【第一章:偽りの光】第一話:依頼の開始
サヴェルナの街にある契約従事者連盟支部。その石造りの堅牢な建物は、昼下がりの陽光を受けて鈍く輝き、入口前には任務を終えて帰還した従事者や、新たな依頼を求めて訪れる者たちが行き交っていた。掲示板の前では、熱心に紙片を吟味する若者たちの姿があり、受付窓口には険しい顔の老練な戦士が列を作っている。声が飛び交い、武具が擦れる音が響き、支部全体は常に戦場の延長のような熱気に包まれていた。
リオは石畳に靴音を響かせ、重厚な扉を押し開ける。一年近くという月日が過ぎても、胸の奥には未だ拭えぬ影があった。セリアの件──それが彼の歩みに刻まれた大きな傷であり、同時に新たな糧でもあった。
この一年あまり、 彼は多くの依頼をこなしてきた。森の奥で群れをなす狼型魔獣を退治した夜、吹雪の峠で商隊を守った日、そして地下水路に巣食う影の魔物を追い払った時──どの任務も容易ではなかったが、彼は仲間と共にひとつずつ乗り越えてきた。傷を負い、血を流し、恐怖に足をすくませながらも剣を振るい続けた結果、支部の人々からは「確かな若き従事者」として一目置かれるようになっていた。
ある時は、廃村となった集落を調査する任務にも参加した。夜ごとに明かりが灯ると噂された村で、彼はかすかな人影と霊的な声を聞いた。真相は、遺された結界具が誤作動して幻影を繰り返していたにすぎなかったが、その不気味な夜を忘れることはできなかった。また別の日には、毒霧の立ちこめる洞窟で希少鉱石を採取する依頼に挑み、毒に侵された仲間を背負いながら出口まで走り抜けた。その時の息苦しさと胸の痛みもまた、彼の心に刻みつけられている。
さらにこの一年、リオは依頼をこなす傍らで伊織の稽古にも励んだ。朝には三千、夕には八千もの立木を打ち据え、掌に血豆を作りながらも一打一打を積み重ねてきた。やがて棒きれ同然の木剣を手に伊織と打ち合うようにもなった。技らしい技を教わったわけではないが、動きに対する反応と踏み込みの確かさが少しずつ身に付いてきたのを、リオ自身も実感している。街の外れで遭遇する魔物や猛獣なら大抵打ち負かせるほどには成長しており、独り立ちした契約従事者としての自覚も芽生えていた。それでも、師である伊織には全く歯が立たない。何百手と打ち込んでもあっさりといなされ、反撃の隙さえ見いだせない。圧倒的な差を前に悔しさを覚えつつも、その背中を追うことこそが成長への道だと、リオは歯を食いしばって木剣──あるいは剣を振り続けていた。
だが、心の奥に残るのは勝利の喜びではなく、あの日の後悔である。堕界体を断ち切ることができず、伊織の刃が決着をもたらした光景。気を失ったセリアが目を開け、クララに抱きしめられながら微笑んだあの瞬間。リオの耳には今も「……あなたって……本当に……どこまで優秀なつもりなの……?」という囁きが残響のように響いていた。守れなかった無力感と、それを埋めようとする焦燥感。その入り混じった感情が、彼を突き動かし続けている。
サヴェルナの街並みも、この一年のあいだに少しずつ表情を変えてきた。
凍てつく冬に静まり返っていた噴水広場は、春には子どもたちの笑い声で満たされ、夏には旅人たちの歌が響き、秋には色づいた並木が道ゆく者の足を和ませた。
市場には季節ごとに異国の香辛料や珍しい果実が並び、街路には絶えず人々の往来があった。従事者にとっては日々が戦場であっても、街には確かに平穏が息づき、その移ろいはリオの胸に複雑な感情を生み出していた。
支部の広間に集められた人々の前で、連盟幹部がゆっくりと壇上に上がった。深い皺を刻んだ顔に威厳を漂わせ、彼は一枚の黒革の札を取り出す。その中央には銀青色に煌めく金属片──ミスリル銀が嵌め込まれていた。
従事者証。それは契約従事者にとって身分を示す唯一の証であり、等級ごとに異なる金属が嵌め込まれる。ブロンズ、アイアン、スチール、シルバー、ゴールドを経て、さらに上位に位置するのがミスリル級である。ミスリル級は“高等精鋭等級”とされ、霊的存在の討伐や危険遺構の探索といった、命を賭して挑むべき依頼をも担うことができる者たちだ。その札の輝きは、単なる地位の象徴ではなく、背負う責務の重さを示すものであった。
