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北への旅路と達人の備え

全ての役者は揃い、全ての道具は、整えられた。

俺の食べかけのチョコレートが、国宝級の聖杯と聖なる雫によって『浄化』され、目には見えぬ、霊的な存在『賢者の石』へと昇華された(ことになった)、その翌朝。

王都の『沈黙の宮』の玄関ホールは、静かな、しかし、鋼のような決意に満ちた空気に包まれていた。


勇者アレクサンダー、聖女セラフィーナ、賢者レオナルド。

三人は、旅の支度を完璧に整え、その顔には、一点の迷いもなかった。

彼らの手によって、魔王軍幹部は、ゴライアス、ミスト、そしてインテリオと、立て続けに三人もが打ち破られた。その功績は、彼らに、絶対的な自信を与えていた。

だが、彼らは、決して、驕ってはいない。

なぜなら、その全ての勝利が、自分たちの師である、サイレントキラーの、深遠なる導きによって、もたらされたものであることを、誰よりも、理解していたからだ。


そして、その師である、俺、相川静は。

仲間たちが、最終決戦に向けて、精神を統一している、その厳かな空気の中で、一人、全く別の、そして、あまりにも、現実的な問題と、向き合っていた。


(……寒い。絶対に、寒い)


俺の脳内は、その、一言で、埋め尽くされていた。

目的地は、バルトス山脈。

地図で見た限り、万年雪に覆われた、極寒の地だ。

風邪が、ようやく治ったばかりの、俺にとって、そんな場所へ行くのは、自殺行為に等しい。


俺は、この異世界に来て、学んだ。

この世界の、衣服というものは、デザインこそ、ファンタジーで、格好いいが、機能性という点においては、現代日本の、それとは、比べ物にならないほど、劣っている、と。

特に、防寒性。

ペラペラの、ローブ一枚で、雪山に、挑むなど、正気の沙汰ではなかった。


(……何か、着るものを。一枚でも、多く……)


俺は、仲間たちが、最終確認をしている、その隙に、そっと、その場を離れた。

そして、自室に戻ると、クローゼットの中から、ありったけの、衣服を、引っ張り出した。

王家が、用意してくれた、上質な、下着。

予備の、シャツ。

そして、俺が、この世界に来た時から、ずっと、着ている、唯一の、心の拠り所。

フード付きの、パーカー。


俺は、それらを、ためらうことなく、全て、重ね着した。

着ぶくれて、少し、動きにくいが、そんなことは、言っていられない。

さらに、俺は、ベッドの脇に、置かれていた、タオルを、手に取ると、それを、首に、ぐるぐると、巻き付けた。

即席の、マフラーだ。


最後に、俺は、厨房へと、忍び込んだ。

そして、棚の奥から、食べ残しの、ポテトチップスの袋を、一つ、見つけ出し、それを、大事に、ポケットへと、しまい込んだ。

非常食だ。

寒い場所では、カロリーが、何よりも、重要になる。


完璧な、防寒対策。

そして、サバイバルへの、備え。

俺は、自分の、準備の、完璧さに、一人、満足げに、頷いていた。


俺が、玄関ホールへと、戻ると、仲間たちが、驚いたような顔で、俺を、見ていた。

少し、着ぶくれして、首に、タオルを巻いた、俺の、その、奇妙な、出で立ちを。


「……サイレントキラー様? その、お姿は……?」

アレクサンダーが、戸惑ったように、問いかける。


俺は、何も、答えられない。

ただ、その場で、こくこくと、頷いてみせた。

「準備万端だ」という、俺なりの、意思表示。


その、俺の、あまりにも、人間的な、行動。

それが、仲間たちの、英雄的な、フィルターを通して、全く違う、意味合いを持つ、伝説の暗殺者の、深遠なる、戦術として、解釈されていく。


レオナルドが、ハッとしたように、目を見開いた。

「……そういうことか。我々は、またしても、彼の、本質を、見誤っていた」

彼は、俺の、その、着ぶくれした姿を、指さした。


「あれは、ただの、防寒着では、ありません。あれは、『鎧』です。だが、物理的な、攻撃を防ぐための、鎧ではない。バルトス山脈という、過酷な、『環境』そのものと、戦うための、鎧なのです」


