れたところで、クララが湯を沸かしている。 湯気が立ちのぼり、白い柱のように上がっていた。次の瞬間、その柱がほどけるように沈んだ。風も温度差も要因になるような場面ではない。ただ、湯気が上へ戻らなかった。
「今の、分かった?」
クララがセリアを見る。驚きより確認の色。
「うん。湯気、止まったよね。途中で」
その様子を見ていたルヴェリスが近づいた。焚き火の手を止め、湯面とクララを順に見比べる。
「クララ。何を考えていましたか。正確に答えてください。どうしようとしていたか、ではなく、その時にしていた想像を」
「……湯気が、もっと強く立ちのぼるところを想像していました。勢いよく、空に向かっていく感じを」
ルヴェリスの表情は崩れない。
「では、確認します」
ルヴェリスは声を落とす。
「あなたは顕そうとした。外へ向けて力の方向を想像した。しかし、起きたのは戻る方向です。この場にいた全員が、それを確認しました」
セリアが小さく息を呑む。
「術理学院では教えていない、“潜象と顕象”という概念があるのです」
初めて聞く言葉に、クララとセリアは顔を見合わせた。
「今まで学院で学んだ七理は、世界の“何が”動いているかを示す理でしたね。炎理、潮理、風理、磐理、光理、影理、虚理。現象の性格、向き、扱い方。そこまでは理解しているはずです」
クララが小さく頷く。セリアも同じように頷いた。
「ですが、それだけでは足りません。七理が“何か”なら、潜象と顕象は“どう在るか”です。どの理にも、内へ向かう働きと外へ出る働きがあり、今の湯気は……向きが変わった」
セリアが眉を寄せる。
「炎理なら……潜象だったら内側から焼いて、顕象だったら外側を焼く……みたいな話ですか?」
ルヴェリスは首を横に振った。
「全然違います。炎理の場合、潜象なら魂を温める祈祷、つまり“再生”へ向かいます。顕象なら対象を焼き尽くす火撃、つまり“破壊”となるのです。焼く、温めるは似ていますが、働きの向きが別物です」
「うー……分かんない!」
セリアが頭を抱え、椅子の背に体を預けた。
「じゃあ……私たちがいつも使ってるのは」
「顕象だけです。学院で教える霊唱術は、顕象を前提にしています。外へ出して、形にして、世界に作用させる。それが術として“正しい”と扱われている」
セリアが瞬きをする。
「潜象は……じゃあ、間違いなんですか?」
「“扱わない”が近い。危険だから、という理由もありますし、顕象だけで十分に力になるからでもあります。学院では、潜象に触れる必要がないのです」
クララは沈んだ湯気を見つめる。
「私は……触れてしまったのですね」
「可能性の話です。今は断定しません。ただ、意図せず潜象側の反応が起きたのなら——あなたは、向きの選び方から学ぶ必要がある」
ルヴェリスは焚き火に目を落とした。
「顕象だけで術を形にするのが、この世界の常識です。潜象は“失敗”や“偶然”として片づけられる。それでも、確かに存在はする。扱おうとする者がいないだけです」
湖畔では、リオが木切れを握り、伊織と向かい合っていた。決められた型の稽古。踏み込み、受け、間合いの調整。繰り返しの音だけが森に落ちる。
「足が流れてる。止めろ」
伊織の短い声。リオは息を吐き、足裏の置き場所をもう一度探る。
少し離れた木陰では、クララとセリア、そしてルヴェリスが並んで座り、暖かい湯気の立つカップを前に術理の講義が続いていた。お茶菓子の包み紙が時折鳴る。和やかだが、言葉は濁さない授業の空気。
昼が近づいた頃、伊織が木切れを納める。
「一旦、終わりだ。昼にする。……それと、少し歩くぞ」
「どこへ行くんですか」
「俺がここで暮らしていた場所だ。洞窟がある」
リオが汗を拭き、頷く。女性陣に声をかけると、ルヴェリスが湯を飲み干し、立ち上がった。
「ご一緒しても構いませんか。見ておきたい」
「好きにしろ。ただ、迷うなよ」
湖畔から離れ、木々の間を抜けると岩肌が現れた。斜面に半ば飲み込まれるようにして、薄暗い口が開いている。洞窟の入口だった。
「……ここで?」
「ああ。かなり昔だが」
伊織が火打石を取り出し、松明に火をつける。ゆっくりと中へ足を進めると、壁面が白く光を返した。砂糖菓子のような白ではなく、乾いた塩の色。
「岩塩……でしょうか」
ルヴェリスが手を触れ、指先を見つめる。
「これで生き延びた。水と塩があれば、どうにかなる」
