聖女の母性と賢者の分析
勇者アレクサンダーに固く握られた手は、やけに熱かった。彼の碧眼は、まるで救世主を見るかのようにキラキラと輝いている。その純粋すぎる期待が、俺の胃をキリキリと締め付けた。
(いや、だから違うんだって! 誰なんだよサイレントキラーって! 俺はただの相川静! 特技はリモート講義のミュートし忘れ! 趣味は深夜アニメの一気見! そんな俺が勇者パーティー!? 無理ゲーにもほどがあるだろ! 断れ! 断るんだ、俺!)
脳内では、緊急事態を告げるサイレンが鳴り響いている。今すぐ、この誤解を解かなければ。この手を振り払い、「人違いです」と、そう告げなければならない。だが、俺の体は、主人の悲痛な叫びを完全に無視した。アレクサンダーのあまりのカリスマ性と圧に気圧され、俺の口から漏れ出たのは、またしてもあの絶望的な一言だけだった。
「…………うす」
(なんで肯定しちゃうんだよ俺の口はァァァァッ!)
もはや、この口は俺の意志とは関係なく、パブロフの犬のように条件反射で肯定の音を紡ぐだけの器官と成り果てたらしい。俺の内心の絶望など露知らず、アレクサンダーは「おお!」と再び感動の声を上げると、俺の手を引いて歩き出した。
「さあ、我が仲間たちが待つ宿へ! 彼らも、貴殿の加入を心から喜ぶだろう!」
引きずられるようにして、俺は街のメインストリートを歩くことになった。フードを目深にかぶり、猫背気味に俯いて歩く俺と、胸を張って堂々と進む勇者アレクサンダー。その対照的な姿は、道行く人々の注目を嫌でも集めた。
「あれは勇者アレクサンダー様では?」
「隣にいる、あのフードの人物は一体……?」
「なんという異様な佇まい。ただ者ではなさそうだ……」
(ただ者じゃありません、コミュ障です! 視線が痛い! 胃も痛い! 帰りたい! アパートの自室に帰って布団にくるまりたい!)
人々の視線という名の槍衾に晒されながら、俺はただただ、この地獄の時間が過ぎ去るのを祈るしかなかった。
やがて、アレクサンダーは一軒の大きな宿屋の前で足を止めた。「光亭」と名付けられたその宿は、いかにも冒険者たちが集いそうな、活気とアルコールの匂いに満ちていた。
「ここが我々の拠点だ。さあ、中へ」
アレクサンダーに促され、俺は意を決して宿屋に足を踏み入れた。その瞬間、一階の酒場にいた冒険者たちの視線が一斉に俺に集中する。その全員が、俺の得体のしれない風貌と、俺を連れてきたのが高名な勇者であるという事実に、息を呑んだのが分かった。
(うわ、アウェイ感半端ない……。もう無理、石になりたい。いっそメデューサに会いたい)
俺が入り口で固まっていると、アレクサンダーが奥のテーブルにいる二人の人物に声をかけた。
「セラ! レオ! とんでもない朗報だ! 我々のパーティーに、新たな仲間が加わってくれることになったぞ!」
その声に、二人の人物が立ち上がった。
一人は、柔らかな亜麻色の髪を持つ、慈愛に満ちた笑みを浮かべた女性だった。純白の神官服に身を包み、その存在だけで周囲の空気を浄化するような、清らかな雰囲気を持っている。彼女が、聖女セラフィーナだろう。
もう一人は、眼鏡をかけた知的な印象の青年だ。落ち着いたローブをまとい、その瞳の奥には、すべてを見透かすような深い叡智が宿っている。彼が、賢者レオナルドに違いない。
(うわあ……。本物の聖女と賢者だ……。俺みたいな日陰者が関わっていい人種じゃない……)
あまりの格の違いに、俺はさらに縮こまる。アレクサンダーは、そんな俺の肩をポンと叩き、誇らしげに二人へ紹介した。
「紹介しよう! この方こそ、古より語り継がれる伝説の暗殺者、『サイレントキラー』その人だ!」
「「――ッ!?」」
聖女セラフィーナと賢者レオナルドが、同時に息を呑んだ。二人の視線が、驚愕と畏怖、そして強烈な好奇心の色を帯びて、俺のフードの奥へと突き刺さる。
「ま、まさか……あの、影すら残さず標的を葬るという……?」
「文献の中にしか存在しないはずの伝説が、今、目の前に……?」
(だから違いますって! なんで話がどんどん大きくなるの!? 誰か助けて! ツッコミが追いつかない!)
