蛇の巣への潜入と遠見の師
月が、雲間に隠れた、漆黒の夜。
王都の一角にそびえ立つ、非合法の賭博場『赤と白の縞模様』は、そのきらびやかな光とは裏腹に、獲物を待ち構える蛇のように、静まり返っていた。
その、屋上。
闇よりも、なお暗い影が、三つ、音もなく、舞い降りた。
勇者アレクサンダー、聖女セラフィーナ、そして、賢者レオナルド。
彼らの身に纏うのは、夜の闇に溶け込む、特殊な素材で作られた、黒衣。その表情には、極度の緊張と、そして、師の期待に応えんとする、鋼の決意が、浮かんでいた。
「……よし。第一段階は、クリアだ」
アレクサンダーが、息を殺し、囁く。
彼らは、サイレントキラーが示した『手本』通り、正面からではなく、隣接する建物の屋根を伝い、この、アジトの屋上へと、たどり着いたのだ。
「レオ、斥候魔法を。敵の、配置は?」
「待ってください」
レオナルドは、指先で、風の流れを、読んでいた。
「……サイレントキラー様は、仰った。『その場の、風を、読め』と。この、屋上の風……。その流れは、常に、一定ではない。数分に、一度、気まぐれな、渦を巻く瞬間がある。敵の、監視の目も、その一瞬、必ず、緩むはずだ」
三人は、ただ、待った。
伝説の師の、教えを、信じて。
やがて、レオナルドが、目を見開いた。
「……今です!」
その瞬間、三人は、猫のように、しなやかに、動き出した。
目指すは、サイレントキラーが、その身をもって、示してくれた、唯一の、侵入経路。
荷物用の、小さな昇降機と、そこから、内部へと繋がる、細い、通気口。
彼らの動きは、数日間の、地獄の訓練によって、見違えるほど、洗練されていた。
アレクサンダーが、先行し、ロープを固定する。
セラフィーナが、浮遊魔法で、仲間たちの、体を、軽くする。
レオナルドが、周囲の、魔力の流れを読み、罠の、有無を、探る。
完璧な、連携だった。
だが。
彼らの、前に、最初の、絶望が、立ちはだかった。
通気口の、入り口。
その、鉄格子の、内側に、びっしりと、見たこともない、紫色の、魔法の紋様が、刻まれていたのだ。
「……これは……!」
レオナルドが、息を呑んだ。
「『魂喰らいの呪印』……! 触れた者の、魂を、根こそぎ、吸い取る、古代の、呪いだ! 我々の、物理的な、潜入は、すべて、読まれていたというのか……!」
「くそっ! どうすれば……」
アレクサンダーが、歯噛みする。
この呪印は、あまりにも、強力で、レオナルドの、解呪魔法でも、セラフィーナの、聖なる力でも、破ることは、不可能だった。
「……これが、インテリオの、策……。我々は、またしても、彼の、掌の上だったというのですか……」
セラフィーナの顔に、絶望の色が、浮かぶ。
作戦は、開始、わずか、数分で、完全な、手詰まりに、陥ってしまった。
◆
その頃。
『沈黙の宮』の、俺の部屋。
俺、相川静は、深刻な、退屈と、そして、空腹に、苦しんでいた。
仲間たちが、決死の、潜入作戦に、向かってから、すでに、数時間が、経過している。
俺は、ただ、彼らの、無事を、祈ることしかできない。
その、無力感が、俺の心を、重く、締め付けていた。
(……お腹、すいたな)
夕食は、食べた。
だが、緊張のせいか、あまり、喉を通らなかったのだ。
夜食に、何か、軽いものでも、食べたい。
だが、メイドを、呼ぶのは、気が引ける。
俺は、ふと、思い出した。
あの、チョコレートの、存在を。
仲間たちが、『賢者の石』だと、信じ込んでいる、あの、板チョコ。
セラフィーナが、大切に、保管しているはずだ。
(……一片だけなら、バレないよな)
俺は、そっと、部屋を抜け出した。
コミュ障スキルを、最大限に、発揮し、誰にも、気づかれることなく、食料が、保管されている、厨房へと、向かう。
幸い、深夜の、厨房には、誰もいなかった。
俺は、戸棚を、一つずつ、開けていく。
そして、ついに、それを見つけた。
銀紙に、包まれた、俺の、希望の光。
その横には、アーティファ-クトの『欠片』も、丁重に、置かれていた。
俺は、安堵のため息をつくと、チョコを、一片、パキリと、割った。
そして、その、甘い、香りを、楽しもうとした、その時だった。
俺の、ポケットの中で、何かが、かすかに、振動した。
スマートフォンだった。
圏外のはずの、スマホ。
その、真っ暗な画面が、一瞬だけ、ぼんやりと、光り、そして、消えた。
まるで、静電気のような、微弱な、光。
(……なんだ? 壊れたのか?)
