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第96話『夜明け』


昼の光が差し込む廊奥。

崩れ落ちた石壁の隙間からは、まだ細い砂煙が絶え間なく立ちのぼっている。

焦げた匂いと、湿った石の粉が鼻腔を刺した。


「くそっ……石が重ぇ……! 誰か、こっちを押してくれ」

「やめとけ。お前、怪我してんだろ。傷口が開くから休んでろ」

「じっとしてると……頭がおかしくなりそうなんだよ」


呻きながら瓦礫を持ち上げようとする兵士に、もう一人が肩を貸す。

瓦礫の下から覗いたのは、かつて壁を彩っていた大きな絵画。

鮮やかな色彩は裂け、泥に塗れて無惨にちぎれ落ちていた。


「……昨日の騒ぎは、トラウマになるやつも多いだろうな。仲間同士で斬り合うなんて悪夢だ……」

「それが一夜明けりゃ、この静けさってのもな。洗脳だか何だか知らねぇが……やってらんねぇよ」


瓦礫を抱え、兵士たちは息を荒げながらぼやきを漏らす。

転がる破片の中には、砕けた石柱の断片、精緻に刻まれていたはずの彫刻の腕までもが混じっていた。


「……ここも、こんな瓦礫の山になっちまうとはな。吹き飛ぶ前の景色を、ひと目でいいから見てみたかったぜ」


かつて、選ばれし者しか足を踏み入れることを許されなかった聖域。

いまや瓦礫と塵に埋もれ、その姿をほとんど残さない。


星晶の間――その名だけが、静かに残っていた。



悪夢のような反乱の夜の――翌日。

洗脳に縛られていた兵たちも正気を取り戻し、戦場と化した王宮の喧騒は嘘のように消えていた。

それでもなお、負傷者の介抱や崩落の片づけで、内部は慌ただしく揺れている。


「アイゼン卿。報告です」


駆け寄った兵士が書簡を差し出す。

受け取ったアイゼンの横顔には疲労の影が刻まれていたが、その眼差しはなお確かな意志を宿していた。

書簡に目を通し、兵を下がらせたところへ、不意に声がかかる。


「身体の方は、問題ないのか?」


振り返れば、そこにリュカが立っていた。


「問題ない。治癒魔法も施された」


短く答え、肩をわずかに回してみせる。

魔法で傷を癒したとて、昨夜、あれほどの出血をした人間が今こうして立っている――それは常人には到底あり得ぬ回復力だった。


「……お前が指揮を取ってくれたそうだな。助かった」

「気にするな」


リュカはそっけなく言い捨てる。

その腰に佩かれた剣が、ふと昼光を反射した。


金獅子の紋章。

柄の造りや鍔の意匠は、アイゼンの持つ現行の剣とわずかに異なっている。

二百年前の金獅子団が用いた古剣――歴史の重みを刻むように、静かに存在を主張していた。


アイゼンの視線が自然と吸い寄せられる。

だがリュカは気づかぬ様子で、瓦礫を運ぶ兵たちをただ見やっていた。


「王宮の中を歩いて回ったが……思ったより変わっていない。時の流れを忘れるくらいに」


淡々と告げられる言葉。

けれどその声音には、安堵の色がわずかに滲んでいた。


「景色だけじゃない。騎士団の志の高さも、昔と変わらず息づいている。……きっとすぐ立て直せる」


アイゼンは少し息をのむ。


「……陛下から、話は聞いたのか」


アイゼンの問いに、リュカは短く「ああ」と答える。

その「話」とは、決して簡単に受け止められるようなものではない事実のはずだ。


それでも彼の表情は、不思議なほど穏やかだった。


なぜそこまで静かでいられるのか――。

そう問いかけたげなアイゼンの内心を、リュカは察したように口を開く。


「この国に忠誠を誓った身だ。……最初からすべてを知っていたとしても、結果は変わらなかっただろう」


ふと視線を落とし、苦く笑う。


「その時は、騎士団にしか……俺の居場所がなかったからな」


その言葉に、アイゼンも胸の奥で頷く。

自らもまた、同じ気持ちを知っている気がしたからだ。


「だから、俺の事はいいんだ。……だが――」


リュカは続けかけて、そこで言葉を切った。

遠くを見たまま、沈黙に沈む。


その横顔を見つめながら、アイゼンが問う。


「……カガリ嬢の様子は」


思い描いていた人物の名を出され、リュカの肩がわずかに動いた。


「――リュカさん!」


アイゼンの問いに答えようとした刹那、遠くから名を呼ぶ声が響いた。

駆けてくるのはユエルだった。


「ユエル? どうした」


