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稲穂を揺らす風に、君の過去が溶けるとき

作者: 久遠 睦
掲載日:2025/12/06

第一部 土の匂い


アスファルトが発する熱の代わりに、雨上がりの湿った土の匂いが肺を満たす。東京を離れて二年。佐藤歩美、二十八歳。この匂いこそが、私が故郷の秋田に帰ってきたことの、何より雄弁な証だった。

東京の大学を卒業し、そのまま都内のIT系企業に就職した。仕事は刺激的で、気の合う同僚や友人もいた。週末には話題のレストランに行き、美術館を巡り、それなりに充実した日々を送っていた。けれど、心のどこかで常に何かに追い立てられているような焦燥感があった。満員電車の息苦しさ、上昇し続ける物価。東京の月平均消費支出が34万円を超えると知った時、ふと秋田での暮らしを思った。秋田市のそれは27万円台。収入は下がっても、この差額は「心のゆとり」という、お金では買えない価値に変わるのではないか 。それは逃げではなく、自分らしい成功の形を求める、前向きな選択だった 。

幸運にも、東京で培ったプロジェクトマネジメントのスキルを活かせる地元の電子部品メーカーに職が見つかった 。秋田の主要産業の一つであるその会社は、東京の本社と地方の工場とでは、流れる時間の速さが全く違った。最初は戸惑ったものの、今では私も、東京仕込みの効率一辺倒な提案書に、ワンクッション置くための雑談を挟むくらいの余裕ができた。それは、この土地の文化に根を下ろそうとする、私なりの誠意だった 。

休みの日は、実家の農業を手伝うのが習慣になっていた。秋も深まったその週末、私は両親と共に、最後の枝豆の収穫に追われていた。秋田のオリジナルブランド「あきた香り五葉」は、豊かな香りと強い甘みが自慢だ 。かごに山盛りになったさやを運びながら、父がトラクターのエンジン音に負けない大声で言った。 「歩美も、こっちさ戻ってきて、顔つきがようなったな」 母も頷きながら、泥のついた手で私の頬を撫でた。 「あとは、いい人でもいれば、言うことなしだども」 「そればっかりは、巡り合わせだから」 そう笑って答える声は、自分でも驚くほど穏やかだった。刺激はない。でも、このゆっくりと着実に季節が巡る感覚が、今の私には何より心地よかった。

その数日後、取引先との会食の席で、彼に出会った。 秋田市内の、地元の食材をふんだんに使った創作和食の店だった 。少し遅れて席に着いた彼は、藤井海斗と名乗った。私より二つ年下の二十六歳。少し日に焼けた肌に、人懐っこい笑顔が印象的だった。仕事の話が一段落すると、彼は堰を切ったように話し始めた。 「佐藤さんは、ずっと秋田なんですか?」 「いえ、二年前に東京からUターンしてきたんです」 「へえ!俺も一年くらい前にこっちに戻ってきたんですよ。その前の一年は、海外をふらふらしてて」 「海外、ですか?」 「ええ、まあ、ちょっとした自分探しの旅、みたいな」 彼はそう言って悪戯っぽく笑った。その場はたわいもない話で終わったが、彼の屈託のない笑顔と、「自分探しの旅」という言葉の奥にある何かが見えない光のように、私の心にちかちかと残った。


第二部 違う歩幅


彼との関係は、メッセージのやり取りから始まった。会食の礼を伝えるだけのつもりだったのに、海斗からの返信はいつも少しだけユーモアが効いていて、会話を次へと繋げたがった。

初めて二人で会ったのは、仕事終わりのカフェだった。彼が選んだのは、旭川沿いにある『Cafe Epice』という店だった 。アンティーク調の家具と、窓から見える川の流れが落ち着いた雰囲気を醸し出している。 「どうして秋田に帰ってこようと思ったんですか?」 熱いコーヒーを冷ましながら、海斗が尋ねた。 「東京の暮らしが、自分の歩幅に合わなくなった、って感じかな。もっと地に足の着いた生活がしたくて」 「地に足の着いた生活、か。俺とは正反対ですね」 彼はそう言って、自分の旅の話を少しだけしてくれた。バックパッカーとして、なるべく安く、長く、気の向くままに旅をしたこと。失うものがない若いうちに、世界の広さを見ておきたかったこと 。彼の話は、私が手放してきた刺激的な世界の匂いがした。だからこそ、強く惹かれたのかもしれない。

