沈黙の破壊と魔王の胃痛
天を衝くほどの巨岩が、森の守護者だったトレントをその禍々しいコアごと粉砕し、後に残されたのは、耳鳴りがするほどの静寂と、舞い上がる土煙だけだった。
俺、相川静は、自分が引き起こした(ことになっている)大破壊の中心で、ただ尻餅をついて呆然としていた。助かった。仲間たちが無事だった。その安堵感と、自分が生きているという事実だけで、俺の思考は完全に停止していた。
やがて、土煙が晴れ、目の前の惨状――いや、神業の跡を目の当たりにした仲間たちが、ゆっくりと俺に歩み寄ってくる。その三人の目に宿っていたのは、もはや尊敬や畏怖といった、理解の範疇にある感情ではなかった。それは、嵐や、地震や、雷といった、抗うことのできない大いなる自然の脅威、あるいは、神そのものを前にした時のような、原始的な『畏敬』の念だった。
「……これが……。これが、サイレントキラー……殿の、真の力……」
勇者アレクサンダーが、震える声で呟く。彼の碧眼は、俺を映しながらも、その奥にある、人知を超えた何かを見ているようだった。
聖女セラフィーナは、ただ胸の前で固く手を組み、言葉もなく俺を見つめている。その瞳は潤み、彼女の『絶対治癒』のスキルをもってしても癒すことのできない、魂の領域に触れたかのような衝撃を受けていた。
そして、賢者レオナルドは。彼は、自分が心血を注いで書き記してきた『静語録』が、風に吹かれて地面を転がっていくのを、ただ見ているだけだった。彼の叡智の結晶であるはずのその書物は、今、目の前で繰り広げられた奇跡の前では、あまりにも矮小で、無意味なものに成り下がってしまっていた。
「……我が、間違いだった」
レオナルドは、力なく呟いた。
「彼の深淵を、言葉で、知識で、理解しようなどと……。なんという、傲慢。我々は、神の御業を、蟻が理解しようとするのと同じ過ちを犯していたのだ……」
(神……? 御業……? だから違うって! 俺はただ、石柱に寄りかかっただけだって! あれは事故! ドミノ倒しみたいなもん!)
俺の内心の必死の叫びは、もちろん誰にも届かない。彼らは、俺がただ石柱を一つ押すだけで、この地形全体の構造を瞬時に見抜き、計算し尽くし、連鎖崩壊を引き起こして、鉄壁の守護者を一撃で葬ったと、本気で信じ込んでいるのだ。
俺は、このとんでもない勘違いの空気に耐えきれず、何か、何か言わなければと焦った。しかし、喉から絞り出されたのは、いつもの、あの絶望的な一言だけだった。
「…………うす」
その音を聞いた三人は、びくりと肩を震わせた。
もはや、彼らの脳内で、その言葉がどう変換されたのかは分からない。「想定内だ」なのか、「驚くに値しない」なのか。あるいは、もはや言葉の意味など関係なく、神の口から発せられた、ただの音として、畏れ多く受け止めたのかもしれない。
◆
トレントは消滅した。だが、問題の元凶は、まだそこに存在している。
広場の中央にそびえ立つ、巨大な『汚染水晶』。それは、主を失った今もなお、周囲に禍々しい邪気を振りまき続けていた。
アレクサンダーが、ハッと我に返り、水晶を睨みつけた。
「いかん! まだ終わってはいなかった! あの水晶を破壊せねば、この森は浄化されない!」
彼はそう叫ぶと、聖剣を構え、水晶に向かって駆け出した。
「はあああっ!」
渾身の力を込めて、聖剣を振り下ろす。
キィィィィン! という甲高い音と共に、激しい火花が散った。しかし、巨大な水晶には、傷一つついていない。それどころか、アレクサンダーの方が、その衝撃に腕を痺れさせて、後ずさった。
「くっ……! なんという硬さだ!」
「無駄だ、アレク!」
レオナルドが叫ぶ。
「『汚染水晶』は、物理的な攻撃をほとんど受け付けない! 純粋な聖属性の力で浄化するか、あるいは、その再生能力を上回るほどの、圧倒的な破壊力で、コアごと粉砕するしかないんだ!」
「ならば!」
セラフィーナが一歩前に出て、杖を構える。
「私の聖なる力で……!」
彼女が祈りを捧げると、その体から柔らかな光が溢れ出し、水晶へと降り注ぐ。しかし、水晶の放つ邪気はあまりにも強力で、セラフィーナの聖なる光は、その表面で霧散してしまう。
「そんな……。私の力では、邪気を中和するのが精一杯……」
セラフィーナが、悔しそうに唇を噛む。
物理攻撃も、聖なる力による浄化も、通用しない。万策尽きた三人は、自然と、最後の希望である俺の方を振り返った。
三対の、期待と、信頼と、そして何より『畏敬』に満ちた視線。
(やめて! そんな目で見ないで! 俺にできることなんて、何もないんだから!)
