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クロムヘヴンの偽導者  作者: 甘栄堂
第二章:侵食の兆し
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第五話:火種は、誰の足元に落ちたのか

 中央広場は、朝から人の息で温い。石畳の中央に敷かれた布の上で、光輪の簡易儀式が手際よく回っていた。銀糸を編んだ輪が、祈りの言葉とともに掲げられ、受け取る者の胸元にそっと触れる。受け取った者は目を閉じ、何かを赦されたように肩の力を落とす。見ているだけの者は、その落ち着きに引き寄せられるように足を止め、口の端だけで笑い合う。


 この街ではそれが、呼吸の一部だった。朝の水汲みと同じように、光輪は配られ、祈りは交わされ、誰も疑問を挟まない。だから、ほんの小さな逸脱が、目に刺さった。


 人の流れの中に、一人の老人がいる。背は丸く、足取りは遅い。だが迷ってはいない。輪を受け取る列の外側を、まっすぐに通り過ぎようとする。拒むでもなく、避けるでもなく。ただ、輪の内側に入らない。誰も止めなければ、何も起きなかったはずだ。善意の声が、空気をつかんだ。


「救いは、誰にでも開かれています」


 声を掛けた信徒は、押しつける調子ではなかった。習慣のように言っただけだ。老人は一歩だけ止まり、振り返らないまま、短く答えた。


「……必要ない」


 理由は続かない。説明もない。言い切ったあとに残る沈黙が、広場のざわめきを一瞬だけ細くした。なぜ拒む。なぜ語らない。なぜ、“救われない姿”のままでいられる。視線が、ゆっくりと老人の背中へ集まっていく。


 沈黙は、説明を要求する形で膨らんだ。誰かが笑って受け流せば、それで済んだ。だが誰も笑わない。老人は理由を語らないし、信徒も踏み込まない。ただ、答えが欠けたまま視線だけが増えていく。

 別の信徒が、少しだけ強い声を出した。


「銀の輪を踏みにじっているつもりか?」


 責め立てる調子ではない。だが、穏やかでもなかった。老人が輪を受け取らないという事実に、意味を与えようとしている。受け取らないなら、なぜ。拒むなら、なぜ黙る。理由を語らない沈黙が、周囲に「悪意かもしれない」という余地を作った。


 広場の視線が、老人の背に集まる。止める者はいない。助け舟もない。代わりに、誰もが答えを待っている。老人は振り返り、口を開きかけたが、結局何も言わなかった。ほんの一拍の迷いが、さらに場を硬くした。


 老人が一歩引こうとして、石畳の縁に踵を取られた。体が傾く。倒れかけたその瞬間、リオが前に出た。剣は抜かない。力も見せない。反射的に手を伸ばし、老人の肘を支えただけだった。だが、その動きが、別の意味を生んだ。輪の外から来た者が、輪の内側に手を入れた。群衆はそれを「助けた」とは見ない。老人と同じ側に立った、と受け取る。


「連れだ」


 誰かが言った。根拠はない。だが否定もされない。言葉は周囲に渡り、あっという間に形になる。


「魔人の仲間だ」


 重ねられた声に、老人は弁解しない。リオも説明しない。説明をすればするほど、相手に判断の材料を与える。ここでは材料が増えれば増えるほど、好きな形に組み替えられるだけだ。クララが一歩前に出る。短く結界を張った。遮断ではない。人の流れを区切るための、薄い境だった。老人の周囲だけを囲い、広場の端へと移動できる余地を作る。

 群衆は、その光の膜を見て、同じ結論に辿り着いた。


 (さら)われた。


 恐怖が、正義の輪郭を得た。


 その瞬間、信徒の一人が前へ出た。祈りの言葉は短い。抑止のための、簡易な術だった。人を傷つける意図はない。ただ、場を収めるための手順だ。詠唱が終わる。


 ――何も起きない。


 光も、風も、反応もない。術式が立ち上がる気配すらなかった。信徒は一瞬、言葉を失い、もう一度だけ同じ祈りをなぞる。結果は変わらない。


「……?」


 周囲がざわめく前に、別の者が試みた。より長い詠唱。より丁寧な手順。それでも、やはり何も起きなかった。失敗ではない。妨害された感触もない。ただ、術が存在しなかったかのように、世界が応じない。ざわめきが、はっきりと混乱に変わる。


「どうして……?」

「成立しない……」

「……穢れている……?」


 誰も答えを持たない。使われたのは魔法だが、群衆は区別しない。祈りも、魔法も、霊唱も、彼らにとっては同じ“救いの側の力”だ。そのすべてが、ここでは沈黙している。説明できない沈黙は、恐怖を呼ぶ。恐怖は、理由を欲しがる。理由が見つからなければ、外側に置ける存在を探す。


