達人の予知と吹雪の夜
俺が、ただ、ぼんやりと渡り鳥を眺めていた時に発した、意味のない「うす」という一言。
それが、仲間たちの間では、「敵の気配を捉えた」という、絶対的なサインとして、受け止められてしまった。
その瞬間から、王家の魔導馬車の中の空気は、完全に、一変した。
「……来るか」
勇者アレクサンダーは、聖剣の柄に手をかけ、窓の外を、鋭い眼光で睨みつけている。
「師が、気配を捉えられたのだ。相手が、いつ、どこから、現れても、おかしくはない」
「ええ」
賢者レオナルドも、いつの間にか、取り出した『全知の書』を、高速でめくりながら、周囲の魔力の流れを、探っている。
「ですが、奇妙です。私の、感知魔法には、今のところ、何の、反応もありません。敵は、よほど、高度な、隠密能力を持っていると、見えます」
聖女セラフィーナは、ただ、静かに、祈りを捧げている。
その、清らかな、祈りの力が、馬車の周囲に、見えない、守りの結界を、張っているかのようだった。
三者三様の、完璧な、臨戦態勢。
その、あまりにも、真剣で、張り詰めた空気の中心で、俺、相川静は、ただ一人、猛烈な、居心地の悪さに、身を縮こまらせていた。
(……俺のせいだ。完全に、俺のせいだ……)
俺が、あの時、適当に、返事など、しなければ。
こんな、ピリピリとした、空気には、ならなかったはずだ。
だが、今さら、どうすることもできない。
「すみません、あれ、聞き間違いです」などと、言えるはずもない。
俺は、ただ、ひたすらに、何も、起こらないことを、祈るだけだった。
敵など、現れずに、このまま、何事もなく、一日が、終わってくれれば。
そうすれば、彼らの、この、過剰な、警戒も、少しは、解けるかもしれない。
そんな、俺の、ささやかな願いも虚しく、馬車は、北へ、北へと、進んでいく。
やがて、車窓から見える景色は、緑豊かな、平原から、岩肌の、目立つ、荒涼とした、風景へと、変わっていった。
空気も、心なしか、ひんやりとしてきたように、感じる。
(……寒い)
俺は、自分の、完璧な、防寒対策(重ね着と、首に巻いたタオル)を、改めて、誇りに思った。
だが、それでも、体の芯から、冷えてくるような、寒気は、どうしようもなかった。
そして、その寒さが、俺の、鼻に、新たな、災厄を、もたらした。
(……やばい。鼻水が……)
つー、と。
俺の、鼻から、一筋の、液体が、流れ落ちそうになる。
俺は、慌てて、それを、すんっ、と、すすり上げた。
コミュ障にとって、人前で、鼻をかむ、という行為は、ハードルが、高すぎるのだ。
俺は、誰にも、気づかれないように、こっそりと、鼻を、すすった。
つもりだった。
だが、この、極度の、緊張状態にある、馬車の中で、その、わずかな、音を、聞き逃す、仲間たちでは、なかった。
三人の視線が、一斉に、俺へと、突き刺さる。
(……うわ、見られた)
俺は、気まずさのあまり、顔を、俯かせた。
その、俺の、あまりにも、人間的な、生理現象。
それが、仲間たちの、英雄的な、フィルターを通して、またしても、全く違う、意味合いを持つ、深遠なる、メッセージへと、変換されていく。
最初に、その「意味」に、気づいたのは、セラフィーナだった。
彼女は、ハッとしたように、目を見開くと、窓の外の、空を、見上げた。
「……この、音……。そして、この、空気の、冷たさ……。まさか……」
彼女は、震える声で、言った。
「サイレントキラー様は、我々に、教えてくださっているのですわ。敵は、人ではない、と。我々が、本当に、戦うべき、相手は、『天候』そのものである、と!」
(え? 天候?)
