聖なる泉の試練と達人の掃除
勇者アレクサンダーが、王都で己の成長を証明していた、その頃。
聖女セラフィーナと賢者レオナルドの二人は、王都から遥か北、険しい山脈を越えた先にある、静寂の森に、足を踏み入れていた。
目指すは、伝説に謳われる『月の雫』が湧き出るという、聖なる泉。
「……空気が、澄んでいますね」
セラフィーナが、周囲の、清浄な気に、息を呑んだ。
森の木々は、まるで、天を敬うかのように、静かに、そして、真っ直ぐに、伸びている。地面には、柔らかな苔が、絨毯のように、広がり、二人の足音を、優しく、吸い込んでいく。
「ええ」
レオナルドが、頷く。
「これほどの、聖域です。泉を守る、何らかの、仕掛けや、守護者が、いても、おかしくはありません。気を、引き締めていきましょう」
二人は、師である、サイレントキラーの、教えを、胸に刻んでいた。
『力で、超えられない壁は、知恵で、迂回せよ』
『敵の、思考を、読め』
『その場の、風を、読め』
彼らは、もはや、ただの、聖女と、賢者ではなかった。
伝説の暗殺者の、思考を、学んだ、弟子なのだ。
やがて、森の、一番、奥。
木々が、円を描くように、開けた、その場所に、泉は、あった。
泉の水は、まるで、溶かした、月光そのもののように、青白い、神秘的な光を、放っている。水面は、鏡のように、静まり返り、周囲の、景色を、完璧に、映し出していた。
「……これが、『月の泉』……」
セラフィーナが、うっとりと、その光景に、見惚れる。
だが、レオナルドは、警戒を、解いていなかった。
「……静かすぎます。あまりにも、無防備すぎる。これこそが、罠の、兆候です」
彼が、そう言った、瞬間だった。
泉の、水面が、ごぽり、と、泡立った。
そして、その中央から、ゆっくりと、一つの、巨大な、人影が、せり上がってきたのだ。
それは、泉の水と、同じ、青白い光を放つ、水晶で、できた、巨大な、ゴーレムだった。
その体は、完璧な、多面体で、構成され、物理的な、弱点など、どこにも、見当たらない。その、頭があるべき場所には、ただ、一つの、巨大な、水晶の目が、不気味に、輝いているだけだった。
「……泉の、守護者、『クリスタル・ガーディアン』……!」
レオナルドが、古文書でしか、見たことのない、伝説の、守護者の名を、呟いた。
クリスタル・ガーディアンは、二人を、敵と、認識した。
その、巨大な、水晶の腕を、振り上げ、二人に向かって、叩きつけてくる。
二人は、咄嗟に、左右へと、飛び退き、その攻撃を、回避した。
ズゥゥゥン!
轟音と共に、地面が、揺れる。
ゴーレムの、一撃は、大地に、深い、クレーターを、作り出した。
「レオナルド様!」
セラフィーナが、杖を構え、聖なる光の矢を、放つ。
だが、その矢は、ゴーレムの、水晶の体に、当たった瞬間、キィン、という音と共に、霧散してしまった。
「ダメです! 聖属性の、魔法を、完全に、弾いている!」
レオナルドも、攻撃魔法を、試みるが、結果は、同じだった。
物理攻撃も、魔法攻撃も、一切、通用しない。
まさに、鉄壁の、守護者だった。
「……くっ! どうすれば……」
二人は、なすすべもなく、ただ、ゴーレムの、圧倒的な、破壊力を、かわし続けることしか、できなかった。
◆
その頃。
王都の、『沈黙の宮』。
俺、相川静は、新たな、そして、深刻な、問題に、直面していた。
(……汚い)
仲間たちが、旅立ってから、数日。
俺は、部屋から、一歩も、出ない、という、誓いを、忠実に、守り続けていた。
だが、その結果、俺の部屋は、少しずつ、その、秩序を、失い始めていたのだ。
脱ぎ捨てた、服。
読みもしないのに、ベッドに、持ち込んだ、本。
そして、何より、俺が、気になっていたのは、広すぎる、部屋の、床の、隅に、溜まった、埃だった。
俺は、日本にいた頃から、少しだけ、潔癖症の、気があった。
自分の、テリトリーが、汚れているのが、我慢ならないのだ。
メイドたちは、毎日、掃除に来てくれる。
だが、彼女たちの、掃除は、丁寧だが、完璧ではなかった。
俺の、目には、どうしても、見過ごせない、小さな、汚れが、見えてしまう。
(……自分で、やるか)
俺は、意を決した。