 声が重なり、視線が集まり、沈黙が意味を持ちはじめる。誰かが一歩、前に出かけた。だが、その動きは続かなかった。信徒たちの間に、目に見えない揺り戻しが起きる。誰も制止の言葉を発していない。それでも、前に出る空気だけが削がれていく。暴力に踏み切るには、理由がまだ粗すぎた。


 ここで何かが起これば、それは“救い”ではなくなる。その感覚だけが、共有された。


 ざわめきは収まらないまま、人の密度がゆっくりと緩む。輪の内と外が、曖昧な境界を保ったまま離れていく。決着はつかない。ただ、この場で答えを出さない、という選択だけが残った。一行は、その流れに紛れるように広場を離れた。背後から罵声は飛ばない。追ってくる足音もない。だが、視線だけは外れなかった。人の流れが途切れる場所まで来て、ようやく足が止まる。ルヴェリスは振り返らないまま、静かに言った。


「これは熱狂ではありません」


 間を置いて、続ける。


「もっと冷たいものです。怖れが整理されて、向きが揃っただけ」


 誰も言葉を返さなかった。


 夜になると、街は静かだった。店は開き、人は集まっている。だが、昼の広場で起きた出来事を話題にしない者はいなかった。語られ方はばらばらでも、共有されている感覚は一つだった。広場で、抑止のために行使された術が成立しなかった。詠唱は終わっていた。術式も間違っていなかった。それでも、何も起きなかった。その事実が、何度も確かめるように語られる。


 それは失敗とは違う。誰かが未熟だった、という話にもならない。起きるはずのものが起きなかった。その異様さだけが残った。信徒たちは口数を減らす。軽々しく扱える話ではないからだ。術理が成立しないという出来事は、教団にとっても、街にとっても、不吉な兆しだった。理由を探そうとする者はいない。探せば、余計なことを考えてしまう。


 昼の騒ぎと重ねて思い出されるのは、ここ数日の出来事だ。教団について聞き回る余所者がいる。協力するな、関わるな、という指示が出ていた。理由は知らされていない。ただ、面倒になる、という言い方だけが添えられていた。広場で起きたことは、その指示を裏付ける材料になった。教団のすることに正面から口を出し、場を乱した連中がいた。その結果、術が成立しなかった。二つの出来事は、因果としてではなく、同じ方向を向いた不安として結びつく。


 信徒の間では、改めて確認が行われる。ああいう連中とは距離を取れ。話を聞かせるな。協力するな。昼の出来事があった以上、その指示に逆らう理由はなくなった。信徒でない者たちも、同じ空気を感じ取る。事情は分からなくても、教団が警戒している相手に関われば、厄介なことになる。それは経験則だった。だから答えない。視線を逸らす。宿の話も濁す。


 夜のうちに、態度は揃う。あの一行は、調べている余所者ではなく、触れてはいけない存在になった。言葉にされてはいないが、結論はすでに共有されていた。

 あれに関わるべきではない。


 朝になっても、街の見た目は変わらなかった。鐘が鳴り、店が開き、人は通りを行き交う。昨日の騒ぎを引きずる様子はない。だが、一行が動き出すと、違いはすぐに分かる。声をかけても、返事が遅れる。視線は合うが、すぐに外される。通りで道を尋ねれば、指先だけで方向を示され、言葉は続かない。昨日まであった雑談が消え、必要なやり取りだけが残る。


 市場でも同じだった。品は並び、金を出せば買える。だが、勧めはない。値段の相談も、使い道の話も出ない。隣の客には笑顔を向ける店主が、一行には目を合わせない。その差が、はっきりと見える。水場では、人が一斉に場所を空けた。避けられているわけではない。ただ、同じ場所に立たないようにされている。誰も何も言わない。だが、距離だけが揃っていく。


 昨日まで話を聞かせてくれていた者の姿が見当たらない。見かけても、声をかける前に用事を思い出したように立ち去る。偶然ではないと分かる程度には、同じことが繰り返された。光輪の奇跡が使っている建物の周辺では、空気が明らかに違っていた。近づく前から視線が集まり、歩みを止めると、誰かが先に用事を思い出したようにその場を離れる。入口の様子を確かめるまでもなく、ここで話を聞ける状況ではないと分かった。


 昼が近づく頃には、街全体が同じ調子になっていた。拒まれてはいない。追い払われてもいない。だが、助けはない。答えもない。協力だけが、きれいに消えている。一行は理解する。ここでは、もう何も集まらない。敵意は表に出ていないが、立つ場所は残されていなかった。


 昼を過ぎる頃には、聞き取りはほとんど意味を失っていた。質問の内容を変えても、相手を選び直しても、返ってくるのは同じ反応だった。知らない、分からない、関係ない。昨日までは、そこに一言二言が付いていたが、それが消えた。顔見知りだった者ほど、対応が早い。声をかける前に用件を思い出したように立ち去る。目が合えば、軽く会釈だけして距離を取る。無視ではないが、話を始めさせない動きが揃っている。


