第一話:剣の果てを見た日
城門が閉まる合図の鐘が、三度、乾いた音を響かせた。その音を背に受けながら、リオたちは城壁の影を抜け、外の道へ出た。日没はとうに過ぎ、空には残光もない。街道の先、旅籠や倉庫が寄り集まる一角だけが、灯火に浮かぶように明るかった。そこがシメオンが言っていた〈緑角亭〉のある宿場だ。
歩を進めるにつれ、ざわめきが濃くなる。荷馬車の車輪が泥を跳ね、異国の言葉で値が飛び交う。香辛料と油の匂い。城内より湿り気を帯びた空気が肌に触れ、旅人の往来が途切れない場所であると実感できた。
「あれみたい。緑の角……あれね」
クララが指した先、二階の軒先から緑に塗られた木製の角が突き出ていた。根元には〈緑角亭〉の看板。
「分かりやすい目印だな」
伊織が背負い袋を担ぎ直し、戸を押す。中は熱気に満ちていた。丸テーブルに商人たちが詰めかけ、肉と酒の匂いが立ち込める。言葉の海のような喧騒に、旅人たちの息遣いが混じる。
「いらっしゃい。部屋か、飯か?」
帳場の奥から、前掛けの男が笑みを浮かべた。
「シメオンさんの紹介で来ました。こちらを勧められて」
リオが告げると、男の表情がほころぶ。
「旦那の客なら話が早い。五人……か。二階の続き部屋で良けりゃ空いてる」
「問題ありません」
ルヴェリスが即答し、主人は鍵束を差し出した。二階へ向かう途中、伊織がぴたりと足を止めた。壁際で、灰色の上着の男が短いパイプをくわえ、湿りを帯びた葉の甘い香りを立たせている。
「……煙草があるのか」
伊織は階段を下り、男の前へ歩み寄った。声は押し殺しているのに、熱がこもっていた。
「その葉を、少し分けてくれないか」
いつもの調子とは違う声音だった。銀貨を見せると、男は湿った葉を数枚、しぶしぶ差し出した。伊織は葉を受け取ると、そのまま食堂の端に腰を下ろした。背負い袋から煙管と小刀を取り出し、卓の上に湿った葉を広げる。葉は手に吸い付くように柔らかい。
「先生……そこで何するんです?」
クララが距離を取りながら問う。
「煙草だよ。知っているだろ? お前たちの国には無かったか?」
「あるけど……それでどうするの?」
セリアが小さくつぶやく。ルヴェリスは無言で見ていた。伊織は小刀を葉にあてた。刃が滑り、数度止まりながらも、細い線が少しずつ生まれる。不慣れな手つきだが、焦りはない。刻んだ葉を指先に集め、二度ほど丸め、小さな団子にして火皿へ落とし込む。
「クララ、火をくれないか」
「えっ、ここで? ……先生の顔、燃えちゃいますよ」
「……そりゃ困るな。台所で借りてくる」
煙管を持って厨房へ行き、火をもらって戻ってくる。火皿に小さな炎が灯っていた。伊織は煙管を口に含み、一息だけ吸う。煙を口の中で転がし、ゆっくり吐いた。甘い香りが、油と酒の匂いに重ならず、薄く漂う。三口目で火皿の葉は黒く燃え尽きた。煙管を逆さにして雁首を軽く叩き、灰を落とす。ふっ、と煙管に一息吹き入れ、布で煙管を大事そうに包み、背負い袋に戻した。
「いやァ……美味かった! 百五十年ぶりだもんなぁ!」
思わず笑い声が漏れる。どこか肩の力が抜けたような、晴れやかな笑いだった。クララはぽかんとしたまま、
「そんなに……?」
と首をかしげる。セリアがリオの腕をつつき、
「ねえ、あれってそんなにいいもの?」
と小声で聞く。リオは
「分からん」
とだけ返し、ルヴェリスは視線をそらし気味に息を吐いた。理解はしていても、共感はできないという距離感だった。
「よし、行くか」
豪快に背負い袋を担ぎ直し、伊織が立ち上がる。四人はまだ腑に落ちない様子で顔を見合わせながらも、その背中に続いた。
翌朝、〈緑角亭〉の食堂には、温かいスープの香りが漂っていた。宿の主人が忙しなく皿を運ぶ中、リオは地図を開いたまま、考え込んでいた。
「……今日は、調査やめませんか」
ぽつりと言うと、クララとセリアが同時に顔を上げる。
「えっ、急に?」
「信徒たち、まだ落ち着いてないし……もう少し時間置いた方がいいと思うんです」
「先生がいたっていう場所、どこなんですか?」
リオがそう尋ねると、伊織はスープを飲み干しながら「ああ」と短く笑った。
「西の湖の近くだな。綺麗なところだ。……まあ、ちょっとばかし騒ぎにはなったが」
「騒ぎ、ね……」
リオが苦笑すると、伊織は肩をすくめた。
