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第91話『違和感』


「こっち!」


レヴィの声に導かれ、回廊をしばらく駆ける。

追手が迫っていないことを確認した彼は、立ち並ぶ絵画の前で立ち止まった。


額縁に手をかけ、ぐいと右にずらす。

そこから現れた鉄の取っ手をひねると、石壁が低い唸りを上げて動き出し、暗い空間が口を開けた。


「中へ」


促されるまま踏み込むと、すぐに扉が閉ざされ、外の光が断たれた。

薄闇の中、レヴィが壁に掛けられたランプへ火を灯す。


浮かび上がったのは、石造りの狭い部屋。

木のテーブルと椅子、一人が横になれる革張りの長椅子、そして瓶や巻物の詰まった棚。

高い天井には階段が伸び、上には外の景色を伺える小窓があった。

部屋の奥には通路が続いており、王宮の外へ抜ける道のようでもある。


レヴィはアストレアを背から降ろし、長椅子に横たえた。

すぐに棚を漁り、いくつかの瓶を手に取る。


「陛下、傷を見せて」


血に濡れた衣を開くと、腹部に深く刻まれた傷が覗く。

レヴィは瓶の封を切り、淡く光を放つ液を注ぎかけた。

高価な治癒薬だろう。傷の表面は塞ぎ切らないが、出血は収まり、内側の損傷も幾分か癒えたようだった。


アストレアが張り詰めていた息を吐く。


「……助かった」

「さすがに完治は難しいね。動いちゃだめだよ」


レヴィは包帯で止血を施しながら、ちらりとカガリへ視線を向けた。


「カガリ嬢は怪我ない?」

「だ、大丈夫です」


レヴィは「よかった」と小さく呟いた。

それからすぐに表情を引き締め、アストレアに視線を戻す。


「……何があったんですか」


問いかけに、アストレアは包帯を押さえつつ静かに答える。


「アイゼンに斬られた……エルネストに操られている。魔法ではない。奴のスキルだろう」

「アイゼン卿が……?」


レヴィの瞳が驚愕に見開かれる。

アストレアは、荒い呼吸の合間に続けた。


「回廊で遭遇した騎士たち……あれは龍晶の深窟に派遣した部隊のはずだ。王宮にいるはずがない……」

「……どこで洗脳にかかったのか。……やっかいだね」


レヴィは短く息を吐き、立ち上がった。


「カガリ嬢、少し陛下を頼んでいい?」

「はい……」


反射的に返事をしながらも、戸惑いが胸に渦巻く。


(レヴィさんは……ギルド協会から派遣された、私たちの監視役のはず……)

(どうして王宮の隠し通路を知っているの……?)

(陛下とも親しげに話しているし……)


視線の意味に気づいたのか、レヴィは気まずそうに目を伏せた。


「……僕は陛下の家臣だ。ずっと、表には出ない立場で仕えてきた。

 騙してたように見えるのは、悪いと思うけど……今は非常事態だから。追及は後にして、協力してほしい」


小さな声だが、穏やかで、誠実だった。

それ以上は問い返せず、カガリは戸惑いつつも黙って頷く。


レヴィはそれを確認すると、軽く息を整えて階段を昇り始めた。

小窓の外を覗くためだろう。


部屋に静寂が落ちる。

カガリはアストレアの傍に残り、彼が上体を起こそうとするのを慌てて支えた。


「殿下、まだ横になっておられたほうが……」

「いや、大丈夫だ……。走り続けた君も疲れているだろう。腰かけてくれ」


戸惑いながら隣に座る。

胸の奥で渦巻いていた動揺が、わずかに落ち着きを取り戻した。


「セラフィ……」


思わず名を口にしていた。

彼の強さがあれば大丈夫だと分かっている。

だが、相手は“王国最強”と謳われたアイゼン。心配が消えることはなかった。


「心配は無用だろう……」


アストレアの声が重なる。


「絶対律がある限り、いかにアイゼンとて彼を傷つけることはできない」

「……はい」


返事をした直後、ふと疑問が胸に浮かぶ。


「セラフィのスキルをご存じなのですか?」


アストレアは短く沈黙し、それから低く言った。


「レヴィを使って、君たちのことを調べていた。君のスキルも、彼らの正体も把握している」

「どうして、私たちを……」


そこまで言って、カガリははっと目を見開く。

脳裏に浮かんだのは、先ほどエルネストが星晶の間で語った言葉。


――『王たちは……加護と偽り、英雄たちの体に世界の歪みを封じる“籠”を植え付けていたんだ』


「……加護を受けた英雄である二人が、ダンジョンから帰還したからですか?」


アストレアは答えない。

ただ、その沈黙がすべてを肯定しているようだった。


(レヴィさんに、“今は追及するな”って言われたけど……)