 間に立ってくれていた人物も姿を消した。紹介すると言っていた者は店に出てこない。別の者に尋ねると、「今日は休みだ」と言われる。理由を聞いても、それ以上は続かない。偶然が重なったとは思えない数だった。質問の内容を変えても、結果は同じだった。教団のことを聞けば話題を変えられ、街の出来事を聞けば肩をすくめられる。誰も怒らない。誰も拒絶しない。ただ、答えだけが出てこない。


 市場の片隅で、子どもがこちらを見ていた。母親がすぐに手を引き、背を向ける。叱る声は聞こえない。教えるような仕草でもない。ただ、そうするものだという動きだった。時間が経つほど、沈黙ははっきりした形を取る。個々の判断ではなく、街としての反応だと分かる。誰かが命じて回っているのではない。だが、全員が同じ判断に辿り着いている。


 この街では、もう情報は出てこない。集める以前に、流れてこない。嘘も流言もなく、説明もない。ただ、答えが消えた状態が完成していた。一行は、それ以上動かない。動いても状況は変わらないと理解したからだ。聞く相手がいない街では、足を運ぶ意味がない。


 日が落ちる頃、街の様子はさらに落ち着いた。通りの人影は減り、店の灯りも早めに消える。騒ぎは起きない。だが、静かすぎる。行き先を決めないまま、通りを一巡する。市場へ向かっても、水場に立ち寄っても、反応は同じだった。誰かが何かをしてくるわけではない。ただ、同じ距離感が保たれ、同じ視線が残る。そのまま時間だけが過ぎていった。


 宿に戻る途中で、同じ顔を何度か見た。通りの角、店の前、橋のたもと。声をかけてくることはない。ただ、そこに立っている。偶然にしては数が合わなかった。中に入ると、宿の主人が待っていた。表情は硬くないが、落ち着かない。戸を閉め、周囲を一度確かめてから、低い声で言う。


「……今夜は、泊まらない方がいい」


 理由は聞かせない。だが、困っているのは主人の方だと分かる。断っているわけではない。ただ、引き受けられない。荷をまとめる間も、外の人影は動かなかった。増えることはあっても、減らない。こちらの様子を確かめているのは明らかだった。暴力の気配はない。罵声もない。だが、逃げ道が残されているわけでもない。このまま留まれば、次に何が起きるかは分からない。


 夜の商業会館は、昼ほどの喧騒はないが、灯りは落ちていなかった。帳場では数人の書記が残り、計算盤の音が規則的に響いている。顔を見せると、執行役の男が気づいて近づいてきた。銀髭に白が混じり、視線は相変わらず周囲を測るように動いている。


「こんな時間に、どうしたんだね」


 ルヴェリスが会釈する。


「お時間を奪いません。広場で光輪の奇跡と少し揉めまして。その流れで、宿を出るように言われました」

「理由は告げられませんでしたが、察しました」


 リオが続けた。


「宿が光輪に目を付けられたくなかったのだと思います。今夜、どこにも泊まれそうにない」


 男は短く息を吐き、帳場の手を止めた。


「関わったと思われりゃ、店も宿も面倒を避ける。悪いとか正しいとかじゃない。暮らしていくための判断だ。……で、頼みは?」

「光輪の影響が及ばない宿を探しています。商業会なら、ご存じかと」


 執行役の男は顎に手を当てたまま、しばらく黙った。やがて、一つだけ頷く。


「ある。城壁の外、ジェイド街道沿いに“緑角亭”。旅の商人がよく使う。客の出入りが多いから、いちいち詮索してたら回らん。もてなしは悪くない。余計な誤解を避けたいなら、今夜はそこだ」


 クララが尋ねる。


「紹介状は……?」

「いらない。向こうも余所者の泊まりに慣れてる。変な繋がりさえ作らなきゃ、それでいい」


 伊織が問う。


「向こう(光輪)が来たら?」

「来るかどうかは知らん。ただ、ここよりは動きやすいはずだ。城壁の内側は、声が回りやすい」


 シメオンは帳場へ視線を戻した。仕事の手は止めないままだ。


「勘違いするなよ。俺は味方じゃない。だが、世の中な、一度貸しにしておくと、あとで話がしやすくなる。あんたらが後で商いを持ってきたときに、こっちに選択肢が残る」


 リオは頭を下げた。


「約束はできませんが、覚えておきます」

「それでいい。約束より、覚えてる方が信用になる時もある」


 扉に手をかける前、男がぽつりと言う。


「……向こうで聞かれたら、『商業会のシメオンからの商会だ』とでも伝えてくれ。色々と面倒を見てくれるはずだ」


 名前を名乗ったのは、それきりだった。一行は礼を述べて、商業会館を後にした。扉の閉まる音は昼より重たく響いた。



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