英雄の凱旋とサイレントキラーごっこ
バルトス山脈の戦いは、終わった。
俺が、ただ眠たくて、巨大な亀の甲羅をベッド代わりにしようとした結果、世界の調和が保たれた(ことになった)あの日から、数日が過ぎた。
俺たち、勇者一行は、王都への帰路についていた。
旅は、嘘のように、穏やかだった。
魔王軍の、三人の幹部を、立て続けに打ち破った。その報は、すでに、風のように、世界を駆け巡っているのだろう。もはや、俺たちの進む道に、立ちふさがる者など、誰もいなかった。
王家の魔導馬車の中は、静かな、しかし、確かな、達成感に満ちていた。
「……終わったのだな。長かった戦いが」
勇者アレクサンダーが、窓の外を流れる、穏やかな景色を眺めながら、感慨深げに、呟いた。
「ええ。ですが、これも、まだ、序章に過ぎませんわ。魔王ゾルディックを、討ち滅ぼす、その日まで、私たちの戦いは、続きます」
聖女セラフィーナが、静かに、しかし、力強く、応える。
賢者レオナルドは、手にした、羊皮紙に、これまでの戦いの記録を、詳細に、書き記していた。
「しかし、今回の、一連の戦いで、我々は、大きな、確信を得た。サイレントキラー殿が、我々と、共にいてくださる限り、我々に、敗北は、ありえない、と」
三人の視線が、俺へと、集まる。
その目には、もはや、揺るぎない、絶対的な、信頼が、宿っていた。
俺、相川静は、その、あまりにも、重い信頼から、逃れるように、ソファの隅で、身を縮こませていた。
(……終わった、のか? 本当に……)
俺の心は、全く、晴れなかった。
それどころか、旅が進むにつれて、一つの、巨大な、そして、不気味な、違和感が、俺の心の中で、日に日に、大きくなっていたのだ。
(……おかしい。やっぱり、どう考えても、おかしい)
俺は、これまでの、自分の、行動と、その結果を、頭の中で、何度も、何度も、反芻していた。
ゴライアスとの、決闘。
俺が、ただ、パニックで、投げた、石ころが、ありえない軌道を描き、彼の、兜の隙間に、吸い込まれた。
シルフィードとの、遭遇。
俺が、ただ、銀紙を追いかけて、転んだだけで、彼女の、不可視の、風の刃を、完全に、防ぎきった。
ミストとの、対峙。
俺が、ただ、風邪で、眠っていただけで、彼の、最強の、精神攻撃を、完全に、無力化した。
そして、今回の、バルトス山脈。
俺の、くしゃみが、氷の洞窟の、魔物の大群を、殲滅し、俺の、自己嫌悪が、古代の封印を、解き放ち、俺の、睡眠欲が、世界の、調和を、保った。
(……偶然? これが、全部、偶然?)
ありえない。
そんな、都合のいい、偶然が、何度も、続くはずがない。
では、これは、一体、何なのか。
(……俺の、スキル。『気配希釈』。本当に、それだけなのか……?)
あの、早口の女神。
彼女は、確かに、そう言った。
はずだ。
だが、もし、俺が、聞き間違えていたとしたら?
もし、俺の、この力が、全く、別の、何かだったとしたら?
