第82話『狩猟祭閉幕②』
宴の灯がやわらかく揺れる中、狩猟祭の参加者たちはそれぞれの席で談笑し、時折笑い声が交じる穏やかな時間が続いていた。
しかし、そのざわめきは徐々に静まっていく。会場の中央に据えられた壇上に、甲冑をまとった進行役の騎士の姿が見え始めたのだ。
彼の一歩一歩は力強く、その足音だけが会場の静寂に響く。
やがて壇上に立つと、鋭い目で会場を見渡し、重く低い声が広がった。
「皆の者、狩猟祭の終わりを告げる時が来た」
その言葉に会場の空気がぴんと張り詰める。
期待と緊張が入り混じった視線が一斉に壇上へ注がれ、参加者の呼吸も自然と揃うようだった。
「無事の終了を心より喜びたい。数多の獲物を追い、己の腕と胆力を示した者たちに敬意を表す。
――今宵、栄誉はその中の一人に与えられる」
騎士団長はゆっくりと巻物を取り出し、参加者の名と、狩猟の結果を一つ一つ読み上げていく。
名前が呼ばれるたびに、歓声と拍手があがり、緊張の中にも祭典の温かさが感じられた。
「どうせ、アイゼン卿だろうな」
誰かがささやく。
しかし、誰もが予想していた優勝者の名前はなかなか呼ばれない。
視線は壇上の騎士団長へ向けられ、会場の空気はますます張り詰めていった。
やがて、騎士団長はゆっくりと巻物を胸に引き寄せた。
その場が一層静まり返る。
「今年の狩猟祭、優勝者は――」
その声が会場に響き渡り、全員の視線が一点に集中する。
一呼吸置いて、団長は名を告げた。
「カガリ・エルグレア」
その瞬間、場内は一瞬にして静寂に包まれた。
そして、やがて驚きの声が波のように広がり、どよめきが会場を揺らした。
「え……?」
突然の発表に、一番驚きを隠せなかったのは、他でもないカガリだった。
思わず手にしていたグラスを取り落としそうになる。
信じられないものを見るように、隣のフェリオたちと視線を交わすが、彼らも同じく目を見開いていた。
名前を呼ばれ、カガリと同行者のセラフィは壇上へと促される。
セラフィと目が合った。彼もまた驚いていたが、小さく頷き、共に歩き出す。
壇上では、狩猟の成果が順に読み上げられていく。
数々の討伐名と得点、そして――
「最後に提出されていたのは――“黒角獣の角”。
深森に棲む幻獣とされ、狩猟記録すら乏しいこの個体の素材が、今回の勝者を決定づける結果となった」
その瞬間、胸にざわりとした違和感が走った。
(……黒角獣の角……?)
騎士団長の言葉に、場内がざわめく。
「黒角獣だと……? そりゃ、すげえ……」
「記録なんて、もう数十年単位で出てないはずじゃ……」
騒めきの中で、カガリの脳裏に一枚の紙がよぎる。
狩猟祭に備えて、カイロスがまとめてくれた資料。その末尾に小さく記されていた、黒角獣の名。
――“黒角獣”
全身を煤のような黒毛で覆い、まるで闇そのもののごとき気配を漂わせる幻獣。
極めて希少な個体であり、出現例は少なく、実在すら疑われることもある。
きっと出会うことはないだろうと、そう持って気にしていなかった。
ちらりと背後を振り返る。
片膝をついて跪いていたセラフィが、カガリに気づき、小さく首を振った。
――やはり、そんな魔物は狩っていない。
混乱する思考の中で、ふと視界の端に一人の男が映る。
――エルネストだ。
傍らのグラスを優雅に傾けながら、こちらを見て、薄く笑んでいた。
(……まさか)
脳裏に、ルシェリアの言葉がよみがえる。
『お兄様が、お姉さまを優勝させようとしてるから。なんだか、気に食わなくて』
その時、すべてが繋がった。
これは――エルネストの仕業だ。
(……でも、どうして?)
(エルグレア家は今回の狩猟祭の主催によって、すでに十分な権威を示したはず)
(こんな操作までして……栄光を手にする必要なんか……)
答えは出ない。
ただ、不安だけが、胸の奥で形を持ち始めていた。
そんな中、場が再び静まり返る。
壇上の奥の扉が開かれ、ひとりの人物が現れる。
――女王陛下、アストレア。
カガリは膝をつき、頭を垂れる。
その前に進み出たアストレアが、静かに言った。
「顔を上げよ」
言葉に従って顔を上げると、アストレアと目が合った。
その瞬間、カガリは目を見開く。
アストレアの顔が、――ひどく、歪んでいた。
名誉の授与の場に似つかわしくない、苦悩に満ちたような表情だった。
(どうして……? )
沈黙が続く。
名を読み上げるはずのアストレアは、口を開こうとしながらも、言葉を発さない。
会場にざわめきが広がる。
やがて、何かを振り切るように、アストレアはようやくその口を開いた。
「カガリ・エルグレア。そなたの功績を讃え、“黄金の鞍”をここに授ける」
儀礼的な言葉が、どこか虚ろに響いた。
そして、その鞍がカガリに授けられる。
アストレアが一歩近づき、手渡す瞬間――
距離が一瞬、近くなる。
そのとき、アストレアは小さく囁いた。
「……どうして、……君なんだ……」
ぽつりと漏れた声は、雑踏の中でも、はっきりとカガリの耳に届いた。
「え……?」
思わず聞き返した。
だが、アストレアはそれ以上、何も言わない。
ただ、静かに目を見つめ返す。
問いは宙に浮いたまま、互いの視線だけが交わる。
言葉にならない想いが、しばしの間、二人を包んだ。
やがて、進行役の騎士が前に出る。
「勝者への“星の加護”の儀式については、例年通り、日を改めて執り行われる。今年の狩猟祭、優勝者に拍手を」
重々しい声が場内に響き、拍手とざわめきがそれに続く。
アストレアはカガリから視線を外す。
わずかに目を伏せ、何かを飲み込むように唇を引き結んだ。
そして、マントを翻し前に出る。
「これをもって、狩猟祭――閉幕とする」
淡々と、だが力強く宣言されたその声に、空気が引き締まった。
それは祝福とも、別れともつかない静かな終わりの合図だった。
カガリは、まだ胸の奥に残るざらつきを抱えたまま。ただ、王の背を見つめていた。




