第3話:境界線の執行者
深夜の住宅街を、俺たちは無様に走り続けていた。
肺が焼けつくように熱い。
足の裏がアスファルトを叩くたびに、現実感のない痺れが全身を駆け巡る。
それでも俺は、右手に感じる
「確かな重み」
を決して離さなかった。
「はぁ、はぁ……みなト、くん……っ!」
隣を走るはずの少女の姿は、相変わらず俺の目には見えない。
だが、繋いだ手のひらから伝わる汗の湿り気と、恐怖に震える細い指の感触だけが、彼女がそこに「いる」
ことを証明していた。
「後ろは見るな! とにかく走れ!」
俺は自分の呼吸音に声をかき消されそうになりながら叫んだ。
振り返らなくても分かる。
背後の闇が、質量を持って膨れ上がっている気配。
街灯の光が、ある一点で唐突に途切れている異常な光景。
音もなく、ただ世界を削り取るように迫ってくる『それ』は、さっきまでそこにあった郵便ポストを、土台のコンクリートごと消滅させたばかりだった。
破壊ではない。
文字通りの「削除」だ。
瓦礫一つ残らない。
「あっ……!」
不意に、繋いだ手が強く引かれた。
透子が足をもつれさせたのだ。
俺は慌てて踏ん張り、彼女の見えない身体を支えようと腕を回す。
その一瞬の停滞が、致命的だった。
「……しまっ」
逃げ込んだ先は、雑居ビルの裏手。
古びた鉄製のフェンスと、積み上げられた産業廃棄物のコンテナに阻まれた袋小路だった。
行き止まりだ。
背後で、空気がねじれるような低い振動音が響く。
ゆっくりと振り返ると、路地の入り口を塞ぐようにして、あの黒い不定形の物体が這い寄ってきていた。
アスファルトが黒い液状の何かに触れた端から、白紙に戻るように消えていく。
「嫌……消えたくない……っ」
透子の悲痛な声が耳元で震える。
俺には彼女を守る術がない。
物理的な暴力ならまだしも、存在そのものを消し去る理不尽な現象相手に、肉まんで腹を満たしただけの大学生が勝てるはずもなかった。
それでも、俺は透子を庇うように前に立った。
見えなくても、彼女が俺の背中に額を押し付けているのが分かった。
「クソッ……ここまでかよ」
黒い塊が鎌首をもたげるように隆起する。
俺たちの存在を、この世界のバグとして修正するかのように。
死を覚悟して目を閉じた、その時だ。
「――伏せろ、一般人」
頭上から降ってきたのは、冷徹な男の声。
直後、鼓膜を裂くような破裂音と共に、路地裏が真昼のような白光に包まれた。
「うわっ!?」
俺は反射的に目を覆い、その場にうずくまる。
強烈なマグネシウムの燃える臭いが鼻をついた。
目を開けると、あれほど圧倒的だった黒い塊が、光に焼かれた影のように霧散し、下水溝の隙間へと逃げ込んでいくのが見えた。
「……あいつが、逃げた?」
呆然とする俺たちの目の前に、一人の男が音もなく着地する。
くたびれた灰色のレインコートに、無精髭。
手には銃身の長い、改造されたリボルバーのようなものを握っている。
男は懐から取り出したタバコを口にくわえると、まだ熱を持つ銃口を俺たちに向けたまま、気怠げに言った。
「2時15分。カテゴリーCの『バグ』駆除完了……と言いたいところだが、余計なオマケがついているな」
男の鋭い視線は、俺を通り越し、俺の背後にある「何もない空間」
を正確に射抜いていた。
「おい、そこの透明な嬢ちゃん。……お前、いつから『向こう側』に片足突っ込んでる?」
-------------------------------------------------------------------------------------
【登場人物】
- 冴島 煌: 『削除者』を狩る男 / 謎の武装をした人物
【場所】
- 路地裏の袋小路: 雑居ビルの裏手にある行き止まり。産業廃棄物のコンテナや古びたフェンスがあり、逃げ場がない場所。
【アイテム・用語】
- 対浸食・閃光リボルバー: 冴島が使用した武器。物理的な弾丸ではなく、強烈な光と熱を発するマグネシウム弾のようなものを撃ち出し、『削除者』を退ける効果がある。
- バグ(カテゴリーC): 冴島が『削除者』を指して呼んだ名称。この世界にとっての異物であることを示唆している。