俺は、自分の、手のひらを、見つめた。
何の変哲もない、どこにでもいる、大学生の、手。
この手に、世界を、左右するような、力が、宿っているというのか。
(……いや、ない。そんなはず、ない)
俺は、必死に、その考えを、打ち消した。
俺は、相川静。
ただの、コミュ障な、日本人だ。
それ以上でも、それ以下でもない。
そう、思い込まなければ、俺の、精神が、この、あまりにも、非現実的な、現実に、耐えられそうになかった。
◆
数日後。
俺たちの馬車は、ついに、王都グランツへと、帰還した。
そして、俺たちは、自分たちの、想像を、遥かに、超える、光景を、目の当たりにすることになる。
王都は、祭りだった。
メインストリートは、人で、埋め尽くされ、家々の窓からは、色とりどりの、紙吹雪が、舞っている。
俺たちの、馬車が現れると、割れんばかりの、大歓声が、巻き起こった。
「英雄の、凱旋だ!」
「魔王軍の、幹部を、全て、打ち破った、勇者様一行の、お戻りだ!」
「見て! あの、静かなる、佇まい! あれが、我らが、救世主、サイレントキラー様だ!」
その熱狂は、以前とは、比べ物にならなかった。
それは、もはや、ただの、歓迎では、ない。
神話の、登場人物を、目の当たりにしたかのような、信仰と、畏怖が入り混じった、異様な、熱気だった。
俺は、その、あまりにも、重い、期待に、押しつぶされそうだった。
その時だった。
俺は、道端で、奇妙な、光景を、目にした。
数人の、子供たちが、壁際に、ずらりと、並んでいる。
そして、彼らは、微動だにせず、ただ、じっと、前を、見つめているのだ。
腕を組み、わずかに、俯き、その姿は、どこか、物憂げで、そして、達人のような、雰囲気を、醸し出している。
一人の、子供が、動いた。
すると、別の、子供が、すかさず、指摘する。
「あ! 今、動いた! お前の負けだ!」
「くそーっ! もう一回!」
(……なんだ、あれは?)
俺が、不思議そうに、その光景を、見ていると、レオナルドが、静かに、解説してくれた。
「……『サイレントキラーごっこ』。今、王都の、子供たちの間で、大流行している、遊びです」
(さいれんときらー、ごっこ?)
「ええ」
レオナルドは、続けた。
「ルールは、至って、シンプル。壁際に立ち、いかに、長く、動かずに、沈黙を、保てるか。そして、いかに、貴方様のような、深遠な、雰囲気を、醸し出せるかを、競う、高度な、精神の、遊びです」
俺は、絶句した。
俺が、ただ、人目を避けて、壁際に、立っていただけの、あの、情けない姿が。
子供たちの間で、そんな、高尚な、遊びとして、昇華されてしまっているとは。
俺の、伝説は、もはや、俺の手の届かないところで、一人歩きし、そして、この国の、文化にまで、影響を、与え始めていたのだ。
俺は、その、あまりにも、シュールな、光景に、ただ、めまいを、覚えることしか、できなかった。
◆
熱狂的な、歓迎を、なんとか、潜り抜け、俺たちは、『沈黙の宮』へと、帰り着いた。
屋敷の前では、ダリオ率いる、『サイレントキラー様親衛隊』が、完璧な、隊列を組んで、俺たちを、出迎えた。
彼らの、忠誠心は、もはや、狂信の域に、達している。
俺は、彼らの、敬礼を、無視するように、足早に、屋敷の中へと、入った。
そして、一目散に、自室へと、向かう。
ようやく、一人になれる。
ようやく、この、息の詰まるような、役割から、解放される。
俺は、部屋のドアを、閉めると、その場に、へたり込んだ。
どっと、疲労が、押し寄せてくる。
肉体的な、疲労ではない。
精神的な、疲労だ。
英雄を、演じ続けることの、重圧。
いつ、この、嘘が、バレるかという、恐怖。
俺は、もう、限界だった。
その時だった。
コンコン、と。
部屋のドアが、控えめに、ノックされた。
入ってきたのは、一人の、若いメイドだった。
彼女は、俺の、夕食を、運んできてくれたのだ。
「さ、サイレントキラー様……。お食事の、ご用意が、できました……」
彼女は、緊張で、声を、震わせながら、テーブルの上に、料理を、並べていく。
俺は、何も、言えない。
ただ、その場で、固まっているだけだ。
メイドは、準備を終えると、俺に、深く、一礼した。
そして、何かを、期待するように、俺の、次の、言葉を、待っている。
俺は、何か、言わなければ、と思った。
彼女の、労を、ねぎらう、一言を。
だが、俺の口から、出てきたのは、いつもの、あの、絶望的な、音だけだった。
「…………うす」
それは、「ありがとう」という、感謝の、気持ち。
だが、メイドの耳には、全く違う、意味に、聞こえたに、違いない。
おそらくは、「うむ。ご苦労であった。下がってよい」という、威厳に満ちた、主の、言葉として。
メイドは、恐縮したように、再び、深く、頭を下げると、足早に、部屋を、出ていった。
一人、残された部屋で、俺は、ただ、深いため息をつくことしか、できなかった。
俺の、平穏な、日常は、もう、どこにも、ないのだ。