二度目のデートで、彼は私を千秋公園に誘った 。久保田城の跡地であるその公園は、紅葉が始まっていて、散策するにはちょうどよかった。その後、彼の運転で向かったのは、秋田港のポートタワー・セリオンだった 。地上100メートルの展望台から、日本海に沈む夕日を二人で眺めた。オレンジ色に染まる空と海を見つめながら、私は自分のUターンが正しかったことを確信し、そして、この人の隣でもっとこの景色を見たい、と思った。

彼の自由さに憧れ、私の堅実さに彼は興味を惹かれている。私たちは互いにないものを求め合っているようだった。それがたまらなくロマンチックで、同時に、どこか危ういことのようにも思えた。 「どうして、一年も旅をしようと思ったの?」 夕日に照らされた彼の横顔に、私はふと尋ねていた。 「んー…まあ、若気の至り、みたいなもんですよ」 彼は笑ってそう答えるだけで、決して核心には触れようとしなかった。その謎めいた部分も、彼の魅力の一つに思えていた。この時はまだ。


第三部 言葉にされない空間


季節は秋から冬へと移り、私たちの関係はゆっくりと、でも確実に深まっていった。

週末、私は海斗を実家の農作業に誘った。雪が降る前に、来年の春に向けて土を整えなければならない。 「うわ、これ、思ったより重い!」 慣れない手つきで鋤を握る海斗の姿に、思わず笑みがこぼれた。彼は文句を言いながらも、楽しそうに土を掘り返している。冬の農作業は、春の芽吹きのための準備だ 。納屋で冷えた体を温めながら、母が用意してくれた甘酒をすする。そんな何気ない時間の中に、彼が溶け込んでいくのを感じた。それは、私が秋田に求めていた、穏やかで確かな幸せの形だった。

私たちは、定番のデートスポット以外にも足を延ばすようになった。武家屋敷が残る角館の雪景色を見に行ったり、凍てつく空気が美しい抱返り渓谷の近くまでドライブしたり 。共有する時間が増えるほど、思い出の風景も増えていった。

けれど、関係が親密になるにつれて、彼の「一年間の旅」が、私たちの間に横たわる言葉にされない空間として、その存在感を増していった。彼は決して嘘をついているわけではない。ただ、巧みにその話題を避けるのだ。その沈黙は、彼が何かを隠しているというよりも、触れられたくない傷を抱えていることの証のように思えた。

私も、それを無理にこじ開けようとは思わなかった。なぜなら、心のどこかで怖れていたからだ。彼が抱える未知の過去が、私が必死に築き上げたこの穏やかな日常を乱すのではないかと。彼の沈黙を許しているのは、私自身の臆病さなのかもしれない。そう思うと、胸の奥が少しだけ痛んだ。私たちは、二人で共犯者のように、その「空間」を見ないふりをしていた。


第四部 一年間の旅


その日は、突然やってきた。きっかけは、本当に些細なことだった。街中で偶然、海斗の大学時代の知人だという男性に会ったのだ。 「おー、藤井じゃん!生きてたのか!あの後、大変だったんだぞ」 男性は悪気なくそう言ったが、海斗の顔からすっと血の気が引くのがわかった。彼は慌ててその場を取り繕うと、足早に私を連れてその場を離れた。

