達人の視線と旅立ちの朝
俺が、ただゴミ箱から拾われたチョコレートに対して、生理的な嫌悪感を示しただけの一件。
それが、仲間たちの間では、「邪に汚された聖なる遺物を浄化せよ」という、師からの、次なる試練として、絶対的な意味を持ってしまった。
その翌朝。
王都の『沈黙の宮』は、決戦前とはまた違う、静かな、しかし、確固たる決意に満ちた空気に包まれていた。
勇者アレクサンダー、聖女セラフィーナ、賢者レオナルドの三人は、それぞれの任務に向けて、迅速に行動を開始していた。
「では、俺は王宮へ行ってくる」
アレクサンダーが、身支度を整えながら、言った。
「国王陛下に、これまでの経緯を報告し、『始まりの聖杯』を、拝借してくる。サイレントキラー様のお名前を出せば、陛下が、否と言うはずがない」
その顔には、一点の曇りもなかった。師が示した道筋なのだ。そこに、疑いを挟む余地などない。
「ええ。お願いしますわ、アレク」
セラフィーナは、旅の支度をしながら、頷いた。
「私とレオナルド様は、北の聖なる泉へ向かい、『月の雫』を採取してまいります。往復で、およそ一週間。それまでには、必ず」
「ああ。頼んだぞ」
三人の間には、もはや、余計な言葉は、必要なかった。
彼らは、自分たちの力で、師の期待に応える。
その、一つの、共通の目標が、彼らを、強く、結びつけていた。
俺、相川静は、そんな、仲間たちの、あまりにも、意識の高い、やり取りを、自室の窓から、ぼんやりと、眺めていた。
風邪は、すっかり、治った。
だが、その代わりに、俺の心を、支配していたのは、圧倒的なまでの、退屈と、そして、罪悪感だった。
(……俺のせいで、みんな、また、大変なことに……)
俺が、あの時、チョコレートを、欲しがらなければ。
俺が、あの時、ゴミ箱から拾ってきたものに、嫌な顔を、しなければ。
彼らが、こんな、存在するかどうかも分からない、伝説のアイテムを探す旅に、出ることもなかったはずだ。
だが、今さら、俺に、何ができる?
「あれは、ただの、俺の、わがままでした」
などと、言えるはずもない。
俺は、ただ、無力だった。
この、壮大な、勘違いの物語の中で、俺は、ただ、流されることしかできない、ちっぽけな、木の葉なのだ。
アレクサンダーが、馬に乗り、王宮へと、颯爽と、駆けていくのが見えた。
セラフィーナとレオナルドも、屋敷の玄関で、旅の、最終確認をしているようだった。
俺は、この、息の詰まるような、部屋にいるのが、たまらなく、嫌になった。
外の、空気が、吸いたい。
誰にも、邪魔されずに、ただ、静かに、空を、眺めたい。
俺は、そっと、部屋を抜け出した。
もちろん、コミュ障スキルを、最大限に、発揮して。
メイドたちの、気配を、完全に、消し去り、俺は、屋敷の中を、影のように、移動する。
そして、以前、見つけた、あの、安息の地へと、向かった。
屋敷の、屋根の上。
梯子を登り、屋根の、一番高い場所に、腰を下ろす。
ひんやりとした、朝の風が、心地よかった。
眼下に広がる、王都の、美しい街並み。
その景色を、眺めていると、少しだけ、俺の、重苦しい気分が、晴れていくような、気がした。
俺は、ぼーっと、北の方角を、眺めた。
セラフィーナたちが、向かうという、聖なる泉。それは、あの、方角にあるのだろうか。
地図を見たわけではない。ただ、なんとなく、そちらに、目が行っただけだった。
北の空は、どこまでも、青く、澄み渡っている。
その、俺の、何気ない、行動。
それを、ちょうど、屋敷を出発しようとしていた、セラフィーナとレオナルドが、下から、見上げていた。
「……サイレントキラー様……」
セラフィーナが、息を呑んだ。
屋根の、一番高い場所で、朝日を浴びながら、静かに、北の空を、見つめる、俺の姿。
その姿は、彼らの目には、あまりにも、神秘的で、そして、伝説の暗殺者として、あまりにも、絵になる、光景として、映っていた。
レオナルドが、震える声で、言った。
「……我々の、旅立ちを、見送ってくださっているのか……」
「ええ……」
セラフィーナの瞳が、潤む。
「そして、ただ、見送るだけでは、ありませんわ。あの、御姿……。彼は、その、卓越した、御力で、我々が進む、北の道の、先に、危険がないかどうかを、その目で、見通しておられるのです」
(見てません。ただ、空が、青いなあって、思ってただけです)
俺が、屋根の上で、感傷に浸っていると、一人の、若いメイドが、俺を探して、屋根の下まで、やってきた。
「あ、あの……! サイレントキラー様! そのような、危険な場所に……! 何か、御用でしたでしょうか?」
彼女は、心配そうに、俺を、見上げている。
俺は、気まずくなった。
ただ、ぼーっとしていただけだ、とは、言えない。
俺は、彼女を、安心させるように、静かに、首を横に振った。
そして、ただ、一言、いつものように、呟いた。
「…………うす」
それは、「何でもないから、大丈夫」という、俺なりの、精一杯の、気遣い。
だが、その一言は、下の、セラフィーナとレオナルドの耳に、全く違う、意味合いを持つ、天啓として、届いてしまった。
レオナルドの顔が、ハッと、目を見開いた。
「……『問題ない』……。そうか! サイレントキラー様は、我々に、そう、告げておられるのだ! 『我、すでに見通せり。北の道に、憂いなし。案ずるな、我が弟子たちよ。速やかに、任務を、遂行せよ』と!」
セラフィーナの顔が、ぱあっと、輝いた。
「ああ……! なんという、お心遣い……。我々の、不安を、すべて、取り除いてくださったのですね……」
二人の間に、もはや、迷いは、なかった。
師からの、力強い、承認と、祝福を、受けたのだ。
彼らは、俺がいる、屋根に向かって、深く、深く、一礼すると、決意に満ちた、足取りで、北へと、旅立っていった。
俺は、その光景を、屋根の上から、ただ、呆然と、見送っていた。
自分が、今、この瞬間、彼らに、どれほどの、勇気と、そして、勘違いを、与えてしまったのか、全く、気づかないまま。
俺の、ただの、気まぐれな、朝の散歩は、こうして、仲間たちの、新たな、旅立ちを、祝福する、伝説の師の、無言の、儀式として、完結してしまったのだった。




