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神の眠りと砕かれた精神

魔王軍幹部、『幻惑のミスト』が放った、濃密な幻惑の霧。

それは、人の精神に直接作用し、最も見たくない悪夢を、現実として見せる、禁断の術だった。

勇者アレクサンダーも、聖女セラフィーナも、賢者レオナルドも、その霧に巻かれた瞬間、それぞれの心の弱さを突かれ、苦悶の表情を浮かべて、その場に膝をついた。


「くっ……! これは……!」

アレクサンダーの脳裏には、聖剣を手にしながらも、魔王の前に、無残に敗れ去る、最悪の未来が映し出されていた。

「ああ……。私の力が、及ばないばかりに、人々が……」

セラフィーナの心には、彼女の治癒の力が、間に合わず、多くの命が失われていく、無力な自分の姿が、繰り返し、再生されていた。

「分からない……。私の知識では、この事態を、解明できない……!」

レオナルドは、己の知性の限界を、嘲笑われるかのような、終わりのない、問いの中に、閉じ込められていた。


三者三様の、悪夢。

ミストは、その光景に、満足げに、笑みを浮かべた。

「くくく……。そうだ。苦しめ。絶望しろ。それが、人間の、脆く、愚かな、心の正体だ」


そして、彼は、その、歪んだ愉悦に満ちた視線を、最後の一人へと、向けた。

今回の、主目的。

ゴライアスを、赤子のようにひねり、シルフィードを、恐怖のあまり、逃げ出させたという、伝説の男。

サイレントキラー。


「さあ、貴様の番だ、英雄。貴様の、その、鋼鉄のメンタルとやらを、今、この場で、ズタズタに、引き裂いてやる。貴様は、一体、どんな悪夢を見て、泣き叫ぶのかな?」


ミストは、その力の、ほとんどを、俺、相川静に、集中させた。

彼が、俺の脳内に、送り込んだのは、あらゆる、精神的な、苦痛のイメージだった。

敗北の屈辱。

仲間からの裏切り。

愛する者を失う、絶望。

世界が、目の前で、滅びていく、無力感。


彼の、幻惑地獄の、フルコース。

どんな、屈強な精神の持ち主でも、これを受ければ、一瞬で、廃人となる、必殺の術。


だが。

ミストの、その自信に満ちた笑みは、次の瞬間、困惑へと、変わった。


「……なんだ? なぜだ……? なぜ、貴様は、平然としている……?」


俺は、ただ、その場に、静かに、立っていた。

いや、立っているように、見えていた。

その表情は、フードの奥に隠れて、窺い知ることはできない。

だが、その佇まいは、ミストの、必殺の精神攻撃を、受けているとは思えないほど、穏やかで、静かだった。


ミストは、焦った。

「こ、小賢しい! 防御結界か! だが、無駄だ! 我が術は、物理的な防御など、意味をなさん!」

彼は、さらに、幻惑の霧の濃度を、上げていく。


俺の脳内に、さらに、強烈な、悪夢が、送り込まれる。

大学の講義室で、教授に指名され、何も答えられずに、三百人の学生に、嘲笑われる、悪夢。

コンビニで、店員に、うまく、お礼が言えず、憐れみの目で見られる、悪夢。

アパートの隣人から、壁ドンをされ、恐怖で、一歩も、部屋から出られなくなる、悪夢。


それは、俺が、日本で、日常的に、経験していた、地獄のような、現実。

ミストは、それを、俺の、心の、最も、深い、トラウマだと、信じて、疑わなかった。


だが。

俺は、それでも、動かない。

ピクリとも、しない。


なぜなら。

俺は、その時、すでに、意識を、失っていたからだ。

風邪による、高熱と、連日の、極度のストレス。

そして、ミストの、幻惑の霧が、ある意味、極上の、睡眠導入剤として、機能した結果。

俺の精神は、悪夢を見る、ステージすら、飛び越えて、ただ、深く、深く、穏やかな、眠りの海へと、沈んでいたのだ。


俺の、意識の中は、ただ、真っ白だった。

何の、思考も、感情も、ない。

ただ、そこにあるのは、「眠い」「休みたい」という、生命としての、根源的で、純粋な、欲求だけ。


その、あまりにも、シンプルで、あまりにも、純粋な、精神状態。

それが、ミストの、複雑で、悪意に満ちた、精神攻撃を、完全に、無効化していた。

彼の攻撃は、受け止める、的が、ないのだ。

暖簾に腕押し。

沼に石を投げるが如く、ただ、俺の、無意識の海に、吸い込まれ、消えていくだけだった。


「ば、馬鹿な……! ありえない! なぜ、効かない! どんな、トラウマも、どんな、絶望も、貴様の、心には、響かないというのか! 貴様の、心は、何で、できているのだ! 鉄か!? いや、それ以上に、硬い、何か……!?」