「行ってみるか? 気晴らしになるだろう」
「遠いよ?」
とクララとセリアが同時に声を上げる。
「レミニア湖…ですね。方向としては西、南寄り……ここなら馬車なら、一日で着きます」
ルヴェリスが地図を覗き込み、伊織の言葉を頼りに目測する。
「途中で野宿だな。……キャンプってやつか?」
「そうそう! テント借りて、外で焚き火したりして!」
「焚き火は分かるが、キャンプは分からん」
伊織が眉を寄せると、クララが胸を張った。
「とにかく楽しいやつです!」
宿で馬車を手配し、干し肉と水、布袋に詰めた野菜、それから簡素なテントを借り受けた。一行は城門を抜ける。伊織が手綱を取ると、馬車はぎこちなく、それでも安定した速度で進み始めた。
「先生、運転できるんだ……」
「昔、隊商と旅してた。馬の機嫌が悪くなきゃ大丈夫だ」
手綱を軽く引き、進路を真っ直ぐ整える。
城壁が遠ざかる前、街道はすでに人で賑わっていた。荷車を押す商人や、街へ向かう旅人。声が交差し、馬車が減速するたびにすれ違う人影が近づく。ルヴェリスが前方を見やり、小さく息を呑んだ。
「あら……あの方は」
馬車の進路上、外套を揺らしながら一人の男が立っていた。背は高くない。質素な衣に、腰の細身の湾曲剣。琥珀色の瞳が、こちらを射抜くように向けられている。
伊織が手綱を引き、馬車が止まる。リオたちも前方へ目を凝らす。男はルヴェリスの姿に気づくと、目を細めた。記憶の糸が繋がったかのように。
「おい、卑怯者のリオ!」
街道の人々の視線が、一斉にリオへ向いた。街道の空気が凍りついたように静まり、次の瞬間にはざわめきが走った。旅人も商人も、足を止めて振り返る。
「はぁ!? 誰が卑怯者だ!」
リオは馬車から飛び降りるようにして前へ出た。
「魔法を無効化して逃げた卑怯者が、他にいるか! 俺は認めんぞ! あれは俺の敗北じゃない!」
観衆のざわつきが膨らむ。誰かが息を呑み、別の誰かが足を止める。視線だけが、じわりとリオたちへ集まる。
「ありゃりゃ、リオは奴さんと縁があるねぇ」
伊織は御者台から降りもせず、手綱を軽く揺らしながら苦笑した。
「そんな“縁”、要らないんですよ!」
リオは振り返りもせず叫び、再びカリオンへ向き直る。
「……負け惜しみも、大概にしろよ」
剣の柄に手をかけ、指先に力が入る。
「なら今ここで証明しろ! お前が卑怯な手を使わずに、俺の魔法を正面から受け止められるのなら――」
「……使わなくても、効かないんだよ」
リオの横に、いつの間にかクララが立っていた。声は震えていない。ただ、淡々と事実を言っただけの声音だった。観衆が息を呑む。カリオンの眉が跳ね上がる。
「魔法を無効化する卑怯な魔道具だろう! それで逃げた! そうじゃなきゃ説明がつかん!」
吐き捨てるような声。リオは思わず前のめりになる。
「はぁ!? 魔道具なんか使ってねぇよ! そんなに言うなら――」
言葉に勢いがつき、口が勝手に走る。
「裸で勝負するか! 文句ねぇだろ!」
空気が止まった。
「は……裸!?」
「ちょっと待ってリオ!?」
「何言ってるの!? やめなさい!」
クララ、セリア、そしてルヴェリスまで声を揃えたように制止する。
周囲の観衆もどよめき、数人が目をそらした。
「なんでそうなるんですの……」
ルヴェリスが額を押さえ、小さくため息をつく。
「い、いや……そういう意味じゃなくて! なんかもう……全部見せてやるっていうか!」
「それでも言い方ってものがあるでしょう!?」
「そうですそうです! 先生にまで変な誤解が……」
「俺……?」
伊織が肩をすくめると、カリオンは歯噛みするように声を上げた。
「ふざけるな……! 茶化すつもりか! ならばいい、貴様に剣を抜く価値があるかどうか――」
カリオンは剣に手をかけたまま、胸の前で片手を開いた。その手の周囲に、淡い光が滲む。詠唱の前触れだった。
「聖なる御名の下に……風よ、我が刃へ集え」
光が生じ、空気がわずかに震えた。祈りに呼応するように剣が淡い輝きを帯びる。エンチャントは確かに成立した。観衆が息を詰める。だが次の瞬間、力は刃先で途切れた。リオへ向けようとした刹那、光が砕け、風の流れが断ち切られる。まるで先へ進む道を拒まれたように。
「……な、んで……」
カリオンは震える声を漏らした。
