伝説の模倣と地獄の訓練
俺、相川静が、ただの風邪から回復し、人目を避けて屋敷の裏庭を散歩しただけの一件。
それが、仲間たちの間では、「伝説の暗殺者が、その身をもって、潜入経路の正解を示してくださった」という、絶対的な『手本』として、解釈されてしまった。
そして、その翌日から。
王都の『沈黙の宮』の、広大な敷地は、地獄の特殊訓練場へと、その姿を変えた。
「いいか! 我々は、サイレントキラー様の、あの動きを、完璧に、模倣する! 気配を殺し、音を殺し、壁を、垂直に、駆け上がるのだ!」
朝っぱらから、屋敷の壁に向かって、勇者アレクサンダーが、熱血指導教官のように、叫んでいる。
彼の前では、聖女セラフィーナと、賢者レオナルドが、動きやすい、軽装の服に着替え、真剣な表情で、壁を睨みつけていた。
俺は、その光景を、自室の窓から、呆然と、眺めていた。
風邪は、すっかり良くなった。
だが、目の前で、繰り広げられている、この、奇妙な光景のせいで、また、頭が痛くなりそうだった。
(……何、やってるんだ、あの人たち……)
彼らが、挑戦しているのは、高さ、十メートルはあろうかという、屋敷の、滑らかな、石壁。
手すりも、足場も、ほとんどない。
普通に考えれば、登れるはずがなかった。
「まずは、俺からだ! 見ていろ!」
アレクサンダーが、雄叫びを上げ、壁に向かって、突進した。
彼は、壁を、数歩、駆け上がると、驚異的な跳躍力で、さらに、高みを目指す。
だが、彼の、力任せの動きは、あまりにも、荒々しすぎた。
ガッ、と。彼の手が、掴んだ、石の突起が、その、怪力に耐えきれず、砕け散る。
「うおっ!?」
アレクサンダーは、バランスを崩し、無様に、地面に、落下した。
幸い、彼は、見事な、受け身を取ったため、怪我はなかったが、その顔には、屈辱の色が、浮かんでいた。
「くそっ……! なぜだ! サイレントキラー様は、あんなにも、軽々と……!」
次に、挑戦したのは、レオナルドだった。
彼は、力で登ることを、早々に、諦め、知恵で、壁を、攻略しようとした。
「……壁の、構造材質、摩擦係数、そして、風の抵抗を、計算……。最適な、ルートは、ここだ!」
彼は、魔法で、小さな、足場を、いくつか、作り出し、それを、頼りに、登り始めた。
だが、その動きは、あまりにも、ぎこちなく、遅い。
途中で、足場の、魔力が切れ、彼は、セラフィーナの、浮遊魔法に、助けられながら、なんとか、地上に、舞い戻った。
「……ダメです。これでは、時間が、かかりすぎる。潜入作戦では、致命的だ」
レオナルドは、悔しそうに、唇を噛む。
セラフィーナも、挑戦したが、彼女の、優雅な動きは、このような、荒事には、全く、向いていなかった。
三人は、壁の前で、途方に暮れていた。
自分たちと、あの、伝説の暗殺者との、あまりにも、絶対的な、実力差を、改めて、思い知らされていた。
俺は、その光景を、窓から、眺めながら、深いため息をついた。
(……だから、無理だって。あんなの、普通は、登れないんだから……)
俺は、もう、彼らの、奇行を、見るのに、飽きてしまった。
そして、部屋の中にいるのも、退屈だった。
俺は、また、外の空気を、吸いたくなった。
だが、裏庭は、彼らが、訓練場として、使っている。
(……別の、静かな場所を、探そう)
俺は、そっと、部屋を抜け出した。
もちろん、コミュ障スキルを、最大限に、発揮して。
壁と、一体化し、音を殺し、気配を消す。
誰にも、気づかれることなく、俺は、屋敷の、反対側へと、移動した。
そこには、小さな、物見台のような、テラスがあった。
おそらく、庭を、眺めるための、場所なのだろう。
幸い、誰も、いなかった。
俺は、そのテラスの、手すりに、腰掛けた。