その夜、アパートに戻っても彼は押し黙ったままだった。重い沈黙に耐えきれず、私が「あの人、誰?」と尋ねると、彼は観念したように、ぽつりぽつりと話し始めた。

「あの旅は…自分探しなんて、格好のいいものじゃなかったんだ」

地元の大学を卒業した後、彼は気の合う友人二人と、小さなITベンチャーを立ち上げたのだという。若さと情熱だけを武器に、事業計画も甘いまま借金をした。当然、事業はあっという間に行き詰まった。日に日に増えていく負債と、仲間からの無言のプレッシャー。彼は、そのすべてに耐えきれなくなった。 「怖かったんだ。何もかも。失敗したって認めるのが。だから…逃げた」 彼は個人の貯金をすべて引き出すと、仲間にも何も告げず、海外行きの飛行機に飛び乗った。彼が「自由」と呼んだものは、責任からの逃亡だった。彼が「冒険」と語った日々は、現実からの逃避だったのだ 。

話を聞き終えた時、私の頭の中は真っ白だった。ショック、失望、そして、ほんの少しの憐れみ。私が憧れた彼の軽やかさは、無責任さの裏返しだった。私が惹かれた彼の自由さは、臆病さの言い訳だった。

何より辛かったのは、彼の生き方が、私のそれとあまりにも対極にあったことだ。私は、東京での息苦しさという現実と向き合い、悩み、計画を立てて、この秋田の地に帰ってきた。自分の足で、自分の人生を立て直すために。 でも、彼は違った。彼は現実から目を背け、ただ逃げ出した。

「ごめん…こんな俺だって知って、幻滅しただろ」 彼の声は、か細く震えていた。私は、何も答えられなかった。彼を許せるかどうかの問題ではなかった。私が愛した「藤井海斗」という人物は、そもそも存在しなかったのかもしれない。その事実を、どう受け止めればいいのか、わからなかった。


第五部 故郷の静寂


彼のアパートを後にしてから数日間、私は自分だけの時間に閉じこもった。平日は仕事に没頭し、週末は実家の畑に立った。

季節は冬を越え、春の気配がすぐそこまで来ていた。父と二人、黙々と田んぼの荒起こしをする 。固くなった土をトラクターが力強く耕していく。土が掘り返されるたびに、新しい生命の匂いが立ち上る。失敗した畑も、冬の間じっと力を蓄え、春になればまた新しい種を蒔くことができる。農業の、その厳しくも誠実なサイクルが、私の心を少しずつ解きほぐしていった。

私は、自分のUターンを思い返していた。あれも一種の「逃亡」ではなかったか。東京という場所が与えるプレッシャーから、私は逃げ出したのだ。海斗のそれとは形も重さも違うけれど、耐えきれない現実から距離を置きたいという衝動は、痛いほど理解できた。

そして、彼が秋田に戻ってきたことの意味を考えた。彼は、ずっと海外にいることもできたはずだ。それなのに、彼は戻ってきた。地元で職を見つけ、静かに、真面目に働いている。それは、彼なりの贖罪であり、逃げ出した自分と向き合おうとする、ささやかな勇気の表れではないだろうか。

過去は変えられない。でも、彼は今、変わろうとしている。私が好きになったのは、過去の過ちを犯した彼ではない。私の前で笑い、私の家族と食卓を囲み、慣れない手つきで畑仕事を手伝ってくれた、今の彼だ。過去の物語に囚われて、目の前にある愛を見失うことほど、悲しいことはない 。

答えは、出ていた。

週末の午後、私は彼のアパートを訪ねた。彼はやつれた顔で私を迎えた。私は何も言わず、持ってきた小さなビニールポットを彼に差し出した。中には、芽吹いたばかりのトマトの苗が入っていた。 「…これ、うちの畑の。もう少し大きくなったら、プランターに植え替えてあげて」 彼は、私の顔と苗を交互に見た後、戸惑いながらそれを受け取った。 「歩美…」 「水、やりすぎないようにね。あと、日当たりのいい場所に置くこと」 私は彼の言葉を遮るように、早口で言った。許す、とか、やり直そう、とか、そんな言葉は必要なかった。この小さな苗が、私たちの答えだった。

過去という固い土は、もう掘り返された。私たちは、ここに、この秋田の地で、新しい種を蒔くのだ。 海斗は、震える手でポットを大事そうに胸に抱きしめ、深く、深く頷いた。窓から差し込む春の光が、緑の双葉を優しく照らしていた。


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