「武器強化まで……!?」
「効かねぇって言ったろ」
リオは構えも避けもせず立っている。それが答えだった。観衆がざわめき、数人が距離を取る。恐怖ではなく、判断が追いつかない空気だった。剣先と剣先の間に、誰も踏み込めない距離があった。
リオは構えたまま、どうしていいか分からなかった。勝てる気はしない。だが、負けを受け入れる理由もない。ただ胸の奥が痛い。
カリオンが踏み込んだ。狙いは首。斬撃の気配を先に走らせ、本命の振りを半拍遅らせる。フェイントだ。対人なら、それで十分に命を奪えるはずだった。
リオは釣られた。叩き落とすつもりの一撃が早い。軌道がずれ、刃は相手に届かず地面を穿つ。カリオンの剣もまた届かない。踏み込みが半歩足りない。空間を薙いだ軌跡は、しかし首筋の高さを正確に通っていた。あと少し近ければ肉を断っていた。
「……“寸止め”だったんじゃないのか」
言ってから、自分の声が微かに震えているのに気づいた。首を撫でた風の感覚がまだ残っている。ほんのさっき、あれが当たっていたらという想像が、遅れて追いかけてくる。呼吸がうまく戻らない。
「……外れた」
カリオンは刃を戻しながら言う。言い訳の温度ではなかった。斬るつもりで斬れなかったというだけの声。観衆の間に風が通る。何も起きていないのに、終わってしまったような空気が落ち着かない。観衆が息を呑む。武具が揺れ、誰かの喉が鳴る。
「リオ、あんまり無茶しないでよ……!」
クララが駆け寄る寸前、伊織が前に出た。
「もういい加減にしとけ」
踏み込んだ気配もなかった。ただ、そこに立っていた。柄に手がかかる。
「先生……?」
抜刀の音は聞こえなかった。
「イャアーーーーッ!」
声だけが響き、空間が軋む。刀は二人の間を通り抜けただけだった。だが、街道脇の岩が斜めに割れ、砂利が舞い、地面に亀裂が走った。誰に向けられた一撃でもない。ただ、線を引いた。
「……何だ……今の……」
リオの唇が震えた。刀の軌跡が地面に刻んだ線は、まだ白く煙っていた。誰も踏み越えないまま、風だけがその上を渡る。カリオンは剣にかけた右手を震わせたまま、動けない。抜ける。抜けるはずだった。だが、足が前に出ない。
「……っ……」
喉の奥で擦れた声が途切れる。観衆がざわめき始めた。誰かが「今の見たか」と囁き、別の誰かが距離を取った。
「先生……もう……」
クララが声をかけようとして、途中で言葉を止めた。伊織の背中が、何かを拒むように見えたからだ。
「おい……」
カリオンが息を吸う。負けを認める声ではない。否定の続きに縋るような呼吸。
「北の魔人……」
喉の奥で言葉が崩れ、それでも続いた。
「北の魔人ってのは……貴様……なのか……?」
伊織は刀を仕舞いながら、吐き捨てるように言った。
「誰がそう名乗った。勝手に呼ぶな」
「俺は……“北の魔人”を探しに来たんだ……どこかにいると聞いた……ここらのどこかに……!」
震えながら、それでも言い切る。
「名を上げるつもりだった……倒せば……俺だって……!」
伊織の視線がわずかに動いた。怒りでも嘲りでもない。何の色も持たない目だった。
「……そうか」
ただそれだけだった。慰めていない。否定もしていない。カリオンの言葉を、通り過ぎる風の一つのように受け流した。リオは言葉にならない息を一つのみ込んだ。視界の端でカリオンと伊織が向き合うのを、動けずに見ているしかなかった。
「……前の時は、魔法が通らなかったからだ。呆気にとられた。私としたことが、頭が真っ白になって……あのまま踏み込めなかっただけだ。魔法なぞに頼らず、最初から剣だけで戦っていれば良かった」
虚勢か、自己弁護か、判然としない声だった。
「……お前の言う“立ち合い”とは、“寸止め”とは、ああいうことなのだな」
伊織の声音は低く、怒気を孕んでいないのに、空気が揺れた。
「剣士たる者、いつ如何なる時も“死”を覚悟しておくべきだろう!」
口をついて出たのは、覚悟ではなく、覚悟をなぞっただけの言葉だった。弁明にもならない言葉。それでも彼は、それに縋るしかなかった。剣士は、もはや伊織に勝てるとは思っていない。むしろ、本能では「勝てる相手ではない」と理解している。それでも、踏み出したのは――
(“魔人”を前にすれば、俺が弱かったせいじゃなかった、と証明できる……!)