俺が内心でパニックを起こしていると、聖女セラフィーナが、そっと一歩前に出た。彼女は、俺の挙動不審な様子を、何か別のものとして解釈したようだった。その瞳には、深い同情と、庇護欲のようなものが浮かんでいた。
「……アレク。見てください、彼のこの姿を。きっと、これまで数えきれないほどの修羅場を潜り抜け、その心に深い傷を負っていらっしゃるのですわ。私たちが、彼の心を癒して差し上げなければ……」
(心の傷!? いや、まあコミュ障っていうのはある意味、社会生活における重傷かもしれないけど、そういうんじゃない! 断じてそういうんじゃないから!)
セラフィーナは、母性愛に満ちた優しい眼差しで俺を見つめると、ふわりと微笑んだ。
「はじめまして、サイレントキラー様。私はセラフィーナと申します。どうぞ、これからは私たちを家族だと思って、お心を安らげてくださいね」
そのあまりの慈愛に、俺は気圧されて後ずさりしそうになる。何か言わなければ。せめて、会釈だけでも。そう思って頭を下げようとしたが、緊張で体がガチガチに固まり、結果として、カクン、と首だけが不自然に揺れる奇妙な動きになってしまった。
それを見たセラフィーナは、きゅっと胸を押さえた。
「まあ……! 警戒していらっしゃるのね……。無理もありませんわ。暗殺者というお仕事は、常に誰かを疑い、心を閉ざさなければ生きていけなかったはず……。大丈夫です、私たちは貴方を傷つけたりしませんから」
(違う! 緊張で体がバグってるだけなんです! 家族とか言われても、俺、お母さんとすら三日以上会話が続かないレベルのコミュ障なんですけど!?)
俺の心の叫びは、もちろん届かない。勘違いは、すでに列車のように走り出していた。そして、その列車をさらに加速させる人物が、もう一人いた。
「ふむ……」
それまで黙って俺を観察していた賢者レオナルドが、眼鏡のブリッジをくい、と押し上げた。彼の瞳は、まるで珍しい虫でも分析するかのように、俺の頭のてっぺんからスニーカーの先までを舐めるように見ている。
「なるほど。これが伝説の暗殺者……。興味深い。実に興味深い」
レオナルドは、すっと手をかざした。すると、彼の目の前に、分厚い革張りの書物が何もない空間から出現した。あれが、彼のスキル『全知の書』か。
「我が『全知の書』にも、『サイレントキラー』に関する記述は数行のみ。『影を殺し、音を盗む者。その姿を見た者は、次の瞬間には命を失っている』……。これだけだ。だが、目の前の貴殿からは、一切の殺気が感じられない。これは、達人の域に達した者が至るという『無の境地』。殺気を完全に内包し、自然と一体化している状態と見て間違いないだろう」
(殺気ゼロなんじゃなくて、戦闘能力がゼロなだけです! 俺のステータス、攻撃力より防御力より、多分『帰りたい』ってパラメータが一番高いですよ!)
レオナルドの分析は止まらない。彼は俺が着ているパーカーやジーンズに目を細めた。
「そして、その異様な意匠の衣服……。見たこともない素材と製法だ。おそらくは、特定の組織や国家に属さぬよう、正体を隠すための特殊な偽装。あるいは、彼の出身である東方の秘境でのみ作られる、特殊な効果を持つ『魔導衣』の一種か……!」
(これ、近所の量販店で三千円だったやつです! 特殊効果は、部屋着として最高にリラックスできることくらいです!)