ここからなら、王都の景色が、よく見える。
心地よい風が、頬を撫でる。
(……うん。ここなら、静かだ)
俺が、一人、平和を、満喫していると、ふと、視線を感じた。
見ると、訓練に行き詰まった、アレクサンダーたちが、こちらを、見上げていた。
その目は、まるで、答えを求める、迷える子羊のようだった。
(……うわ、見つかった)
俺は、気まずくなった。
そして、この場から、立ち去ろうとした。
だが、テラスから、部屋に戻るには、また、面倒な、隠密行動が、必要になる。
俺は、もっと、簡単な、移動ルートを、探した。
そして、見つけた。
テラスの、すぐ横。
そこには、屋敷の、屋根へと続く、装飾用の、梯子が、かかっていたのだ。
おそらく、屋根の、メンテナンス用のものだろう。
俺は、迷わず、その梯子に、手をかけた。
そして、するすると、屋根の上へと、登っていく。
屋根の上は、さらに、見晴らしが良かった。
そして、何より、誰も、いない。
完璧な、安息の地だった。
俺は、屋根の、一番、高い場所に、腰を下ろし、満足げに、息をついた。
これで、しばらくは、誰にも、邪魔されないだろう。
その、俺の、何気ない、行動。
それが、行き詰まっていた、仲間たちに、どれほどの、衝撃と、そして、天啓を、与えたか。
俺は、知る由もなかった。
下の、庭で、レオナルドが、震える声で、叫んだ。
「……分かった! 分かったぞ、アレク! セラフィーナ!」
「我々は、根本的に、間違っていた! サイレントキラー様の、あの、超人的な、体術を、ただ、力や、魔法で、模倣しようとすること自体が、間違いだったのだ!」
彼は、俺がいる、屋根を、指さした。
「見てみろ! 彼が、我々に、示してくださった、本当の、答えを!」
「彼は、壁を、登ったのではない! そこにあった、『梯子』を、利用したのだ!」
(え? いや、まあ、そうだけど……)
レオナルドは、興奮したように、続けた。
「彼は、こう、教えてくださっているのだ! 『力で、超えられない壁は、知恵で、迂回せよ』と! 『ただ、登るのではない。登るための、道筋を、見つけ出せ』と! 我々は、彼の、表面的な、動きばかりを、真似しようとして、その、本質的な、教えを、見落としていたのだ!」
アレクサンダーとセラフィーナが、その、あまりにも、シンプルで、そして、深遠な、答えに、目から、鱗が落ちた、という表情で、天を仰いだ。
「なるほど……! そうだったのか!」
「我々は、なんて、愚かだったのでしょう……」
三人の、訓練の、方針は、その瞬間、百八十度、変わった。
彼らは、もはや、闇雲に、壁を登ることを、やめた。
代わりに、彼らは、屋敷の、壁を、隅々まで、観察し始めた。
どこかに、利用できる、突起はないか。
どこかに、隠された、足場はないか。
どこかに、もろくなっている、壁はないか。
伝説の暗殺者の、本当の、流儀。
それは、超人的な、身体能力では、なかった。
それは、常人には、見ることのできない、道筋を、見つけ出す、その、卓越した、『観察眼』と、『発想力』だったのだ。
(と、彼らは、勘違いした)
彼らの、訓練は、新たな、ステージへと、移行した。
それは、もはや、ただの、体力訓練では、ない。
知恵と、観察眼を、鍛える、高度な、実践訓練だった。
その頃、俺、相川静は、屋敷の、屋根の上で、心地よい、日差しを浴びながら、うとうとと、昼寝を始めていた。
仲間たちが、自分のおかげで、地獄の訓練に、新たな、光を見出したことなど、全く、気づかないまま。
俺の、ただの、昼寝場所探しは、こうして、勇者パーティーに、伝説の暗殺者の、極意を、授ける、という、偉大な、功績として、歴史に、刻まれることになったのだった。