そして、コミュ障スキルを、最大限に、発揮し、メイドたちの、目を盗んで、掃除用具が、保管されている、物置へと、忍び込んだ。
そこで、俺は、一本の、モップと、バケツを、手に入れた。
自室に戻った、俺は、早速、完璧な、掃除を、開始した。
まず、バケツに、水を汲み、雑巾を、固く、絞る。
そして、モップに、その雑巾を、装着し、床の、隅から、隅まで、徹底的に、磨き始めた。
ゴシ、ゴシ、ゴシ……。
無心で、床を、磨く。
その、単純な、反復作業が、不思議と、俺の、荒んだ心を、落ち着かせてくれた。
俺は、夢中だった。
この、部屋から、全ての、穢れを、祓う。
その、崇高な、目的のために。
◆
「はあっ、はあっ……!」
セラフィーナの、息が、上がっていた。
クリスタル・ガーディアンの、攻撃は、止まらない。
二人は、防戦一方で、じりじりと、追い詰められていた。
「……ダメだ。このままでは、ジリ貧だ……」
レオナルドの、額にも、汗が、浮かぶ。
「何か……。何か、弱点が、あるはずだ。サイレントキラー様なら、こういう時、どうされる……?」
彼は、必死に、思考を、巡らせた。
師の、教えを、思い出す。
『敵の、思考を、読め』
『本物は、最も、価値のないものに、偽装されている』
(……偽装? この、ゴーレムが、偽りの姿だとでも、いうのか……?)
レオナルドは、ゴーレムの、その、完璧すぎる、水晶の体を、改めて、観察した。
傷一つない、滑らかな、表面。
あまりにも、完璧すぎる。
まるで、作り物のようだ。
その時だった。
レオナルドの、脳裏に、まるで、天啓のように、一つの、光景が、浮かんだのだ。
それは、師である、サイレントキラーが、無心で、何かを、ゴシゴシと、磨いている、姿だった。
(……磨く? 汚れを、落とす……? 穢れを、祓う……?)
レオナルドは、ハッと、目を見開いた。
「……そういうことか!」
彼は、震える声で、叫んだ。
「セラフィーナ! あの、ゴーレムは、偽物だ!」
「えっ!?」
「あれは、泉の、聖なる魔力が、作り出した、ただの、幻影! いや、魔力の、鎧だ! 我々が、攻撃すればするほど、泉の、魔力を吸い上げて、さらに、強固になる! 我々が、戦うべき、相手は、あの、巨体ではない!」
レオナルドは、ゴーレムの、輝く、体の、その、奥を、睨みつけた。
「本体は、あの、輝きの、中心にある、ほんの、小さな、核だ! あの、輝きこそが、我々の、目を、眩ませている、最大の、罠なのだ!」
セラフィーナは、その、あまりにも、大胆な、仮説に、息を呑んだ。
だが、彼女は、師の、弟子である、レオナルドの、言葉を、信じた。
「分かりましたわ! やってみましょう!」
彼女は、杖を、高々と、掲げた。
「我が、聖なる光よ! 彼の者の、偽りの、衣を、剥ぎ取り、真実の、姿を、照らし出したまえ!」
セラフィーナが、放ったのは、攻撃の光ではなかった。
ただ、純粋な、浄化の、光。
その、優しい光が、クリスタル・ガーディアンの、巨体を、包み込んだ。
すると、ゴーレムの、輝く体が、まるで、陽炎のように、揺らぎ始めた。
そして、その、輝きの、中心に、ほんの一瞬だけ、黒く、淀んだ、小さな、核のようなものが、姿を現したのだ。
「そこだ!」
レオナルドは、その、一瞬を、見逃さなかった。
彼が、放った、一筋の、魔力の矢が、正確に、その核を、貫いた。
ギャアアアアアッ!
クリスタル・ガーディアンは、初めて、苦悶の、絶叫を上げた。
そして、その、巨大な、水晶の体は、ガラスのように、粉々に、砕け散り、光の粒子となって、消えていった。
後に残されたのは、静寂を取り戻した、聖なる泉と、その水面に、浮かぶ、一滴の、美しい、雫だけだった。
『月の雫』。
二人は、ついに、試練を、乗り越えたのだ。
その頃、俺、相川静は、ピカピカに、磨き上げた、部屋の床を、見て、満足げに、頷いていた。
そして、いつものように、力なく、呟いた。
「…………うす」
それは、完璧な、仕事に対する、自分自身への、労いの一言。
だが、もし、遠く、離れた、弟子たちが、それを、聞いていたなら、きっと、こう、解釈したに、違いない。
「その通りだ。よくやった。我が、教えを、見事、会得したな」と。




