神の風邪と浄化の息吹
俺が、ただ、銀紙を追いかけて、盛大に転んだだけの一件。
それが、魔王軍幹部『疾風のシルフィード』の、不可視の奇襲を、完璧に防ぎきった『神の戦術』として、仲間たちの脳内に、深く、深く、刻み込まれてしまった。
その日以降、俺、相川静を取り巻く空気は、さらに、異様なものへと変わっていった。
馬車の中での、仲間たちの俺に対する態度は、もはや、畏敬や、尊敬といった、言葉で表せるものではなくなっていた。
勇者アレクサンダーは、俺が、水を飲むために、カップを口に運ぶ、その一連の動作を、食い入るように見つめている。そして、「なんと、流れるような、無駄のない動きだ。あれこそが、全ての武術の、基本にして、極意……」などと、一人で、納得している。
聖女セラフィーナは、俺が、すりむいた膝の、かさぶたを、気にして、ポリポリと掻いているのを見て、「ああ、ご自身の傷跡にすら、世界の痛みを、重ねておられるのですね……」と、涙ぐむ。
賢者レオナルドに至っては、俺が、ただ、ぼーっと、窓の外を眺めているだけで、「……彼の視線は、地平線の、その先を見ておられる。我々には、見ることのできない、因果の地平を……」と、手にしたペンを、震わせている始末だ。
(もう、やめてくれ……。俺の、一挙手一投足を、勝手に、神聖化しないでくれ……)
俺は、もはや、彼らの視線から逃れるために、馬車の中では、眠っているフリをするしか、自己防衛の手段が、残されていなかった。
そんな、針の筵のような旅が、さらに、二日ほど、続いた。
俺たちが、目指す、古代遺跡ザルツブルグは、もう、目前に迫っていた。
旅路は、あの、シルフィードの奇襲以降、嘘のように、静かだった。魔物の気配も、盗賊の気配も、全くない。
だが、俺の身には、別の、そして、もっと、現実的な、脅威が、迫っていた。
(……なんか、寒い)
季節は、秋に移り変わろうとしている。朝晩の、冷え込みが、少しずつ、厳しくなってきた。
日本にいた頃の、機能的な、アウトドア用のパーカーとは違い、こちらの世界の、ローブというものは、どうにも、通気性が、良すぎる。
加えて、連日の、極度のストレスと、栄養の偏り。
俺の、現代日本で、ぬくぬくと育った、ひ弱な体は、着実に、悲鳴を上げ始めていた。
(……喉が、痛い。頭も、少し、ぼーっとする……)
間違いない。
これは、風邪の、初期症状だ。
俺は、絶望的な気分になった。
異世界に来て、神様だと勘違いされ、魔王軍の幹部と、戦わされ、挙句の果てに、風邪をひく。
なんて、情けない、勇者(?)だろうか。
俺は、体調の悪さを、誰にも、悟られまいと、必死になった。
ここで、俺が、ただの風邪をひいた、などということが、バレてみろ。
仲間たちの、俺に対する、幻想が、崩れ去ってしまう。
いや、待て。
それは、むしろ、好都合なのでは?
俺が、神でも、英雄でもなく、ただの、ひ弱な、人間だと、分かってもらえれば、この、息の詰まるような、役割から、解放されるかもしれない。
(……よし。いっそ、盛大に、体調不良を、アピールしてみるか……?)
そんな、淡い期待を、俺が抱き始めた、その時だった。
馬車が、ゆっくりと、速度を落とし、やがて、完全に、停止した。
「……着きましたわ。あれが、古代遺跡ザルツブルグです」
セラフィーナの、静かな声が、響く。
俺は、窓の外を見た。
そして、息を呑んだ。
目の前に、広がっていたのは、巨大な、巨大な、廃墟だった。
天を衝くように、そびえ立っていたであろう、いくつもの塔は、無残に折れ、崩れかけた壁が、迷路のように、どこまでも、続いている。建物全体が、不気味な、蔦や、苔に覆われ、長い、長い、年月の重みを、物語っていた。
そして、何より、その遺跡全体から、淀んだ、重い、空気が、漂ってくる。
それは、死の匂い。
腐敗の匂い。
長い間、打ち捨てられ、忘れ去られた場所だけが、持つ、独特の、負のオーラだった。
「……ひどい、邪気ですね」
レオナルドが、顔をしかめる。
「この遺跡は、完全に、死の魔力に、汚染されている。おそらく、内部には、アンデッド系の魔物が、無数に、巣くっているでしょう」
アレクサンダーが、聖剣の柄を、握りしめた。
「なるほど。ここに、アーティファクトの『欠片』が、眠っているというわけか。これほどの、邪気に守られているのなら、それも、頷ける」
三人が、これから始まる、戦いに向けて、気を引き締めている。
その、緊張感に満ちた空気の中で、俺の体は、限界を迎えていた。
寒気が、背筋を、駆け上る。
そして、鼻の奥が、むずむずと、どうしようもなく、痒くなった。
(やばい……。出る……!)
俺は、必死に、こらえようとした。
だが、生理現象というものは、時として、人間の、ちっぽけな、意志など、軽々と、超越する。
俺の口から、盛大な、くしゃみが、飛び出した。
「へ……ッ、ハックションッ!!」
その、あまりにも、人間的で、情けない音が、静まり返った、馬車の中に、響き渡った。
しまった、と思った時には、もう、遅かった。
三人の視線が、一斉に、俺に、突き刺さる。
俺は、終わった、と思った。
神の、威厳、失墜。
これで、俺が、ただの人間だと、バレてしまう。
だが。
仲間たちの反応は、俺の、想像の、遥か、斜め上を行っていた。
アレクサンダーが、目を見開いた。
セラフィーナが、口元に、手を当てた。
そして、レオナルドが、震える声で、言った。
「……今のは……。今のは、ただの、くしゃみでは、ない……」
(え?)
レオナルドは、信じられないものを見る目で、遺跡の方角を、見つめた。
「……空気が……。空気が、変わった……。この、遺跡全体を、覆っていた、淀んだ、死の邪気が……。今、彼の一息で、一瞬にして、浄化されていく……!」
(はあ!?)
俺が、呆然としていると、アレクサンダーが、恍惚とした表情で、続けた。
「おお……! これが、聖なる、息吹……! 『浄化のブレス』か! 貴方様は、戦いが、始まる前に、まず、この、戦場そのものを、清められたというのか!」
セラフィーナが、涙ぐみながら、祈るように、呟いた。
「ああ、なんという、御慈悲……。我々が、邪気に、体を蝕まれぬよう、その御身に、一度、邪気を吸い込み、そして、聖なる息吹として、吐き出されたのですね……。その、お体への、ご負担は、いかほどか……」
俺の、ただの、風邪の、くしゃみ。
それが、仲間たちの脳内で、邪気を払う、神の、広範囲浄化魔法として、完璧に、誤解されてしまったのだ。
俺は、もう、何も、言えなかった。
ただ、ずび、と、鼻をすすった。
その、ごく自然な、鼻をすする音すら、彼らには、「浄化の儀式を終え、静かに、精神を、統一しておられる、神の所作」として、神々しく、映っていたのだった。
俺たちは、馬車を降りた。
そして、完全に、浄化された(ことになっている)、古代遺跡ザルツブルグの、入り口に、立った。
俺は、これから始まる、新たな、地獄の探索と、悪化していくであろう、風邪の症状に、ただ、静かに、絶望するしか、なかった。
本作は楽しんでいただけましたか?
もしよければリアクション、⭐️などいただけると励みになります。
Xでのご紹介なども嬉しいです♪