勘違いが、明後日の方向にフルスロットルで突き進んでいく。もう、誰にも止められない。
そんな地獄のような自己紹介(?)の後、俺たちは宿屋の一室に用意されたテーブルに着いた。俺の正面にはアレクサンダー、右にセラフィーナ、左にレオナルド。完璧な包囲網だ。逃げ場はない。
(気まずい……。気まずすぎる……。誰か喋ってくれ……。いや、俺に振らないでくれ……。どうすりゃいいんだこの状況……)
沈黙に耐えきれず、俺は無意識のうちに、ポケットに入れていたコンビニ袋をガサガサと弄り始めた。何か手持ち無沙汰を解消するものが欲しかった。そして、中から取り出したのは、一枚の板チョコレートだった。
その瞬間、三人の視線が、俺の手に持つ銀紙の塊に突き刺さった。
(あ、やばい。なんか変なもの出しちゃった空気……? いやでも、腹減ったし……。でも、この状況で一人だけ食うのも……)
逡巡の末、俺は、一番優しそうなセラフィーナの方へ、そのチョコレートを無言で差し出した。何か、友好の証を示さなければ。そんな必死の思いからだった。
俺の行動に、セラフィーナは一瞬、目を丸くした。だが、すぐにそれが、俺なりのコミュニケーションなのだと解釈したらしい。彼女は、花が綻ぶような笑みを浮かべた。
「まあ……! 私に、これを? ありがとうございます、サイレントキラー様。……これが、貴方が心を開いてくださった、第一歩なのですね」
彼女はそう言うと、銀紙を丁寧に剥がし、パキリと一片を割って、恐る恐る口に運んだ。
次の瞬間、セラフィーナの碧眼が、カッと見開かれた。
「こ、これは……ッ!?」
彼女の体から、淡い光が溢れ出す。それは、彼女の聖なる力が活性化した証だった。
「なんという……! 一口食べただけで、体中から魔力が、いえ、聖なる力が湧き上がってくるようですわ! こんな霊薬、見たことも聞いたこともありません!」
(霊薬!? ただのチョコレートですけど!? カカオと砂糖の塊ですけど!? いや、確かに疲れた時の糖分は効くけど、そんなファンタジーみたいな効果はないはず!)
アレクサンダーが、身を乗り出して叫んだ。
「なんと! セラ、それは本当か!?」
「はい! 間違いありません! これは、ただの食料などではない……。一口で活力が漲る、神秘の霊薬です!」
その言葉に、今度はレオナルドの目がキラリと光った。
「神秘の霊薬……! まさか、エルフの秘境に数百年ぶりに実るという『生命の果実』を濃縮したものか? いや、ドワーフの王国でしか精製できない『大地の精髄』か? セラフィーナ、一口、分析のためにこちらへ!」
レオナルドは『全知の書』を高速でめくりながら、セラフィーナからチョコのかけらを受け取ると、ペロリと舐めた。そして、彼は眼鏡の奥の瞳を、驚愕に見開いた。
「……馬鹿な。我が『全知の書』に、該当する物質が一切記録されていない……! 成分を分析しようにも、構造が複雑すぎて解析不能だと!? この世の理から外れた物質……。サイレントキラー、貴殿は一体、これをどこで……!」
三対の、尊敬と畏怖と興奮に満ちた視線が、再び俺に突き刺さる。
(だから、駅前のコンビニだって言ってるだろ心の中で! 120円だよ! みんな大好き国民的チョコレートだよ!)
俺は、もう何も言えなかった。ただ、彼らの壮大すぎる勘違いの奔流に飲み込まれながら、かろうじて、いつもの一言を絞り出すことしかできなかった。
「…………うす」
その返事を聞いたレオナルドは、一人、深く頷いた。
「『産地は秘匿』……か。なるほどな。これほどの霊薬だ、悪用されぬよう、軽々しく口にはできないというわけか。さすがは伝説の暗殺者。用意周到、抜かりがない」
こうして、俺が日本から持ってきたごく普通の板チョコは、勇者パーティーの面々によって、伝説級の秘薬だと認定されてしまった。
(もうだめだ、おしまいだ……)
俺の平穏な(?)異世界ニート生活への道は、開始早々、完全に断たれたようだった。