達人の昼寝と新たな試練
屋根の上は、平和だった。
心地よい日差しが、風邪で弱った俺の体を、優しく温めてくれる。眼下に広がる王都の喧騒も、ここまでくれば、どこか遠い世界のBGMのようだ。
俺、相川静は、人生で、これほどまでに、質の高い昼寝を、満喫したことはなかった。
(……うん。よく寝た)
俺が、ゆっくりと、体を起こした時、太陽は、すでに、西の空へと、傾き始めていた。
下の庭では、まだ、仲間たちが、何やら、やっているようだった。
「違う、アレク! そこは、力で、こじ開ける場所ではない! 壁の、石材の、わずかな、隙間を、利用するのだ!」
「くっ……! 理屈は、分かるが、難しい……!」
「セラフィーナ様、そちらの、蔦の強度は、計算上、成人男性一人を、支えるには、足りません!」
彼らは、もはや、闇雲に、壁を登ろうとは、していなかった。
俺が、梯子を使った(ように見えた)一件以来、彼らの訓練は、「いかにして、壁を、知恵で、攻略するか」という、高度な、分析フェーズへと、移行していたのだ。
壁の、強度を調べ、風の流れを読み、利用できる、ものはないか、隅々まで、観察している。
その姿は、真剣そのものだった。
(……まだ、やってたのか。すごい、集中力だな……)
俺は、感心すると同時に、猛烈な、気まずさを、感じていた。
彼らが、あんなにも、真剣に、取り組んでいるのは、元をたどれば、俺の、せいなのだ。
俺が、適当に、指さした、建物のせいで。
俺が、人目を避けて、散歩したせいで。
(……そろそろ、部屋に、戻りたい。お腹も、すいてきたし……)
俺は、屋根の上から、地上へと、戻るルートを、探した。
だが、問題があった。
俺が、登ってきた、あの、梯子の真下には、今、三人が、集まって、熱心に、議論を、交わしている。
ここから、降りていけば、間違いなく、鉢合わせになる。
(……絶対、嫌だ)
何か、話しかけられたら、どうしよう。
また、何か、答えを、求められたら、どうしよう。
考えただけで、胃が、きりきりと、痛む。
俺は、別の、ルートを、探した。
誰にも、見つからずに、自室の、バルコニーへと、直接、戻れるような、完璧な、隠密ルートを。
俺の、コミュ障として、培ってきた、サバイバル能力が、フル回転を始める。
そして、見つけた。
俺がいる、屋根の、端から、自室の、バルコニーまでは、直線距離で、およそ、十メートル。
その間には、いくつかの、障害物、いや、利用できる、足場があった。
まず、屋根の、雨どい。少し、古いが、俺の体重くらいなら、支えてくれそうだ。
その先に、壁に、取り付けられた、古い、旗を掲げるための、ポール。
そして、その下には、装飾用の、小さな、石の庇。
最後は、そこから、バルコニーの、手すりへと、飛び移る。
(……いける。これなら、誰にも、見つからない)
俺は、意を決した。
まず、息を殺し、屋根の、傾斜を、滑るように、移動する。
そして、雨どいに、そっと、足をかけた。
ミシリ、と、嫌な音がしたが、なんとか、持ちこたえてくれた。
俺は、慎重に、壁を伝い、旗用のポールへと、手を伸ばす。
ポールを、掴み、体を、振り子のように、揺らし、次の足場である、石の庇へと、飛び移った。
着地の、衝撃を、膝で、殺す。
音は、ほとんど、ない。
最後の、難関。
ここから、バルコニーまでは、およそ、三メートル。
助走は、つけられない。
純粋な、脚力だけで、跳ぶしかない。
俺は、深く、息を吸い込んだ。
そして、跳んだ。
体が、宙に、舞う。
眼下に、仲間たちの、驚いたような、顔が、見えた。
(……あ、見つかった)
だが、もう、後戻りは、できない。
俺は、必死に、手を伸ばし、バルコニーの、手すりを、掴んだ。
そして、その勢いのまま、体を、引き上げ、バルコニーの、内側へと、着地した。
ふぅ、と、安堵のため息をつく。
なんとか、ミッション、コンプリートだ。
俺は、仲間たちに、背を向け、何事もなかったかのように、部屋の中へと、入っていった。
早く、この場から、立ち去りたかったからだ。
その、俺の、あまりにも、華麗で、そして、完璧な、隠密帰還。
それが、下の庭で、訓練に行き詰まっていた、三人に、どれほどの、衝撃を、与えたか。
俺は、知る由もなかった。
「…………」
三人は、ただ、呆然と、俺が消えていった、バルコニーを、見上げていた。
やがて、レオナルドが、震える声で、言った。
「……見ましたか。今の、動きを……」
アレクサンダーが、ゴクリと、唾を飲む。
「ああ……。まるで、重力という、概念が、存在しないかのようだった……。壁を、歩き、ポールを、足場にし、そして、最後は、鳥のように、舞った……」
「あれこそが……」
レオナルドは、続けた。
「伝説の暗殺者、『サイレントキラー』の、真の、移動術……。『立体機動』……!」
(そんな名前じゃ、ありません)
「我々は、またしても、彼の、表面しか、見ていなかった! 彼が、梯子を使ったのは、我々に、『迂回路』という、概念を、教えるため! そして、今、彼が、見せてくださったのは、その、さらに、奥義! 『道がないのなら、自ら、道を作り出せ』という、究極の、教えだったのです!」
俺が、ただ、人目を避けて、部屋に戻りたかっただけの、必死の、行動。
それが、仲間たちにとっては、「伝説の暗殺者の、最終奥義の、デモンストレーション」として、完璧に、誤解されてしまった。
アレクサンダーは、固く、拳を、握りしめた。
「……そうか。俺たちに、足りなかったのは、それだったのか。ただ、道を探すのではない。壁も、柱も、すべてを、己の、道として、利用する、発想力と、それを、実現するための、技術……!」
セラフィーナも、決意の表情で、頷く。
「ええ。我々も、あれを、目指さなければ。サイレントキラー様に、追いつくためには……」
三人の、訓練の、目標は、その瞬間、さらに、次元の違う、高みへと、引き上げられた。
彼らは、もはや、ただ、壁を登るのではない。
壁を、歩き、壁を、舞うための、地獄の、特殊訓練を、開始したのだ。
ロープを使い、魔法で、足場を作り、そして、消し、アレクサンダーの、驚異的な、身体能力を、最大限に、活かす。
三人の、連携と、創意工夫が、試される、高度な、訓練。
その頃、俺、相川静は、自室のベッドの上で、ごろごろしながら、考えていた。
(……夕飯、何かな。お腹すいたな……)
俺の、あまりにも、人間的な、欲求と、仲間たちの、あまりにも、英雄的な、勘違い。
その、二つの、歯車は、もはや、誰にも、止められない勢いで、回り続けていた。