(それでも……聞かずにはいられない……)


胸の奥がざわつく。

そのとき、階段を下りる足音が響き、レヴィが戻ってきた。

険しい顔つきが、窓の外で見てきた状況の重さを物語っている。


「……王宮の外はまだ異常なし。けど、中は騒然としてる。

 洗脳された騎士や兵の数が多い……これ、だいぶヤバい状況かも」


アストレアは小さく息を吐き、額の汗を拭った。


「……カガリ嬢。リュカ・ヴァレトはここに来ているか?」

「は、はい。バルコニーから広間にいるのが見えたので……」


アストレアは頷き、レヴィへ視線を送る。


「分身で彼を探せ。彼の力を借りたい」

「わかった」


「それなら、通信機が……」


カガリがポーチから小さな通信機を取り出す。

突起を押すと、数秒後、箱の中から聞き慣れた声が響いた。


『――カガリか? どうした?』


カイロスの声だ。


『カイロス、いまどこ?』

『王宮前の広場で、フェリオたちと屋台の飯を食ってる。儀式は終わったのか?』


背景に、にぎやかな声が聞こえる。

仲間たちがいる場所が平穏なことに、胸をなでおろす。


『それが……今、王宮の中が大変なことになってて……リュカは一緒?』

『ああ、いる』


通信機からリュカの声。


『リュカ、お願い。こっちに――』


言いかけて、躊躇した。


安全な場所にいるリュカを、危険な王宮に呼ぶべきか。

外にとどまらせ、逃がすべきではないのか。


(私が呼べば、リュカは絶対に来てくれる。でも――)


『カガリ? どうした……? 今どこにいるんだ?』


心配そうなリュカの声が聞こえてくる。

言葉に迷うカガリの代わりに、アストレアが低い声で割り込む。


「エルネストに洗脳された兵たちによって、王宮が襲撃されている。

 私はアストレア・レーヴァティア。カガリ嬢は無事だ。セラフィ・エグザルとは逸れた」


通信機から動揺するリュカの声が響く。

カガリがアストレアを見ると、彼は続けた。


「リュカ・ヴァレト。君の力を借りたい。今から家臣を向かわせる」


レヴィが頷き、紫の瞳を揺らす。

霧のような影が立ち上がり、分身が姿をとると、隠し通路の奥へ駆け出していった。


『わかりました。陛下、合流できるまで彼女を、お願いいたします』

「ああ」


「ま、まってリュカ!」


――来なくていい。大丈夫。

そう言いかけたカガリの声を、リュカが遮った。


『大丈夫。すぐ迎えに行く』


通信はぷつりと途切れる。


アストレアはゆっくり立ち上がった。


「陛下、動かない方がいいって」


レヴィが止めるが、アストレアは聞き入れない。


「分身をもう一つ出してエルネストを探せ。リュカ・ヴァレトと合流して奴を討つ」

「だから無茶だって!」

「私は動ける。王宮の外に騒ぎが広がる前に、対処する」


服の襟を整え、立ち上がろうとするアストレアの背に、カガリは思わず声をかける。


「待ってください、陛下」


アストレアが振り返る。

カガリは立ち上がり、まっすぐに見つめた。


「お兄様の言っていたことは――真実ですか?」


短い沈黙ののち、アストレアは答える。


「……真実だ」


否定してほしかった。

胸がざわめき、言葉が喉に詰まる。


「じゃあ、王族が……リュカとセラフィを……」

「……君の混乱と心情は理解できる。だが、今は非常事態だ。どうか、わかってほしい」


分かっている。そんなことは。

けれど――。


(この、もやもやは何だろう……)


胸の奥でくすぶる違和感。

憤りか。不信感か。不安か。どれも近いようで、どれも違う気がする。


王宮の危機に対して、アストレアの判断が的確なのは分かる。

それなのに、どうして自分は煮え切らない気持ちを抱えているのか。


言葉にしようと口を開いては、閉じる。


アストレアは、カガリが言葉を探していることに気づいたのだろう。

やがて一歩踏み出し、彼女のすぐ目の前に立つ。

腕が背に回り、そっと抱き寄せられた。


「……この騒動が収まったら、話そう」


低く落ち着いた声が、もやもやと渦巻く胸にすっと沁み込む。

カガリはただ、ゆっくりと頷くことしかできなかった。



大変長らくお待たせしており、申し訳ございません。

連載再開いたします。

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