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迷いの森と環境利用闘法

翌朝、俺、相川静は、ほとんど一睡もできないまま、宿屋の前に立っていた。目の前には、これから向かうことになる『迷いの森』へと続く道が、まるで地獄の入り口のように口を開けている。


(逃げたかった……。昨夜のうちに、荷物をまとめて逃げ出すはずだった……)


しかし、俺のささやかな脱走計画は、あっけなく打ち砕かれた。俺の部屋のドアの前で、なぜかダリオが「アニキの寝ずの番は俺に任せてくだせえ!」と、一晩中仁王立ちしていたからだ。彼の狂信的な忠誠心が、俺の自由を完全に奪っていた。


「さあ、行こうか! サイレントキラー殿!」


勇者アレクサンダーの、やけに爽やかな声が響く。彼は、すでに準備万端といった様子で、その瞳は希望と冒険心に満ち溢れている。聖女セラフィーナも、賢者レオナルドも、その表情は真剣そのものだ。これから危険な任務に向かうというのに、彼らの間には微塵の恐怖も見られない。


俺だけだった。ただ一人、フードの奥で顔面蒼白になり、小刻みに震えているのは。


(なんでこの人たち、こんなに平然としてるんだ……? 魔王軍の幹部がいるかもしれない森に行くんだぞ? 俺だったら、前日の夜から胃薬が手放せないレベルだよ……)


俺たちの出発を、宿屋の主人や他の冒険者たち、そしてどこからか聞きつけた街の人々までが見送りに来ていた。その中には、もちろんダリオとその仲間たちの姿もある。


「アニキ! ご武運を祈ってやす!」

「サイレントキラー様、どうかご無事で!」


人々の声援が、俺の肩にずしりと重くのしかかる。その期待が、プレッシャーが、俺の胃を容赦なく抉る。


(やめてくれ……。そんなキラキラした目で見ないでくれ……。俺は、お前たちが期待するような英雄じゃない。ただの、引きこもり志望のコミュ障なんだ……)


俺は、その場から消えてなくなりたかった。しかし、アレクサンダーに背中をポンと叩かれ、半ば強制的に歩き出すことになった。


こうして、俺たちの『迷いの森』への調査任務は、街中の人々の盛大な勘違いに見送られながら、幕を開けたのだった。



街から半日ほど歩き、俺たちはついに『迷いの森』の入り口に到着した。

その名の通り、森は一歩足を踏み入れると、方向感覚を失わせるような、不気味な雰囲気に満ちていた。木々はどれも同じような形にねじくれ、太陽の光は分厚い葉に遮られて、昼間だというのに薄暗い。


(うわ……。雰囲気ありすぎだろ……。絶対なんか出るじゃん、こういうところ……)


俺が内心で怯えていると、アレクサンダーが俺の方を振り返った。

「サイレントキラー殿。ここからは、貴殿の力が頼りだ。我々を、森の深部へと導いてはくれまいか」


(無茶言うな! 俺、方向音痴だぞ! 大学のキャンパス内ですら、たまに迷うレベルなのに!)


俺がどうしたものかと固まっていると、レオナルドがすっと前に出た。彼は、懐から取り出した『静語録』をパラパラとめくり、一つのページを指さす。


「待て、アレク。こういう時のために、『静語録』がある。……ふむ、彼のこの沈黙と、わずかに右に傾いだ首の角度……。これは、『静語録』第二章第七項、『無言の誘導』に該当する。『俺の後に続け。ただし、俺の踏んだ場所以外は踏むな。一歩間違えば、死ぬぞ』……。そういうメッセージだ」


(言ってない! そんな物騒なこと、一言も言ってないから! ただ、どっちに行けばいいか分からなくて、キョロキョロしてただけだから!)


しかし、俺の内心の否定は、もはや誰にも届かない。アレクサンダーとセラフィーナは、「なるほど!」「さすがですわ!」と深く頷き、俺の後に続く体勢を取った。


こうして、俺は先頭に立って、この不気味な森を歩く羽目になった。もちろん、道など分かるはずもない。俺はただ、なんとなく歩きやすそうな場所を選んで、おそるおそる足を進めるだけだった。


だが、その俺の適当な足取りが、なぜか的確に森の罠を回避していく結果となった。

俺が右に曲がれば、その左手では、地面から毒の胞子を撒き散らす植物が口を開ける。俺が木の根を跨げば、その数秒後、俺が先ほどまでいた場所に、上から巨大な蜘蛛が落下してくる。


それらの光景を目の当たりにした仲間たちの、俺に対する尊敬の念は、うなぎ登りに上昇していった。


「すごい……! サイレントキラー殿の歩く道は、まるで、死線と死線の間に引かれた、一本の安全な糸のようだ!」

「彼の目には、私たちには見えない、森の危険がすべて見えているのですね……」

「やはり、彼はただの暗殺者ではない。『戦場の支配者』……。この森すらも、彼の庭ということか」


(だから違うって! 全部偶然だって! 俺、さっきから寿命が縮みっぱなしなんですけど!)


俺は、いつ心臓が止まってもおかしくないほどの恐怖と戦いながら、ただひたすらに、前に進むしかなかった。


どれくらい歩いただろうか。森の少し開けた場所に出た、その時だった。


「――グルルルルル……」


低い唸り声が、周囲から響き渡った。茂みの中から、次々と姿を現したのは、体長二メートルはあろうかという、漆黒の狼たちだった。その目は、飢えた獣特有の、赤い光を宿している。


アレクサンダーが、素早く聖剣を抜いた。

「シャドウウルフか! しかも、これほどの数……! やはり、この森は魔物の巣窟と化しているようだな!」


シャドウウルフの群れは、十数体。そのどれもが、ゴブリンなど比較にならないほどの、凶暴な気配を放っている。俺は、その圧倒的な威圧感の前に、完全に腰が抜けてしまった。


(無理無理無理無理! あんなのと戦えるわけない! 死ぬ! 絶対に死ぬ!)