俺は、その重圧に押しつぶされそうだった。もう、何も考えたくない。何もしたくない。ただ、この悪夢のような状況から、一刻も早く解放されたい。
(帰りたい……。日本に帰りたい……。俺の部屋の、あの薄汚れた天井を見ながら、どうでもいい動画を見て、だらだらとポテチを食う……。そんな、何の変哲もない日常に……)
俺は、無意識のうちに、ポケットに手を入れていた。そこにあるのは、圏外のスマートフォン。俺と、俺が失った平穏な日常とを繋ぐ、唯一の遺物。
俺は、その冷たい感触を確かめながら、目の前の巨大な『汚染水晶』を、ただ、じっと見つめた。こいつのせいで、俺はこんな目に遭っている。こいつさえなければ、今頃は森を抜けて、街でどうやって生きていくか、真剣に悩んでいたはずだ。こんな、神様扱いされることもなく。
(なくなってしまえ……。こんなもの、今すぐ、粉々に砕け散ってしまえ……)
その、心の底からの、切実で、純粋な『願い』。
それは、これまで俺が抱いてきた、どの感情よりも、強く、鋭く、研ぎ澄まされていた。
ピシッ。
小さな、本当に小さな音が、静寂の中に響いた。
俺の目の前にある、巨大な黒水晶。その滑らかな表面に、一本の、髪の毛のような亀裂が入った。
「……ん?」
最初に気づいたのは、レオナルドだった。
「今……何かの音が……」
ピシッ、ピシッ、ピシピシッ!
亀裂は、一つ、また一つと、その数を増やしていく。まるで、内側から見えない力に侵食されていくかのように。水晶の表面に、蜘蛛の巣のようなヒビが、瞬く間に広がっていった。
「こ、これは……!」
アレクサンダーが、信じられないものを見る目で、水晶と俺を交互に見比べた。
「サイレントキラー殿が……睨んだだけで……水晶が、自壊していく……!?」
(え? えええええええ!? なんで!? 俺、何もしてないよ!? ただ、なくなればいいのにって、強く願っただけだよ!?)
俺が混乱していると、水晶の亀裂は、もはや修復不可能なレベルにまで達していた。そして、その内部から、溜め込まれていた膨大な邪気が、眩いほどの光となって溢れ出す。
(やばい! 爆発する!)
俺は、死の恐怖に駆られ、本能のままにその場から飛び退いた。仲間たちも、慌てて防御態勢を取る。
そして、次の瞬間。
パァァァァァァァァン!
『汚染水晶』は、ガラス細工のように、木っ端微塵に砕け散った。
解放された邪気は、天へと昇り、やがて、森を覆っていた分厚い雲を突き破った。
雲の切れ間から、久しぶりに見る、温かな太陽の光が差し込んでくる。
森に満ちていた淀んだ空気は、浄化され、鳥のさえずりさえ聞こえてくるようだった。
ミッション、コンプリート。
俺は、ただ、その場にへたり込み、自分が生きていることに、安堵のため息をつくことしかできなかった。
◆
その頃、遥か北の大地。
万年雪に覆われた、魔王城の玉座の間。
玉座に腰かける魔王ゾルディックは、側近である魔王軍幹部の一人、『策謀のインテリオ』からの報告に、神経質そうに爪を噛んでいた。
「……して、インテリオよ。『迷いの森』を拠点化する計画の進捗はどうだ? 我が与えた『汚染水晶』の力で、そろそろ、森の魔物たちが、隣国を攻め落とせるほどの戦力になっている頃だろう?」
眼鏡をかけた、神経質そうな顔つきのインテリオは、冷や汗を流しながら、答えた。
「は、はっ! それが……その……」
「どうした、歯切れが悪いな」
ゾルディックの、いらだった声が響く。
その時、玉座の間の扉が勢いよく開かれ、一人の伝令兵が、血相を変えて転がり込んできた。
「も、申し上げます! 『迷いの森』に設置した『汚染水晶』、および、その守護者として配置したコラプテッド・トレントが、先ほど、完全に消滅いたしましたッ!」
「「な、なんだとッ!?」」
ゾルディックとインテリオが、同時に叫ぶ。
インテリオは、伝令兵に掴みかかった。
「馬鹿な! あのトレントは、私が改良を重ねた、最高傑作だぞ! 王国クラスの魔導砲でもなければ、傷一つつけられんはず! いったい、勇者どもは、どんな兵器を持ち込んだのだ!」
伝令兵は、恐怖に震えながら、答えた。
「へ、兵器では……ございません……。現地に潜伏させていた斥候からの、最後の報告によりますと……」
「なんだ! 申せ!」
「……勇者パーティーに同行していた、フードの男……。伝説の暗殺者、『サイレントキラー』が……。ただ、石柱を一つ押しただけで、地形を連鎖的に崩壊させ、山ほどの岩盤を落とし、トレントを圧殺……。残った水晶は、ただ一瞥しただけで、内部から自壊させたと……」
「…………」
玉座の間に、完全な沈黙が落ちた。
ゾルディックは、青い顔で、ガタガタと震え始めた。
「……い、インテリオよ……」
「は、はひっ!」
「……そ、そやつは……本当に、人間か……? 地形を操り、睨むだけで、我が水晶を破壊する……。それは、もはや、暗殺者などという領域ではない……。破壊神……。そう、気まぐれに世界を滅ぼす、神そのものではないのか……?」
ゾルディックは、懐から取り出した、胃薬の小瓶を、震える手で呷った。
「……計画は、すべて見直せ……。あのような、規格外の化け物が相手では、我々の軍勢が、いくつあっても足りん……」
こうして、俺、相川静の存在は、魔王軍にとって、勇者アレクサンダーを遥かに凌ぐ、最大級の脅威として、認識されることになった。
もちろん、俺自身は、そんなことなど露知らず、ただただ、早く家に帰りたいと願っているだけなのだが。