第8話『薔薇の海』
森の奥を、ひたすら進む。
先頭を進んでいたシャイアの足が、ふと止まった。
「……バラの香りがする」
甘くも、微かに刺激臭を帯びた香りが、風に乗って鼻をついた。
一同が立ち止まり、自然と気を引き締める。
そのまま少し進むと、鬱蒼とした木々が唐突に途切れ、ぽっかりと陽の差す開けた空間に出た。
「――これは……」
目の前に広がっていたのは、非現実的な光景だった。
地面には紫色の蔓が這い、土の色すら見えない。
その先一面に咲くのは、深紅の薔薇――数えきれないほどの、艶やかで妖しげな花々。
「ここだけやけに暑ィな……これ幻覚か?」
「違う」
低い声でガロが応える。手には小型の温度計らしき道具。表示された数値は、30度を超えていた。
「脱ぐなよ?」
「脱ぐか!! ったく、どうなってやがる……」
どこか冗談めかしているが、3人のAランク冒険者たちも、はっきりとこの状況を“異常”と認識しているのが伝わってくる。
薔薇の海から少し距離をとったまま、鋭い視線で周辺を観察している。
「……」
カガリはポーチに手を伸ばし、小さな装置を取り出した。
装着した瞬間、視界がぐにゃりと歪む。
その中で、彼女の目に飛び込んできたのは――一面に揺らめく、無数の波紋だった。
「……これは……!」
小さな波紋が、地面、空間、空中にまでびっしりと張りついている。
それはもはや、視界全体を覆う光の膜のようだった。
「やっぱり……この薔薇、全部スキルによるものです」
波紋の数が多すぎる。
発動源が単体でないのか、
それとも一つのスキルがあまりに広範囲に及んでいるのか、そこまで判別することは難しい。
――負荷が強い。
一度、装置を外す。
視覚ノイズと情報量にの多さに、めまいがした。
カガリはふらついて思わず片膝をつく。
「っと、大丈夫か?」
ディルが咄嗟に支え、体を起こしてくれた。
(……足手まといにならないようにしなきゃ)
薔薇が咲き誇る中央あたり――その上空で、キラキラと赤く輝く粒子のようなものが舞っていた。
(あれは……花粉?)
再び装着し、そこに意識を集中させる。
すると、赤い粉のように舞う粒子の周囲にも、繊細な波紋が確かにあった。
「……花粉。あれにも、スキルの力が宿っています」
緊張感が、肌をひりつかせる。
「花粉か……吸っただけでもアウトってことだね」
シャイアが、周囲を睨みながら低く呟いた。
「近づいてみよう。花をよく調べたい」
ディルがそう言って立ち上がる。
「えっ……でも、花粉が……」
カガリが思わず声を上げたが、
ディルはにやりと笑い、額に手をあてて、短く詠唱する。
すると、ブワリと突風が吹き上がる。
それは風の魔法。
直線状に押し出された風は、薔薇の花びらと煌めく花粉を左右に弾き飛ばし、薔薇の海に一本の道を切り開いた。
「行ってくる」
シャイアが軽やかに走り出す。
風の通った道を通り抜け、腰から鞭を取り出すと、それを鋭く振る。
バチン――ッ!
先端が一輪の赤薔薇を器用に絡め取った。
薔薇を摘んだシャイアは、足早に戻ってくる。
「取ってきたよ」
口元に手を添えて花粉を吸い込まないようにしながら、摘み取った薔薇をじっと観察する。
その中央から、微かにきらきらとした赤い花粉が舞っていた。
「トゲ……」
「わかってる、触らない」
手袋をしているとはいえ、シャイアは茎の棘に細心の注意を払いながら、花全体を観察する。
「……真っ赤で綺麗ね。でも、見た目は普通の薔薇と変わらないな。手触りも、硬さも、花弁の厚みも……」
そう言って、花弁にそっと指を滑らせる。
「――熱い。ほんのりだけど、熱を持ってる。……たぶん、これだね。温度上昇の原因」
シャイアは三人から少し距離をとり、摘み取った薔薇をブン、と軽く振った。
パラリ……
きらめく粉が、花弁の中央から少量だけ舞い上がる。
シャイアは赤い粉にそっと左手を伸ばした。
パチッという小さな音とともに、空気が焦げたような匂いが立ちのぼる。
「ッ……あっつ!!」
シャイアが顔をしかめ、すぐに手袋を脱ぎ捨てると、左手の指先は赤く焼けただれていた。
地面にたたきつけられた手袋からは、焼け焦げた臭いと煙が立ち昇る。
「シャイアさん!」
「どうした!」
ディルとカガリが同時に駆け寄る。
「……大丈夫、大丈夫。軽い火傷」
シャイアは片眉を上げて笑ってみせるが、その手の傷は“軽い”と呼ぶには痛々しかった。
「いいから、こっちに手出せ」
ディルが額に手を当て、呪文を唱えると空中に水の球が現れる。
そのまま彼は、シャイアの左手を掴み、強引に水球に突っ込ませた。
「冷やせ。しばらくそのままだ」
「へいへい。おやさしいこって」
シャイアは右手でポーチを漁り、瓶詰めのポーションを取り出す。
「……どうやら、あの花粉が熱を持ってるみたいだね」
「なるほど、だからこの一帯だけ異常に暑いのか」
瓶の口を「キュポン」と口で開け、中身を水球の中で冷やした手に流しかける。
じゅわっという感覚とともに、火傷がみるみるうちに癒えていった。
「まるで火の粉だな」
「吸い込めば、肺が焼かれる」
ディルも頷く。
そのやりとりを聞きながら、カガリの中で、かすかな違和感が膨らむ。
(――でも、あのとき助けた青年の症状とは違う……)
「あの……ギルドで倒れていた青年の症状は、もっと……黒ずんでいて、腐っていくような感じでした。
火傷じゃなくて……腐食のような。治療師の人が魔法をかけている間も、皮膚が溶けて……」
「……ほう」
シャイアが真剣な表情になる。
「異なる効果の薔薇が、複数あるんだろうな」
ディルが呟いたときだった。
急に、空気が変わった。
「……ん?」
ディルが顔を上げる。
「空気の流れが……」
カガリも息を呑む。
視線の先、眼前の赤薔薇が――音もなく、一斉に散りはじめていた。
「薔薇が……!」
「散ってる!?」
花びらが、まるで火が消えるように風に舞う。
そして、代わりに地面を這うようにして、漆黒の薔薇が咲き始めた。
「さっきまで赤だったのに……!」
「なんだ、これは……」
異様な光景に息をのむ。
“誰か”が、この異変を起こしている。
その瞬間、“ズ……ッ”と地鳴りのような低音が森を走った。
シャイアが、きゅっと口元を引き結ぶ。
「――来るよ」
カガリも、はっきりと感じた。
そして気づく。
地面の中心――黒薔薇の群れの中央に、巨大な黒い蕾が浮かび上がっていることに。
※こちらの作品は、『カクヨム』でも連載しています。
https://kakuyomu.jp/works/16818622177469889409
カクヨムの近況ノートにて、キャラクターのラフスケッチを描いていくので、
もしビジュアルのイメージに興味がある方は覗いていってください。