アレクサンダーとレオナルドが、彼女の、突飛な、発言に、驚きの顔を向ける。
セラフィーナは、続けた。
「彼の、あの、鼻をすするような、音。あれは、風の音の、模倣です。この先、この地に、猛烈な、吹雪が、やってくるという、予知なのですわ!」
その、セラフィーナの、言葉を、証明するかのように。
空から、白い、ものが、ひらひらと、舞い落ちてきた。
雪だった。
最初は、まばらだった、雪は、あっという間に、その勢いを、増し、猛烈な、吹雪となって、俺たちの、視界を、白く、染め上げていった。
「なっ……! 本当に、吹雪に……!」
アレクサンダーが、驚愕の声を上げる。
レオナルドは、もはや、呆然としていた。
「……信じられない。天候を、予知する、だと……? それも、獣の、鳴き真似や、風の音を、模倣することで……。それは、もはや、魔導士の、領域ではない。古代の、ドルイドや、シャーマンが、用いたという、自然との、対話術……。彼は、それすらも、体得しておられるというのか……」
俺が、ただ、鼻水が出ただけだとは、誰も、思わない。
俺の、ただの、鼻炎は、仲間たちにとっては、「天候すらも、予知する、伝説の暗殺者の、超感覚」として、完璧に、誤解されてしまった。
吹雪は、ますます、その勢いを、増していく。
馬車は、深い雪に、車輪を取られ、ついに、進むことが、できなくなってしまった。
俺たちは、近くにあった、小さな、洞窟で、吹雪が、収まるのを、待つことになった。
洞窟の中は、風こそ、しのげるが、体の芯まで、凍えるような、寒さだった。
アレクサンダーが、魔法で、小さな、焚き火を、起こしてくれる。
その、ささやかな、炎の光が、俺たちの、不安な心を、わずかに、照らしていた。
俺は、寒さに、耐えきれず、ポケットに、手を入れた。
そして、最後の、希望である、非常食。
ポテトチップスの、袋を、取り出した。
その、カサカサ、という、ビニールの、乾いた音が、静かな、洞窟の中に、響き渡る。
その時だった。
洞窟の、入り口の、暗闇から、二つの、青白い光が、ぎらり、と、こちらを、見つめていた。
そして、低い、唸り声と共に、その、主が、姿を現した。
それは、雪のように、白い毛皮を持つ、巨大な、豹のような、魔獣だった。
雪山に住む、最も、凶暴な、捕食者、『スノーレパード』。
その、飢えた獣が、俺たちという、格好の、獲物を見つけ、ゆっくりと、その距離を、詰めてくる。
アレクサンダーたちが、咄嗟に、武器を構える。
だが、この、狭い、洞窟の中で、あの、俊敏な、魔獣を、相手にするのは、あまりにも、分が悪かった。
俺は、恐怖で、完全に、フリーズしていた。
手には、ポテトチップスの、袋を、握りしめたまま。
そして、その、極度の、緊張が、俺の、手に、余計な、力を、入れてしまった。
バリッ!
静かな、洞窟の中に、あまりにも、場違いな、軽快な音が、響き渡った。
俺が、握りしめていた、ポテトチップスの袋が、破裂したのだ。
その、突然の、破裂音に、スノーレパードは、びくり、と、その巨体を、震わせた。
そして、まるで、この世の、終わりのようなものを、見たかのように、目を剥くと、慌てて、踵を返し、吹雪の、闇の中へと、逃げ去ってしまったのだ。
後に残されたのは、静寂と、呆然とする、俺たち。
そして、俺の、足元に、無残に、散らばった、ポテトチップスの、残骸だけだった。
レオナルドが、震える声で、言った。
「……音……。そうか、音だったのか……。雪山に住む、魔獣は、聴覚が、異常に、発達している。特に、彼らが、最も、嫌うのは、氷が、砕けるような、乾いた、破裂音……。それを、知っていた、サイレントキラー様は、あえて、食料の袋を、破裂させ、その音で、敵を、戦わずして、退けたのだ……!」
俺は、ただ、夕食が、食べられなかった、腹いせに、ポテトチップスを、食べようとしただけなのに。
俺の、食欲は、仲間たちにとっては、「敵の、弱点を、完璧に、突き、戦わずして、勝利する、伝説の暗殺者の、知恵」として、またしても、新たな、伝説を、生み出してしまった。
俺は、散らばった、ポテトチップスを、悲しげに、見つめながら、いつものように、力なく、呟いた。
「…………うす」
それは、「ああ、俺の、非常食が……」という、絶望の、一言。
だが、仲間たちには、こう、聞こえた。
「この程度の、危機、問題ない。さあ、先へ、進むぞ」と。




