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神の戦術と疾風の誤算

風が、止んだ。

俺が盛大に転んだことで巻き上がった土埃が、ゆっくりと、しかし確実に、晴れていく。

後に残されたのは、鋭利な刃物で切り裂かれたかのような、地面の無数の傷跡。

そして、その中心で、ひざ小僧をすりむいて、あまりの痛みに涙目になっている、俺、相川静の姿だった。


「……サイレントキラー様!」


仲間たちが、息を呑んで、俺の元へと駆け寄ってくる。

その目は、もはや、俺という人間を見ているものではなかった。それは、天変地異や、世界の理そのものを、目の当たりにした者の、畏敬と、そして、わずかな恐怖が入り混じった、複雑な色をしていた。


「お、お怪我は……! いえ、このような愚問、お許しください。貴方様が、傷を負うなど、ありえないことでした」

聖女セラフィーナが、慌てて言葉を訂正し、俺のすりむいた膝に、治癒の光をかざそうとする。


(怪我、してます! 普通に、痛いです! 血、出てます!)


俺は、その痛みに、本気で、涙がこぼれ落ちそうだった。

だが、その俺の、涙ぐんだ瞳が、仲間たちには、全く違うものとして、映っていた。


「……なんと。あれほどの、死線を、乗り越えられたというのに、その瞳は、怒りでも、喜びでもなく、ただ、深い、深い、慈悲に満ちておられる……」

勇者アレクサンダーが、震える声で、呟いた。

「貴方様は、敵ですら、その命を奪うことを、お望みにはならないのですね。ただ、その力を、無に帰し、警告を与えるに、留められた……。その、あまりにも、大きすぎる器に、俺は、言葉もありません」


(違う! 敵の心配なんて、一ミリもしてない! ただ、膝が痛くて、泣きそうなだけだって!)


賢者レオナルドは、地面に残された、無数の斬撃の跡を、食い入るように見つめていた。

「……風の刃。これほどの、密度と、速度……。間違いありません。魔王軍幹部が一人、『疾風のシルフィード』。風を自在に操り、姿を見せることなく、敵を切り刻むという、恐るべき暗殺者。彼女が、我々を、試していたのです」


レオナルドは、そこで、言葉を切ると、ハッとしたように、俺を見つめた。

「……そうか。だから、貴方様は、あの、戦術を……」


彼は、俺が起こした、一連の行動を、彼の、明晰すぎる頭脳で、完璧に、そして、壮大に、勘違いして、再構築し始めた。


「シルフィードの攻撃は、不可視。我々では、目で追うことすら、できなかったでしょう。だから、貴方様は、まず、あの、軽い銀紙を、風に放ち、風の『流れ』そのものを、その神の目で、完璧に、読み解かれた」


(だから、偶然だって、それは!)


「そして、敵の攻撃が、我々に到達する、その、コンマ以下の、刹那。貴方様は、あえて、自らの身を、地面に投じられた。それは、ただ、転んだのではない。地面を滑ることで、最大の、摩擦係数を生み出し、最も、効率的に、大量の土埃を、巻き上げるための、完璧な、物理法則に基づいた、体術!」


(物理法則とか、知らない! ただ、足がもつれただけだって!)


「その、土埃の壁が、我々を守る、絶対的な、盾となった。そして、同時に、敵の視界を奪い、こちらの位置を、完全に、くらませた。攻撃と、防御と、そして、幻惑。その三つを、ただ、転ぶという、一つの動作で、同時に、成し遂げられた……。もはや、これは、戦術などではない。芸術です。神のみが、描き出すことのできる、戦場のアートなのです!」


レオナルドの、あまりにも、熱のこもった、そして、完璧に間違っている、解説。

それを聞いた、アレクサンダーとセラフィーナは、もはや、反論することもなく、ただ、深く、深く、頷いていた。


俺は、すりむいた膝の痛さと、仲間たちの、あまりにも、壮大すぎる勘違いに、もう、何もかもが、どうでもよくなっていた。

俺は、ただ、セラフィーナの治癒の光に、膝を差し出しながら、力なく、いつものように、呟いた。


「…………うす」


その一言が、仲間たちには、「その通りだ。我が戦術に、一点の曇りもない」という、絶対的な、自信の表明として、聞こえたのだった。



その頃。

俺たちがいた大平原から、数キロ離れた、丘の上。

一人の、美しい女性が、息を荒くしながら、その場に、膝をついていた。


彼女こそ、魔王軍幹部が一人、『疾風のシルフィード』。

風のように、しなやかな体つき。銀色の、長い髪。そして、その瞳には、絶対的な自信と、冷酷な光が、宿っているはずだった。


だが、今、その瞳に浮かんでいるのは、信じられないものを見た、という、純粋な、驚愕と、そして、わずかな、恐怖の色だった。


(……ありえない。私の、『真空のヴァキューム・ブレード』が、全て、防がれた……? それも、あんな、子供の、砂遊びのような方法で……?)


彼女は、プライドが高かった。

そして、自分の、風を操る能力に、絶対的な、自信を持っていた。

彼女の放つ、風の刃は、不可視であり、音もなく、鋼鉄の鎧すら、紙のように、切り裂く。

これまで、彼女の、この攻撃から、逃れられた者は、一人も、いなかった。


彼女は、今回、勇者一行を、少し、試してやるつもりだった。

あの、ゴライアスが、赤子のように、ひねられたという、『サイレントキラー』。その力が、どれほどのものか、遠くから、値踏みしてやろうと、思っていたのだ。


だが、結果は、どうだ。

彼女が、全力で放った、数百の風の刃。

そのすべてが、男が、ただ、転んだだけで、巻き起こした、土埃の壁に、いとも、たやすく、防がれてしまった。


いや、違う。

防がれた、だけではない。


(……あの、土埃……。ただの、目くらましではない。あの、一粒一粒に、回転する、微細な、魔力が、込められていた。私の、風の刃の、エネルギーを、受け流し、拡散させ、無力化するための、完璧な、対魔力障壁……!)


シルフィードの目には、そう、見えていた。

あの、土埃の壁は、彼女にとって、この世で、最も、精緻で、そして、恐ろしい、防御結界だったのだ。


(……そして、あの、銀紙……。あれで、私の、風の動きを、完全に、読んでいた。私が、どこから、どの角度で、攻撃するのか、すべて、お見通しだったというわけね……)


シルフィードは、ごくりと、唾を飲み込んだ。

そして、恐怖に、身を震わせた。


(……化け物だわ。あの男は、人間じゃない。私の、風を、完全に、支配下に置いている。あれは、もはや、暗殺者などではない。風の、神……。あるいは、それ以上の、何か……)


彼女は、プライドの高い、女だった。

だが、同時に、自分の、実力を、正確に、把握している、賢い、女でもあった。

自分では、絶対に、勝てない相手。

それを、彼女は、瞬時に、理解した。


(……報告、しなければ。魔王様に、直接、報告しなければ。我々が、戦っている相手が、どれほど、規格外の、存在であるかを……)


シルフィ-ドは、立ち上がると、一度だけ、俺たちがいる方向を、振り返った。

そして、風のように、その場から、姿を、消した。

彼女は、二度と、この男に、近づくまいと、心に、固く、誓ったのだった。


俺が、ただ、ゴミを追いかけて、転んで、膝をすりむいて、泣きそうになっていただけだとは、彼女は、知る由もなかった。

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