肩を荒く上下させながら、彼は切迫した声を上げる。


「大変なんです……! 一緒に来てください!」



◇  ◇  ◇



王宮内、来客用の寝室。

厚手のカーテン越しに昼光が揺れ、床には影が濃く落ちていた。

その中心――大きなベッドの前で、怒声が鋭くぶつかりあっていた。


アストレアの背が、壁に叩きつけられた。

その胸ぐらを荒々しくつかみ上げているのは、セラフィだった。

普段の穏やかな面影はどこにもなく、瞳には烈火のような激情が燃え盛っている。


アストレアは抵抗を見せず、ただ真っ直ぐにその視線を受け止めていた。


「おい! やめろって!」


二人の間に割って入り、必死に両腕を広げて制止するのはカイロス。

押し返すようにしても、セラフィの手は震えるほどの力で衣をつかみ続ける。


「女王陛下だぞ……! 正気か、セラフィ!」


必死の声も届かない。セラフィの唇が震え、言葉が吐き出される。


「もう一度言ってみろ……あの子に何を背負わせるつもりだった」


問い詰められても、アストレアは沈黙したまま。


「あの子に手を出してみろ……この国ごと消し飛ばしてやる」

「セラフィ!!」


国の王に対して放たれた言葉は、あまりに過激だった。


「セラフィ! 何をやってる!」


そのとき、ユエルに案内されて駆けつけたリュカが、鋭い声を張り上げた。

掴み合う二人の姿を見て即座に駆け寄り、セラフィの肩を強く押さえる。


「落ち着け!」

「これが落ち着いていられるか! 穏やかでいられる君が理解できない!」


怒りの火花が散る。リュカは険しい声で応じる。


「陛下に怒りをぶつけても何も解決しない。昨日の今日だ、軽率な言葉は控えろ」


だがセラフィはリュカの腕を振り払い、睨みつける。


「リュカは俺と同じ心境だと思ってたけど……忘れてたよ、君が王宮騎士だったってことを」

「セラフィ……」

「俺の主はカガリだが、君は違うんだ」

「なんだと……っ」

「待て! リュカまでやめてくれ!」


リュカの瞳に怒りが揺らめく。

カイロスが慌てて二人の間に身を投げ出す。


「混乱してるのはみんな同じだ。頭を冷やせ!」

「俺は冷静だ!」

「なら少し離れろ! 今の目は、いつでも殴り合える目だぞ!」


セラフィは鼻を鳴らし、吐き捨てる。


「リュカに殴れやしないさ。大事な人がこんな目に遭っても、呑気に王の肩を持つお人よしだ」

「……今、なんて言った?」

「やめろ! 二人とも!!」


カイロスが声を張り上げる。

ユエルは震えるようにその場に立ち尽くし、ただ不安げに三人を見ていた。


「放っておいてくれないか! カイロス、君には関係ないだろ」


セラフィの吐き捨てた言葉に、カイロスの表情が鋭く変わる。


「関係ない……だと? 俺はお前に家族を殺されてんだぞ」


その言葉が落ちた瞬間、室内の空気がひんやりと凍りついた。

誰かが息を吸う音さえ、遠くに消えていくようだった。


セラフィの手が、わずかに震える。

リュカも無意識に身を引く。

言葉の重さが、場内の熱を一気に吸い取っていった。


「この件で……二百年苦しんだのは、お前たちだけじゃない。俺だって、一緒なんだよ」


声を荒げるのではなく、絞り出すような言葉。

その重みが、セラフィの怒気を鈍らせていくのが見て取れた。次第に、怒りは痛みに変わっていく。


「カガリが目を覚ましたときに……俺らが殴り合ってる光景を見せたいのか。頼む、落ち着け」


カイロスの声は静かだ。だが、そこに込められた説得は刃のように鋭かった。


短い、重い沈黙。


セラフィはやがて拳をゆるめ、ふっと息を吐いた。

視線が自然とベッドへ向く。


その寝台では、カガリが静かに眠り続けていた。セラフィにとって、――この場にいる彼らにとって、何より大切な存在が。


セラフィは顔を伏せ、しばし床を睨んでいたが――やがて足を動かす。

ベッドのそばに膝をつき、眠る少女の手を取り、額に押し当てる。手は、かすかに震えていた。


「……カガリ嬢が目を覚ましたら、また来る」


乱れた襟元を正し、アストレアが歩き出す。

扉へ向かう足取りは静かだが、その背中には影のような重さが漂っていた。

去り際、一度だけ振り返る。ベッドの脇で主の手を握るセラフィを見やり、言葉を残さぬまま部屋を後にした。



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