聖杯の帰還と浄化の儀式
聖女セラフィーナと賢者レオナルドが、伝説の『月の雫』を手に王都へ帰還したのは、彼らが旅立ってから、ちょうど一週間が過ぎた日のことだった。
その報せは、すぐに王宮で試練を終えた勇者アレクサンダーの元にも届き、その日の午後には、三人の仲間たちが、再び『沈黙の宮』の作戦室に、顔を揃えることとなった。
「二人とも、無事だったか! よくぞ、戻ってきてくれた!」
アレクサンダーが、安堵の表情で、仲間たちを出迎える。
「ええ、アレク様も。アルフレッド騎士団長との試練、お見事だったと伺いましたわ」
セラフィーナが、柔らかな笑みを浮かべた。その手には、月の光を凝縮したかのように、青白く輝く液体で満たされた、小さな水晶の瓶が、大切そうに握られている。
レオナルドは、旅の疲労を感じさせない、理知的な瞳で、アレクサンダーがテーブルの上に置いた、一つの杯を見つめた。
「……そして、それが、『始まりの聖杯』……。実物を、目にすることができる日が来るとは」
それは、純金で作られた、シンプルながらも、神々しいまでのオーラを放つ、美しい杯だった。王家の、数ある至宝の中でも、最高位に位置づけられる、伝説の聖遺物。アレクサンダーは、師の期待に応え、王国最強の騎士に勝利することで、これを、借り受ける権利を、勝ち取ったのだ。
三人は、それぞれの、試練の成果を、確認し合うと、深く、頷き合った。
そして、その視線は、自然と、部屋の隅で、ただ、静かに、その様子を、見守っている、一人の男へと、注がれた。
俺、相川静だ。
(……帰ってきたのか、みんな)
俺は、心から、安堵していた。
仲間たちが、無事に、帰ってきた。
ただ、それだけの事実が、俺の、孤独と、退屈に蝕まれた心を、温かく、満たしていく。
だが、同時に、俺の心臓は、嫌な予感に、どきどきと、高鳴り始めていた。
役者は、揃った。
道具も、揃った。
つまり、これから、始まるのだ。
俺が、最も、恐れていた、あの、儀式が。
アレクサンダーが、俺の前に、進み出た。
その顔には、絶対的な、信頼と、尊敬の色が、浮かんでいる。
「サイレントキラー様。貴方様が、お示しくださった、道筋の通り、我々は、全ての、準備を、整えました。これより、『賢者の石』を、浄化する、儀式を、執り行いたいと、思います。どうか、我々を、お導きください」
(嫌だ。見たくない。関わりたくない)
俺は、無言で、首を横に振った。
だが、その、俺の、ささやかな抵抗は、仲間たちには、全く違う意味で、伝わったようだった。
レオナルドが、静かに、言った。
「……我々だけで、行うのですね。これも、我々に対する、最後の、試練、ということですか」
(違う! そういうことじゃない!)
俺の意思とは、裏腹に、儀式は、厳かに、始められた。
部屋の中央に、清められた、祭壇が、用意される。
その上に、『始まりの聖杯』が、置かれた。
セラフィーナが、祈りを捧げながら、水晶の瓶から、『月の雫』を、聖杯へと、静かに、注いでいく。
聖杯が、月の光を浴びたかのように、淡い、光を放ち始めた。
そして、ついに、その時が、来た。
アレクサンダーが、懐から、例の、くしゃくしゃになった、銀紙の包みを、取り出した。
彼が、命がけで、インテリオのアジトから、奪還してきた、『賢者の石』(という名の、ゴミ箱に捨てられていた、俺の食べかけのチョコレート)だ。
彼は、その銀紙を、丁重に、開くと、中から、ひとかけらの、黒い物体を、取り出した。
そして、それを、聖杯の中に、そっと、落とした。
ぽちゃん、と。
小さな、音がした。
俺は、その光景を、直視することが、できなかった。
ダメだ。
生理的に、無理だ。
ゴミ箱に、入っていた、食べ物を、国宝級の、聖杯に、入れる。
その、冒涜的な、行為。
俺の、潔癖症の、魂が、悲鳴を上げていた。
俺は、思わず、顔を、しかめ、うっ、と、喉の奥で、呻いた。
そして、その場から、逃げ出すように、後ずさりした。
その、俺の、あまりにも、素直な、嫌悪反応。
それが、仲間たちの目には、全く違う、壮絶な光景として、映っていた。
「……!」
アレクサンダーが、息を呑んだ。
「……サイレントキラー様が、後ずさりなさった……! なんという、凄まじい、邪気の、放出だ……!」
聖杯の中では、チョコレートが、ゆっくりと、溶け始めていた。
聖なる、『月の雫』が、みるみるうちに、濁った、茶色い液体へと、変わっていく。
それは、誰がどう見ても、ただの、ココアのような、液体だった。
だが、彼らの目には、そうは、見えていなかった。
「見てください!」
セラフィーナが、震える声で、叫んだ。
「『賢者の石』に、宿っていた、インテリオの、邪悪な呪いが、聖水の中に、溶け出していく……! なんという、おぞましい、光景……」
レオナルドは、俺が、顔をしかめている、その理由を、完璧に、誤解していた。
「……サイレントキラー様は、我々を、守ってくださっているのだ。あの、邪気が、我々の、魂を、汚染せぬよう、その、御身、一つで、全ての、呪いを、受け止め、そして、浄化しておられる……! あの、苦悶の表情こそが、その、証拠!」
(違う! ただ、汚くて、気持ち悪いだけだって!)
やがて、チョコレートは、完全に、溶けきった。
聖杯の中には、濁った、茶色い液体だけが、残された。
銀紙に包まれていた、黒い物体は、跡形もなく、消え去っている。
アレクサンダーが、その光景を見て、確信を持って、言った。
「……浄化は、完了した。邪気は、全て、この水の中に、封じられたのだ。そして、本体である、『賢者の石』は、その、聖なる力を、取り戻し、我々の、目には、見えぬ、霊的な、存在へと、昇華されたのだ……!」
(消えただけだって! 溶けて、なくなっただけだって!)
三人は、自分たちの、手で、成し遂げた、偉大な、儀式の、成功に、打ち震えていた。
そして、その、儀式を、導き、その、全ての、負荷を、一身に、引き受けてくださった、偉大なる、師に、感謝と、尊敬の念を、捧げた。
三人の視線が、一斉に、俺へと、集まる。
俺は、もう、何もかもが、どうでもよくなっていた。
ただ、早く、この、茶色い、汚い液体を、目の前から、消し去ってほしかった。
俺は、力なく、いつものように、呟いた。
「…………うす」
それは、「もう、いいから、早く、片付けてくれ」という、懇願。
だが、仲間たちには、こう、聞こえた。
「その通りだ。儀式は、完了した。我々の、勝利だ」と。
アレクサンダーは、その、承認の、一言に、深く、頷くと、聖杯を、手に取った。
そして、その、茶色い液体を、「後世に、災いを残さぬよう、地の、深くに、封印せねば」と言いながら、丁重に、部屋から、運び出していった。
こうして、俺の、食べかけのチョコレートは、壮大な、勘違いの、儀式を経て、伝説の、『賢者の石』として、完全に、生まれ変わってしまったのだった。
そして、物語は、ついに、最後の、舞台へと、その駒を、進める。
目指すは、北の、秘境、バルトス山脈。
もちろん、俺の、意思とは、全く、無関係に。
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次回は10月11日(土)19時更新予定です。
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