(え? いや、普通に、寒いから、着てるだけなんだけど……)


レオナルドの、勘違いは、止まらない。

「考えてもみてください。バルトス山脈に眠る、災厄。それは、ゴライアスのような、物理的な、強さや、ミストのような、精神攻撃とは、全く、質の違う、脅威のはず。おそらくは、我々の、生命力そのものを、じわじわと、奪っていくような、環境攻撃。サイレントキラー様は、それを、最初から、見抜いておられたのです」


「そして、あの、首に巻かれた、布……。あれは、急所である、首を、守るためだけではない。いざという時には、解いて、止血帯として、あるいは、仲間を、救うための、ロープとして、使うことも、想定されている。さらに、あの、ポケットに、隠し持っておられる、食料……。あれは、ただの、レーションではない。我々が、力尽きた時に、その命を、繋ぐための、最後の、希望……!」


俺が、ただ、寒がりで、食いしん坊なだけだとは、誰も、思わない。

俺の、完璧な、冬支度は、仲間たちにとっては、「未知なる、脅威との、長期消耗戦を、見越した、伝説の暗殺者の、完璧な、準備」として、完璧に、誤解されてしまった。


アレクサンダーとセラフィーナは、その、あまりにも、深い、師の、配慮に、ただ、感銘を受けることしか、できなかった。

「……我々は、目の前の、敵のことしか、考えていなかった。だが、師は、その、さらに先にある、戦場の、本質を、見抜いておられたのだな」

「ええ……。我々が、未熟なばかりに、いつも、貴方様に、ご心配を、おかけしてしまいますわね……」


三人は、俺に向かって、深く、深く、頭を下げた。

俺は、その、重すぎる、敬意に、ただ、居心地の悪さを、感じながら、早く、出発したい、と、願うだけだった。



王都中の、熱狂的な、見送りを受け、俺たちの、最後の旅は、始まった。

目指すは、北の、秘境、バルトス山脈。


馬車の中は、これまで以上に、静かだった。

仲間たちは、俺が、無意識のうちに、示した(ことになっている)、戦いの、本質を、理解し、それぞれが、深く、瞑想に、ふけっていた。

それは、俺にとって、非常に、ありがたいことだった。

誰も、俺に、話しかけてこない。

これほど、平和な、時間は、なかった。


俺は、馬車の窓から、流れていく、景色を、ぼんやりと、眺めていた。

王都を、離れ、緑豊かな、平原を、抜ける。

やがて、道は、緩やかな、丘陵地帯へと、入っていった。


俺は、ふと、空を、見上げた。

そこには、いくつかの、鳥が、V字の、編隊を組んで、飛んでいくのが、見えた。

渡り鳥だろうか。


(……そういえば、日本でも、秋になると、よく、見たな。白鳥とか、雁とか……)


俺は、懐かしい、記憶に、思いを馳せていた。

故郷の、風景。

もう、二度と、帰れないかもしれない、あの、場所。

俺の、胸に、わずかな、郷愁が、こみ上げてくる。


その、俺の、物憂げな、横顔。

それを、瞑想から、覚めた、アレクサンダーが、見ていた。


「……サイレントキラー様……」

彼は、息を呑んだ。

師の、その、鋭い、視線は、ただ、空を、眺めているのではなかった。

彼は、鳥の、動き、雲の、流れ、風の、匂い、その全てから、情報を、読み取っているのだ。


(……彼は、戦場を、読んでいる。この、大地に、刻まれた、敵の、痕跡を。そして、空に、描かれた、未来の、予兆を……)


アレクサンダーは、師の、その、あまりにも、伝説の暗殺者らしい、姿に、改めて、身を、震わせた。

そして、彼は、意を決して、問いかけた。

「師よ……。何か、お気づきに、なられましたか」


俺は、突然、話しかけられ、びくりとして、彼の方を、振り返った。

そして、何を、聞かれているのか、全く、理解できないまま、いつものように、力なく、呟いた。


「…………うす」


それは、「え? 何か言いました?」という、ただ、それだけの、意味。

だが、アレクサンダーには、こう、聞こえた。

「ああ。敵の、気配を、捉えた」と。


その、肯定の、一言が、馬車の中の、空気を、一瞬にして、凍りつかせた。

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