俺は、もはや隠れることすら忘れ、その場でガタガタと震えることしかできなかった。

アレクサンダーたちが、俺をかばうように前に立つ。


「サイレントキラー殿は、下がっていてください! ここは我々が!」

「ええ! 貴方様の手を、このような畜生相手に煩わせるわけにはいきません!」


三人が、それぞれ武器を構え、シャドウウルフの群れと対峙する。しかし、敵の数が多い。いくら勇者パーティーといえど、苦戦は免れないだろう。


(どうしよう……。俺に、何かできることは……? いや、ない! 何もない! でも、このままじゃ、アレクさんたちが……!)


俺がパニックに陥り、何か、何かしなくてはと焦った、その時だった。俺は、ポケットに入れていた、あるものを思い出した。昨日、ダリオが俺にくれた、あの不気味な紫色のキノコ、『夢見ダケ』だ。


(こ、これだ! セラフィーナさんが言ってた! 毒キノコだって! これを投げつければ、もしかしたら……!)


藁にもすがる思いだった。俺は、震える手でポケットから『夢見ダケ』を取り出すと、一番近くにいたシャドウウルフに向かって、力いっぱい投げつけた。


俺の投げたキノコは、放物線を描くこともなく、ぽとり、と俺の足元に落ちた。


(……え?)


あまりの情けなさに、我ながら呆然とする。極度の緊張で、腕に全く力が入らなかったのだ。


足元に転がった、不気味な紫色のキノコ。それを見て、俺の頭は真っ白になった。

(やばい! 毒キノコが足元に! 俺、死ぬの!? 毒で死ぬの!?)


恐怖のあまり、俺は盛大に足を滑らせ、その場で派手にすっ転んだ。


ガンッ!


後頭部を、近くにあった岩に強かに打ち付ける。そして、俺の意識は、ぷつりとブラックアウトした。



次に俺が意識を取り戻した時、聞こえてきたのは、仲間たちの感動に満ちた声だった。


「……素晴らしい……。まさに、神の一手だ……」

「ええ……。私たちの想像を、遥かに超えていらっしゃいましたわ……」


(……え? なに? 俺、生きてる?)


薄目を開けると、俺はセラフィーナの膝の上で、膝枕をされている状態だった。彼女の『絶対治癒』のスキルだろうか、後頭部の痛みはすっかり消えている。


体を起こして周囲を見渡すと、そこには、信じられない光景が広がっていた。

あれほど凶暴だったシャドウウルフたちが、なぜか互いにじゃれ合ったり、自分の尻尾を追いかけてくるくる回ったり、あるいは、気持ちよさそうに地面に寝転がって腹を見せたりしているのだ。その光景は、さながら、巨大な犬のドッグランのようだった。


「……なに、これ……?」


俺が呆然と呟くと、アレクサンダーが興奮した面持ちで、俺の肩を掴んだ。


「サイレントキラー殿! すべて、貴殿の計算通りだったのだな!」


(……はい?)


俺が何のことか分からずにいると、賢者レオナルドが、眼鏡の奥の瞳を理知的に光らせながら、解説を始めた。


「見事と言うほかない。『環境利用闘法』……。まさか、これほど高度な戦術を目の当たりにする日が来るとはな」


レオナルドは、俺が落とした『夢見ダケ』を指さした。それは、俺が転んだ衝撃で砕け、中から大量の紫色の胞子を撒き散らしていた。


「まず、貴殿はあの『夢見ダケ』を、敵に投げつけるフリをして、あえてご自身の足元に落とした。これは、我々の注意をそこに引きつけるための、巧妙な陽動だ」


(陽動じゃなくて、ただの投擲ミスです)


「次に、貴殿は自ら転倒し、後頭部を岩に打ち付けた。常人ならばただの事故だが、貴殿の場合は違う。その衝撃で地面を揺らし、砕けた『夢見ダケ』から放出される胞子を、効率的に、かつ広範囲に拡散させたのだ!」


(違います! ただドジって転んで気絶しただけです!)


「そして、この『夢見ダケ』の胞子……。シャドウウルフは、その名の通り、影に属する魔物。光や聖なる力には強い耐性を持つが、その反面、精神に作用する幻覚系の毒には、極端に弱いという性質を持つ。貴殿は、その弱点を完全に見抜いていた。結果、シャドウウルフたちは戦意を喪失し、ご覧の通り、ただの大きな犬ころに成り下がったというわけだ」


レオナルドは、そこで言葉を切ると、俺に向かって深く頭を下げた。


「自らの身を挺して仲間を守り、敵を殺さずして無力化する……。その戦術、その慈悲深さ、そして、その覚悟……。完敗だ。我が『静語録』に、新たなる章、『捨身の陽動と環境利用闘法』を加えさせていただこう」


アレクサンダーも、セラフィーナも、最大級の尊敬と感動の眼差しで俺を見つめている。


俺は、もはや、何も言うことができなかった。

ただ、目の前で楽しそうにじゃれ合う狼たちと、キラキラした目で俺を見る仲間たちを交互に見比べ、疲れ果てたように、一言だけ、呟いた。


「…………うす」


その一言が、仲間たちには「すべて計算通りだ。驚くには値しない」という、絶対的な自信の表明として、受け取られたのだった。

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