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達人の食欲と夜襲の神託

俺が、ただ懐かしさのあまりに指さした、東の空。

それが、伝説の飛空艇『グリフォン』の、絶対的な航路となってから、すでに二週間が過ぎようとしていた。

眼下に広がるのは、相も変わらず、どこまでも続く、青い大洋だけ。

水平線の彼方に、陸地の影は、まだ、見えない。


船内の生活は、穏やかだった。

だが、その穏やかさが、俺、相川静の精神を、別の形で、確実に、蝕んでいた。

退屈。

そして、食欲。

特に、後者が、深刻だった。


王宮から、積み込まれた食料は、最高級品ばかりだ。

柔らかいパン。

熟成された、チーズ。

上質な、干し肉。

どれも、確かに、美味しい。

だが、俺が、本当に、求めている味は、ここには、なかった。

俺の、魂が、渇望しているのは、日本の、あの、ジャンクで、化学調味料に満ちた、B級グルメの味なのだ。


(……おにぎりが、食べたい)


その日、俺の脳内は、その、あまりにも、切実な、欲求で、埋め尽くされていた。

ほかほかの、白いご飯。

それを、絶妙な塩加減で、ふんわりと、握る。

中には、鮭や、梅干しや、昆布の佃煮。

そして、その周りを、パリパリの、黒い海苔で、包み込む。

想像しただけで、喉が、ごくりと鳴った。


俺は、その、抑えきれない、衝動に、駆られるまま、作戦室のテーブルへと、向かった。

そこには、仲間たちが、いつでも、作戦を確認できるように、羊皮紙と、羽ペンが、置かれている。

俺は、椅子に座ると、ペンを、手に取った。

そして、記憶を、頼りに、その、愛おしい、食べ物の、絵を、描き始めたのだ。


まず、ふっくらとした、三角形。

これが、ご飯の部分。

次に、その、三角形の、中心に、いくつかの、印を描く。

赤い、ほぐし身。鮭だ。

黒くて、四角い、佃煮。昆布だ。

そして、しわしわの、赤い丸。梅干しだ。


俺は、夢中だった。

この、羊皮紙の上に、俺だけの、理想の、おにぎりを、再現することに。

その、あまりにも、真剣で、そして、どこか、物悲しげな、俺の姿。

それを、船室の入り口から、仲間たちが、固唾を飲んで、見守っていた。


「……まただ」

勇者アレクサンダーが、声を潜めて、言った。

「彼が、何かを、描いておられる。あの、羊皮紙は……。以前、我々に、『次なる災厄』の、存在を、示してくださった、あの、予言図の、続きか……!」


賢者レオナルドは、その、俺が描いた、奇妙な、図形を、彼の、明晰な頭脳で、分析しようと、試みていた。

「……三角形……。そして、その内部に、記された、三つの、印……。これは、ただの絵などでは、ありません。一種の、『陣形図』です。我々が、目的地に、到着した後の、具体的な、戦闘シミュレーションを、彼は、この図で、示してくださっているのです!」


(してません。ただの、おにぎりの、具です)


聖女セラフィーナが、その、あまりにも、緻密な、計画に、息を呑んだ。

「まあ……! なんという、深遠な、お考え……。我々が、ただ、航海している、この間にも、彼は、すでに、戦いの、その先までを、見据えて、おられたのですね」


俺が、ただ、食欲に、突き動かされているだけだとは、誰も、思わない。

俺の、郷愁からくる、落書きは、仲間たちにとっては、「伝説の暗殺者が、未知なる敵との、戦いを、シミュレートする、究極の、作戦図」として、完璧に、誤解されてしまった。


俺は、描き上げた、おにぎりの絵を、満足げに、眺めた。

完璧だ。

だが、何か、足りない。

そうだ。

最も、重要な、パーツが、欠けている。


(……海苔が、ない)


この、三角形を、優しく、包み込む、あの、黒くて、四角い、パリパリの、海苔。

それなくして、俺の、おにぎりは、完成しない。

俺は、ペンを、インク壺に、浸した。

そして、描き上げた、三角形の、下半分を、黒いインクで、丁寧に、塗りつぶし始めた。

ここに、海苔があれば、完璧なのに。

その、ただ、それだけの、意思表示だった。


その、俺の、行動が、仲間たちに、最後の、そして、決定的な、天啓を、与えた。


レオナルドが、ハッとしたように、叫んだ。

「……黒……! 彼は、陣形図の、周囲を、黒く、塗りつぶし始めたぞ……! これは……! 『闇』! そう、『夜』だ!」


アレクサンダーが、その言葉に、目を見開いた。

「夜……? まさか、作戦の、決行は、夜間に行えと、いうことか!」


「その通りです!」

レオナルドは、断言した。

「考えてもみてください! 伝説の暗殺者である、彼にとって、闇は、最大の、味方! 我々も、彼の、流儀に、従い、敵が、最も、油断する、夜陰に乗じて、奇襲を、かけるべきだと、彼は、そう、教えてくださっているのです!」


三人は、その、あまりにも、シンプルで、そして、天才的な、発想に、打ち震えていた。

そうだ。

なぜ、気づかなかったのか。

光の、勇者である、自分たちの、常識に、囚われていた。

だが、彼らの仲間は、影に生き、影を狩る、伝説の、存在なのだ。

夜こそが、彼の、独壇場。


三人は、もはや、迷わなかった。

彼らの、作戦計画は、今、完成した。

目的地への、上陸は、夜間。

そして、作戦の、開始も、夜間。

完璧な、奇襲作戦だ。


俺は、海苔を、塗り終えた、おにぎりの絵を、満足げに、眺めていた。

そして、込み上げてくる、空腹感に、耐えきれず、いつものように、力なく、呟いた。


「…………うす」


それは、「ああ、腹減った」という、ただ、それだけの、意味。

だが、仲間たちには、こう、聞こえた。

「その通りだ。作戦を、承認する。準備を、怠るな」と。


こうして、俺の、ただの、食欲は、仲間たちに、必勝の、作戦計画を、授ける、という、偉大な、功績として、歴史に、刻まれることになった。

俺たちの、飛空艇は、見えざる、大陸と、まだ見ぬ、敵との、夜間戦闘に向けて、その、進路を、微調整することもなく、ただ、まっすぐに、東へと、進み続ける。

その先に、本当に、俺の、故郷が、あるのかどうかも、知らずに。

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