ミストは、もはや、半狂乱だった。

彼は、自分の、存在意義そのものである、精神攻撃が、全く、通用しないという、信じがたい現実に、直面していた。

彼は、自分の、持てる、全ての魔力を、振り絞り、最後の大技を、放った。


それは、対象の、存在そのものを、否定し、魂ごと、消滅させるという、究極の、精神破壊魔法。

『虚無への回帰リターン・トゥ・ナッシング』。


その、恐るべき、魔法が、俺の、眠れる、精神へと、叩きつけられる。


だが。

俺の、無意識の海は、その、究極の、破壊魔法すら、ただ、静かに、受け入れた。

「虚無」になること。

それは、今の、俺が、心の底から、望んでいる、「平穏」と、ほとんど、同義だったからだ。


ミストの、攻撃は、またしても、意味をなさなかった。

それどころか。

彼の、渾身の、一撃は、俺という、あまりにも、完璧な、鏡に、そのまま、跳ね返された。


「ぐ……あああああああああああああああっ!?」


ミストの、絶叫が、ドームに、響き渡った。

彼は、自分が放った、究極の、精神破壊魔法を、自分自身で、受けてしまったのだ。

彼の、精神が、彼の、魂が、内側から、崩壊していく。


「こ、これが……。これが、サイレントキラーの、精神世界……。何もない……。絶望も、恐怖も、喜びも、悲しみも……。何一つ、存在しない、完全なる、『無』……。そして、その、底知れない、静寂……。こ、こいつは……。こいつは、人間じゃない……。神だ……。いや、それ以上に、恐ろしい、何か……。世界の、始まりと、終わりを、司る、概念そのもの……」


ミストは、最後に、俺の顔を見た。

フードの奥で、すーすーと、穏やかな寝息を立てて、ただ、気持ちよさそうに、眠っている、俺の顔を。

その、あまりにも、平然とした、穏やかな表情が、彼の、砕け散った、心に、とどめを刺した。


「……あ……あ……」


ミストは、短い、悲鳴を上げると、その、幽霊のような体が、霧のように、掻き消えた。

彼は、自らの、術に、敗れ、精神の、迷宮の、その、さらに奥深くへと、永久に、逃げ去ったのだった。



やがて、主を失った、幻惑の霧が、晴れていく。

アレクサンダーたちが、悪夢から、解放され、ハッと、我に返った。


「……今のは……。一体……」


彼らが見たのは、祭壇の前に、静かに、たたずむ、俺の姿だった。

そして、その足元には、ぼんやりと、青白い光を放つ、アーティファクトの『欠片』が、転がっていた。

ミストの姿は、どこにも、なかった。


レオナルドが、震える声で、言った。

「……終わった、のですね。我々が、悪夢に、囚われている間に……。サイレントキラー様は、ただ、一人で、ミストの、その、おぞましい、精神攻撃を、受け止め、そして、彼の、魂ごと、消滅させた……」


アレクサンダーが、俺の、その、あまりにも、穏やかな、佇まいを見て、息を呑んだ。

「……微動だに、していない。あれほどの、精神の、死闘を、繰り広げたというのに、その御身には、一点の、乱れもない……。これが、神の、戦い……」


セラフィーナは、ただ、涙を流しながら、俺の前に、ひざまずいた。

「ああ、サイレントキラー様……。貴方様は、またしても、我々を、お救いくださった……」


その時だった。

俺は、ゆっくりと、目を覚ました。

風邪のせいか、まだ、頭は、ぼーっとする。

だが、ぐっすりと、眠ったおかげで、気分は、少しだけ、良くなっていた。


俺は、目の前に、ひざまずく、仲間たちを見て、不思議そうに、首を傾げた。

そして、いつものように、力なく、呟いた。


「…………うす」


その、寝起きの、掠れた一言が、仲間たちには、「戦いは、終わった。さあ、次へ、行くぞ」という、あまりにも、頼もしい、神の凱歌として、聞こえたのだった。

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