足元には平らに踏み固められた場所。壁際には削られた溝や、石を積んで作った棚のような形。古い網の残骸が隅に掛けられていた。植物の繊維がほころび、触れれば崩れそうだ。そこにあったのは、痕跡というより生き延びた時間だった。ルヴェリスは足を止め、言葉もなく伊織を見た。
ただ、その顔を見る。視線に気付いた伊織が、わずかに目をそらす。彼女も同じように逸らした。胸の奥で、名前だけがそっと揺れた。
「……塩を持って帰ろう。セリアの味付けは塩が足らなかった」
「えっ、ちょっと、ひど~~い! ちゃんと味見したもん!」
セリアが抗議し、クララが苦笑して肩をすくめる。リオは何も言わず、そのやり取りを見ていた。伊織の“生き抜いた日々”が、ほんの少しだけ近づいた気がした。
「行くぞ。日が傾く」
松明の火が揺れ、洞窟の明かりが遠ざかる。一行は外の光へ向かって歩き出した。
二泊目の夜。湖面に映る火が、風に合わせてゆっくり形を変えていた。
「ねぇねぇ、これ見て」
セリアが色硝子の小瓶を胸の高さで揺らす。中の液体が金色に光った。
「〈緑角亭〉に泊まってた異国の商人から買ったの。王都アルヴェリオンの本店のやつで、樽で香りを仕込む熟成酒なんだって。値段も、まぁ……。でも、今日開けたい」
伊織の顔がほころぶ。抑えようとせず、素直に。
「いいな!それなら今日は“ハレの日”だ」
声に弾みがあった。
「ハレ……?」
クララが聞き返す。
「特別な日のことだ。ケってのが、毎日のことだ。飯作ったり、歩いたり、働いたり。そういう普通が続いてると、気が枯れる。気枯れって言う」
伊織は火を見たまま続ける。
「枯れたら、晴らす日を入れる。祓ったり、祝いをしたり。そうやってまたケに戻る」
「元に戻るため……なんですか?」
クララの声は無理に結論を探してはいなかった。
「そうなんじゃないかな?俺は、そう思ってるってだけだ」
伊織は照れたように笑う。
「今日は、そう思えたから飲む。それでいい」
セリアが杯を並べ、果実を皿にのせる。その横で、ルヴェリスがじっと伊織を見ていた。焚き火の明かりの揺れに合わせて、瞳がわずかに揺れる。伊織の言葉が止むと、静けさがひとつ座を得たように広がった。火の粉が弾ける。湖面から風が運ばれる。
「……少し、似ていると思いました」
ルヴェリスが言った。言葉を置くような声音だった。
「潜象と顕象に。力の向きで働きが変わるのは、確かに。内へ、外へ。その構造だけ見れば重なる気がします」
そこで一度、息を整える。言葉を選ぶ気配がある。
「けれど……決定的に違うのですね。潜象と顕象は“対”で張り合う概念です。対立が張力を生み、そこで理が立ち上がる。私はそう学んできました。でも、ハレとケは……対立していない。巡り戻る仕組みとして、並んでいる」
ルヴェリスは自分の手を見下ろした。杯を持つ指がわずかに震えているのを、本人だけが知る。
「もし、潜象と顕象も……対立だけではなく“循環と回復”を含むものだとしたら。もし、張り合う場にしか理が生まれないと思っていたのが誤りで……行き来する“路”そのものにも理があるのだとしたら。術理の根が……変わってしまいます」
その声は、恐れではなく興奮に震えていた。これまで確かだと思っていた足場が、静かに揺れた。
「私の知っている術理は、まだ途中なのかもしれません。立っている場所ごと、もう一度見直さなければならない気がして……」
ふと、言葉が途切れる。伊織がこちらを見る。特別な目ではない。ただ、在りようそのままの目。ルヴェリスは気付いた。理解の外にいたと思っていた男に、いま自分が“導かれかけている”ことに。
「よく分からんな」
伊織がぽつりと言う。
「理屈より先に、飲んで、生きて、また明日やり直す。それで俺は助かった。難しくするな。飲むぞ」
その無造作な言葉が、刃より鋭く胸に刺さる。ルヴェリスは自分の反応に驚いた。粗野で無学の男だと思っていたはずが、術理の深淵に触れたときの感覚に似ている。気づけば、目が離れなかった。
「……はい。飲みます」
それしか言えなかった。杯に熟成酒が注がれる。香りは甘い果実のようで、火に溶けるように広がった。
「じゃあ、ハレの日に」
「ハレの日に」
杯が触れ合う音が、湖面に小さな輪を描いて落ちていった。リオは少し離れた場所で、一度だけ杯を掲げた。言葉はなかったが、それで十分だった。火が静かに高くなり、夜がひとつ巡っていく。
答えは出ない。ただ――明日はまた動けばいい。