「リオ・ナカムラ。君のこれまでの功績を認め、ゴールド級からミスリル級へ昇格とする」
幹部の声が広間に響いた瞬間、ざわめきが走った。拍手を送る者、驚きに目を見開く者、羨望と期待の入り混じった視線がリオに注がれる。しかしリオは、浮かれることなく静かに従事者証を受け取った。銀青色の金属片が光を反射し、彼の顔を淡く照らす。その光は栄光ではなく、問いかけのように彼の胸を締め付けた──「本当に、お前はふさわしいのか」と。
仲間たちの中には、リオに声をかけてくる者もいた。「次は一緒に組もうぜ」と笑顔で言う者もいれば、「若造が早すぎる」と皮肉を口にする者もいる。そのすべてを、リオは静かに受け止めた。彼にとって大切なのは他人の評価ではなく、自分の剣で証明することだったからだ。
幹部は厚い文書を広げ、低い声で続ける。
「クロムヘヴンで最近、勢力を急速に拡大している教団がある。“光輪の奇跡”と名乗り、信者の熱心さが度を越し、時に話が通じないほどになっている。しかもその影響は一部の貴族階級にまで及びつつある。我々に届いた依頼の詳細は秘匿されているが、調査を依頼された背景には王家の意向があると理解してほしい。もしよければ、この調査を引き受けてもらえないだろうか」
本来、契約従事者の任務は支部の掲示板に貼られた依頼から各自が選ぶのが常だ。だが、ミスリル級に昇格した者には、時として連盟から直接声がかかることがある。命令ではなく、あくまでも「やってみないか」という依頼として。今回もその稀有な一例であった。
広間に再びざわめきが広がる。クロムヘヴンといえば、サヴェルナから北東へタリス街道を百六十七キロ進んだ先にある中継都市ヴァルティカを経由し、さらに北へ百四十四キロほど行った場所に広がる繁栄都市である。交易と宗教の中心として栄えてきた街だった。丘陵地帯に築かれたこの街は、鉱業と鍛冶の中心地としても知られる。昼も夜も炉の赤い光と金槌の音に包まれ、絶えず金属の匂いが漂っていた。街を支えるのは主にドワーフたちであり、彼らの鍛冶技術は大陸でも群を抜く。その周囲には人間の技術者やノームの発明家たちも暮らし、工房や研究所が軒を連ねている。しかし、繁栄の陰でダークエルフの工業による自然破壊が進み、さらに“シャドウリング”と呼ばれる存在が鉱脈を蝕んでいるとも噂される。活気と腐敗がせめぎ合う都市──それがクロムヘヴンであった。
リオは深く息を吸い込み、瞼を閉じる。心に残る痛みを押し殺し、やがて力強く頷いた。自分が逃げてはならないことを知っていた。
その横で、クララが一歩前に進み出た。術理学院の課程を修め、春から三年生に進級したばかりの彼女は、リオの昇級を見届けに来ていた。幹部の口から「教団」「光輪の奇跡」という言葉が出た瞬間、反射的に問いかけた。
「……“光輪の奇跡”とは何ですか?」
霊唱術と魔法を学ぶ者として、その言葉を聞き流すことはできなかったのだ。広間の空気がわずかに揺らぐ中、クララは続ける。
幹部は一呼吸置いて答えた。
「“光輪の奇跡”とは、教団が掲げる教義そのものを象徴する名でもある。彼らは死んでもなお再び生まれ変われる、蘇生すら可能であると説き、すべての者は女神の前で等しくあるべきだと主張している。貧富の差も特権階級もあってはならない──耳に心地よい理想を語りながら、人々を強く惹きつけているのだ。
だが同時に、彼らは七理体系に真っ向から反する思想を口にしている。たとえば魂は循環せず永遠に保存できるとか、因果律を越えて過去を塗り替えられるといった、術理では禁忌とされてきた発想だ。生命と死を隔てる境界を無視し、秩序を揺るがすような教義が混ざっている。
術理に反する危うい思想であり、悪用の可能性も否定できん」
クララは小さく息を呑み、そして言葉を発した。
「……この事象は術理を学ぶ者として見過ごすことができません。契約従事者として登録し、随行扱いという形であれば参加できるはずです。春学期が本格的に始まるまでにはまだ猶予があります。その間に調査へ同行することは可能です」
クララは心の中で、自分の学業をおろそかにするつもりはないと繰り返し念じていた。学院での学びも大切だが、それ以上に“異端の光”という言葉が、術理を志す者の魂を揺さぶっていたのだ。