彼は戦いたかったのではなく、戦う場に身を置くことで、敗北の理由を外側に作りたかった。だから、恐怖を抱えながらも声を張り上げた。
「……そうか。そうだよな」
伊織がわずかに顎を引く。目つきが変わった。何かを断じる前の、静かな深み。挑む者ではなく、終わりの形を見定めた者の目。
「ま、待ってください! やめてください、先生! そんな、怖い目……!」
ルヴェリスが慌てて伊織の前に踏み出した。伊織はゆっくりとルヴェリスに目を向ける。その眼差しは、先ほどまでカリオンに向けていたものとは別人のように優しかった。
「大丈夫だ。斬り合いになんてならない」
言い聞かせるような声音だった。触れれば崩れそうな静けさの中で、しかし揺るぎはなかった。 ルヴェリスの鼓動が、不意に跳ねる。恐怖と安堵の境が曖昧になり、目が離せない。
惹かれてはいけないと理解しているのに、意識は勝手に動いた。好意とも憧れとも形のつかない熱が、胸の奥に小さな居場所を作る。声にすれば何かが決定してしまいそうで、唇は閉じたままだった。
伊織は刀の柄に触れたまま、歩み出る。観衆が息を呑み、道が割れた。伊織とカリオンの間に、十歩にも満たない空間が広がっていた。十分に斬り合いが成立する距離。それなのに、踏み込める気配が欠片もない。伊織は刀を右肩に寄せ、自然に立っている。肩の力も抜け、息の乱れもない。先程リオの前に割って入った時のような気合も無く、殺気の類いも一切感じられない。構えている、というより、ただ“そこにいる”だけだった。
距離は見える。踏み込む手順も分かる。剣士として培った判断が、機械のように条件を満たしていく。あと二歩。腕の長さと刃の射程を足せば届く。何度も繰り返してきた計算だ。だが、不意にその計算に現実味が無くなる。踏み込む自分の姿が思い浮かばない。思い浮かべた途端、その未来が途切れる。
(……なんだ、これは……)
怖いわけではない。怯えているわけでもない。ただ、“自然に”負ける未来だけが浮かぶ。こちらが斬りかかれば、その流れのまま“自然に”斬られる。剣筋が読まれるとか、速さについていけないとかではない。そうなることが当然であるかのような、理屈にならない確信が背骨に絡みついた。
「……くっ……」
膝が強張り、指先が冷える。喉が乾き、視界が狭くなる。戦うための判断が、ひとつひとつ身体の内側で霧散する。リオと向き合った時のような駆け引きではない。もっと根源的な何か。踏み出した瞬間、壊されると理解してしまう。
(踏み込めば……終わる)
数十秒か、数分か。剣士には永遠に感じられた。
「……もう無理だ。降参する……」
声はか細く、震えていた。伊織は静かに構えを解き、刀を納めた。
「それでいい」
誇りでも嘲笑でもなく、ただ事実として言葉が置かれる。カリオンは肩を落とし、剣を収めることもできず、ふらつきながら踵を返した。観衆が自然と道を空ける。
「……あれが……“魔人”……なのか……」
その声には、震えと共に、わずかな敬意が混じっていた。
ルヴェリスだけが視た。伊織がリオとカリオンの間に割って入った時。斬撃に合わせて、膨大な“力”が放たれたと分かった。マナの奔流。瞬きするほどの刹那。それでも、見逃しようがない量だった。聞いてはいた。越境者。異界から来た者。納得と、実感と、そして少しの恐れが混じった感覚。この男がどれほどの過去を抱えているのか、詳しく知っているわけではない。だが、カリオンへ向けたあの目を見た時、理解してしまった。言葉も、理屈も、説明も要らない。“斬る”という選択を、ためらいなく置ける人間の目だった。
けれど——同じ人間が、こちらへ向けた刹那だけ、まるで別人のように優しかった。過去を背負ってきたはずなのに、そのどれもを押し隠して、人を気遣えるような目だった。矛盾しているのに、どちらも嘘ではないと分かってしまう。その落差に、胸の奥がうまく呼吸できなくなる。
ルヴェリスは小さく息を吐いた。手を伸ばせば触れられるのに、触れてはいけない気がする。近くにいるのに、遠い。
「……行きましょう」
自分でも驚くほど落ち着いた声が出た。伊織は振り返らず、リオたちは事情も分からないまま頷いた。