俺は、不思議に思った。
そして、ふと、気づいた。
俺の、すぐそばに、あの、アーティファクトの『欠片』が、置かれていることに。
(……もしかして、こいつの、せいか?)
俺は、好奇心に、駆られた。
この、不思議な石と、スマホ。
この二つが、近づくと、何か、面白いことが、起こるのではないか。
俺は、いたずら心が、湧いてくるのを、抑えきれなかった。
俺は、アーティファクトの『欠片』を、手に取ると、それを、スマホの、画面に、ゆっくりと、近づけてみた。
すると。
スマホの画面が、再び、光った。
今度は、さっきよりも、強く、そして、長く。
画面には、ノイズのような、砂嵐が、走り、そして、その中心に、一つの、紫色の、紋様が、浮かび上がった。
それは、まるで、どこかの、防犯カメラの、映像のようだった。
(……うわ、すごい。テレビみたいだ)
俺は、夢中だった。
この、異世界で、初めて、見つけた、ハイテクな、おもちゃに。
俺は、その、紫色の紋様を、もっと、はっきりと、見たくて、水晶の『欠片』を、さらに、画面に、押し付けた。
その、俺の、何気ない、行動。
それが、遠く、離れた、賭博場の屋上で、絶望していた、仲間たちを、救う、奇跡の、引き金となることを、俺は、知る由もなかった。
◆
「……ダメです。この呪印は、あまりにも、強力すぎる……!」
レオナルドが、ついに、匙を投げた。
その、瞬間だった。
彼らの目の前にある、鉄格子。
そこに、刻まれていた、紫色の、呪印が、まるで、テレビの、砂嵐のように、一瞬、激しく、乱れたのだ。
そして、次の瞬間、何事もなかったかのように、すっ、と、その光を、失った。
「「「…………え?」」」
三人は、ただ、呆然と、その光景を、見つめていた。
あれほど、強力だった、古代の呪いが、まるで、電源を、切られたかのように、完全に、沈黙したのだ。
レオナルドが、震える声で、言った。
「……ば、馬鹿な……。呪印の、魔力供給が、完全に、断たれている……? なぜだ……? いったい、何が……」
アレクサンダーが、ハッと、天を仰いだ。
そして、彼が、見つめた先。
それは、王都の、『沈黙の宮』が、ある、方角だった。
「……サイレントキラー様……」
彼は、確信を持って、言った。
「……彼だ。彼が、やってくださったのだ」
「え……?」
「我々が、この、絶望的な、罠の前に、立ち尽くしているのを、彼は、遠く、離れた、あの場所から、すべて、見ておられたのだ。そして、我々のために、道を開いてくださった。この、古代の、大呪印を、指一本、触れることなく、ただ、その、御力だけで、無力化して見せたのだ……!」
アレクサンダーの、その、あまりにも、飛躍した、しかし、彼らにとっては、唯一の、答え。
セラフィーナとレオナルドも、もはや、それを、疑うことすらしなかった。
「なんと……。我々は、常に、見守られていたのですね……」
「遠隔からの、魔力干渉……。それも、これほど、強力な、古代の呪いを、一方的に……。もはや、伝説や、神話の、領域だ……」
三人は、自分たちの、師の、その、あまりにも、底知れない、力に、改めて、身を震わせた。
そして、その、師が、与えてくれた、好機を、無駄にはすまいと、固く、誓った。
その頃、俺、相川静は、厨房の床に、座り込み、スマホの画面に映る、不思議な映像に、夢中になっていた。
そして、ポケットから、取り出した、チョコレートを、かじりながら、いつものように、力なく、呟いた。
「…………うす」
それは、チョコレートの、甘さに対する、素朴な、感想。
だが、もし、仲間たちが、それを、聞いていたなら、きっと、こう、解釈したに、違いない。
「その通りだ。道は、開かれた。さあ、行け」と。