その声には揺るぎない意志があった。リオは驚きを隠せなかったが、やがてその決意を受け止めるように頷いた。
そこへ、セリアがクララの隣に進み出る。彼女はクララと同居する身となっていた。セリアは「あの事件」以降、両親から恐れられ、多額の手切れ金と共に屋敷を追い出されていた。家を借りるなり良い宿屋に泊まれるほどの資産を持ちながら、なぜかそのままクララの部屋に転がり込んできた。クララは困惑しつつも、結局〈月影亭〉で共に暮らすようになっていた。かつて堕界体に憑依されかけた経験を持つ彼女は、術理の悪用に人一倍敏感だった。
「あたしも……行かせて。あの時みたいに、もう誰かを失うのは嫌なの。術理をねじ曲げる存在なら、あたしも感じ取れるかもしれない」
その声は震えを含んでいたが、同時に過去の恐怖を振り払おうとする強さが宿っていた。
クララは横目でセリアを見やり、小さく頷いた。
「……セリア、無理はさせられないけれど、その感覚はきっと役に立つわ。一緒に行きましょう」
静かな空気を裂くように、背後から低く重い声が響いた。
「俺も同行しよう」
姿を現したのは伊織だった。彼もまたリオの昇級を見届けに来ていたが、転移してから百五十年の時を過ごしながらも、その肉体はほとんど歳を取っていない。三十代後半の風貌と研ぎ澄まされた眼差しは健在で、ただ立つだけで周囲を圧倒する存在感を放つ。広間は一瞬で静まり返り、誰もが息を呑んだ。伊織はすでに契約従事者として登録されていた。しかし、依頼を遂行しても報告はいい加減で、実績としてはほとんど残らない。そのため、現在もアイアン級という初級者等級のままだった。周囲からは得体の知れない化け物のように見られていたが、当の本人としては置いてきぼりになるのが嫌だな、程度にしか考えていなかった。
結局、彼の胸にあったのは、取り残されるくらいなら一緒に行こう、という単純な結論だった。長く独りで生きてきた伊織にとって、リオやクララたちと過ごす日々は思いのほか心地よく、他の人間と共に歩むのも悪くないと感じ始めていたのである。その気配が一切の緊張を見せぬ余裕となり、逆に周囲に異質な圧を与えていた。
後日、クララは学院に経緯を報告するため足を運んだ。春学期が始まったばかりで、学院の中庭には新入生と上級生が入り混じり、鮮やかな制服が彩りを添えていた。芝生には書物を広げる者や術理式を試す者、未来への希望に胸を弾ませる声が響いていた。
クララは教員に事情を説明していたが、その表情には迷いと責任感が交錯していた。すると、背後から軽やかな足音が近づき、ふいにルヴェリスが姿を現した。彼女はいつもの涼やかな笑みを浮かべ、風に金の髪を揺らしながら「面白そうですね」と呟いた。
クララは思わず眉をひそめ、教員に向かって言った。
「これは遊びではございません。術理を乱す可能性のある教団の調査なのです」
しかしルヴェリスは気にする様子もなく、真剣な光を瞳に宿しながら答えた。
「分かっています。でも、見過ごすわけにはいきません。学院の規則に従えば従事者として登録はできませんが……学院の一員として、勝手にお供します」
あっけらかんと言い放ったその態度は軽いようでいて、言葉の奥には確かな決意があった。クララは呆れながらも、彼女の眼差しの奥に揺るぎない真剣さを見て取った。
リオは仲間たちの視線を受けながら、心の奥に小さな炎を灯した。クララは迷いなく前を見据え、セリアは恐怖を押し殺して進もうとしていた。伊織は沈黙のまま、何を考えているのか読み取れない。覚悟などというものとは無縁の表情で、ただ弟子の冒険についていってみようか──といった軽い考えを抱いているようにも見える。その余裕めいた態度が、逆に彼の強さを際立たせていた。ルヴェリスはどこか愉快そうに彼らを見やり、未知の旅路に胸を高鳴らせているようだった。
こうして、リオ、クララ、セリア、伊織、ルヴェリスの五人はクロムヘヴンへの旅路に挑むこととなった。石造りの支部の外では夕陽が沈みかけ、赤い光が街を染めていた。鐘の音が遠くから響き、人々のざわめきが夜の始まりを告げる。過去の痛みを胸に抱えながらも、それぞれの決意を胸に秘め、新たな試練の幕が静かに上がろうとしていた。




