第80話『終幕』
ルシェリアとカガリの、荒れた呼吸が静寂を裂いていた。
赤い光を挟んで、ふたりはじっと見つめ合う。
「……もうやめにしよう、ルシェリア」
カガリが、静かに告げた。
「あなたはあなた。私は私。……同じものを奪い合わなくたっていい」
その声音に、敵意はなかった。ただ、届いてほしいという願いだけが滲んでいた。
興奮で浅くなっていた息を、ルシェリアはゆっくりと整える。
ふと気づけば、いつの間にか立ち上がっていた。
しばしの沈黙。
「……あの家に、公爵令嬢の居場所は、一つしかないのよ」
かすかに笑って、彼女は銃を下ろした。
目を伏せ、足元を見つめる。
高くて細いハイヒール。
赤く、擦り剝けた足をぎりぎりと締め付けていた。
「……ああ」と漏れた声音は、空気の隙間に染み込むようにかすれていた。
「きっと――来るべきじゃなかったんだ……こんな、華やかな世界」
そっと目を閉じながら、ぽつりと落ちたその言葉。
ゆっくりと、沈むように。
まるで舞台の終幕を告げる台詞のようだった。
そして。
静寂が訪れた空間で、ひと筋、光が――そっと、揺れた。
階段の上に人影。
それが音もなく駆け降り、ルシェリアの背後に立つ。
その手が、彼女の首筋へとすっと伸びた。
ぱしん、と乾いた音。
崩れるように倒れかけたルシェリアの身体を、男が抱え上げる。
「……あなたは」
見上げたカガリが、息を呑む。
エルネストの従者だった。黒髪をきっちり結った、あの男だ。
男は何も言わず階段を降りきると、壁際へと歩み、手を伸ばした。
魔道具の操作音が低く鳴る。
ヴゥン――と、空気を振わせて、
赤い結界の光が、ぱっと弾けるように霧散した。
「これで、魔法が使えるはずです」
男が振り返らずに言う。
苦悶の表情を浮かべながらも、フェリオがすっと手を上げる。
魔力が込められたその手が青白く光り、自身の身体を包む。
じわり、じわりと傷が癒えていく。
だが、長時間の出血と痛みで足元がおぼつかない。
カガリが支えると、フェリオは少し笑って、彼女の手を取った。
「いたいの、いたいの、とんでいけ……」
そう囁きながら、カガリの薬瓶で切った指先にそっと光を灯す。
小さな傷跡は、魔力のひかりに包まれてすっと消えた。
いつもの優しい、フェリオの微笑みに、
張り詰めていた心がほぐれていった。
従者の男は、二人に向き合うと、静かに頭を下げた。
「ルシェリアお嬢様の行動、深くお詫び申し上げます。この件、エルグレア家で処理させていただければ」
男はそう言って去ろうとする。
フェリオはその背に「待て」と声をかけた。
「悪いが、それはできない。公爵家だろうと貴族の命を狙った罪は重い。……影で処理するなんて、許すわけにはいかない」
言葉の裏には、ルシェリアが“消される”危険を読み取ってのことだった。
しばらく、ふたりの間に沈黙が落ちる。
やがて、従者の男は諦めたように頭を深く下げ、ルシェリアの身体を抱えたまま、階段をのぼっていった。
その背が扉の向こうへと消えるのと入れ替わるように、足音が近づいてくる。
「カガリ!!」
叫ぶ声とともに、駆け込んできたのはセラフィだった。
彼は階段を一息に飛び降り、カガリを強く抱きしめる。
「セラ……!」
名前を呼びかけたその瞬間、カガリの声は彼の胸に押しとどめられた。
「怪我は? 大丈夫? ごめんっ……ごめん、君を見失った」
抱きしめる腕にこめられた力が、どれだけ心配していたかを語っていた。
「大丈夫。私は、無事だよ」
そう応えながらも、カガリはそっとその背に腕を回す。
セラフィの肩がふるりと揺れた。そのあと、さらにぎゅっと強く抱きしめられる。
「ちょっと。そんな力で抱きしめたら、カガリちゃん潰れちゃうんだけど」
フェリオが、腰に手を当てて茶々を入れた。
「俺がついてたんだから、大丈夫に決まってるでしょ。……はい、もう離れて」
セラフィはようやくカガリから離れると、フェリオと向き合う。
赤く染まった服を見て、目を見開く。
それは、2人に危険があったことを物語っていた。
「……ありがとう、フェリオ。君がいてくれて、本当に……本当に、良かった」
「うっ、……あのねえ……君、ほんとずるいよ。そういうの」
あまりにまっすぐに感謝されて、フェリオは思わず目をそらした。
そこへ、さらに重い足音。
「無事か!?」
飛び降りるようにして姿を現したのは、レオルドだった。
「レオルドさん!」
額に汗をにじませた彼は、フェリオとカガリの無事を確認し、大きく息を吐いた。
「おっそいよ、レオ~。もう全部片付いてるし」
「うるせえ。急に消えるから、見つからなくて走り回ったんだ」
「うわ、汗やば。こっち来ないで」
「ぶん殴るぞお前!!」
いつもの掛け合いが戻ってくる。それが――何より、ほっとした。
「でも、どうやってここが分かったの? さっきの黒い男の人を追って……?」
「黒い男……? いや……クマの男、だな」
「クマ……?」
その言葉に目をやると、階段の上からのっそりと現れた影がひとつ。
目の下に深い隈を刻んだ男――レヴィだった。
「……あのさあ。いつまでそこにいるつもり? 空気悪いし、早く上がってきたら?」
げんなりとした顔で、レヴィが呼びかけた。
◇ ◇ ◇
「こんなところまで付いてきて監視させられてる僕ってさ、そろそろ過労で倒れてもいいと思うんだよね」
レヴィは眉間に深い皺を寄せ、目の下の隈をさらに濃くしてから、ぼそりと呟いた。
「でも、レヴィさんのおかげでセラフィたちと合流できました。ありがとうございます」
話を聞くと、カガリたちが転送で姿を消したあと、レヴィがセラフィたちの前に現れ、追跡の手助けをしてくれたのだという。
「君って、24時間寝ずに俺らを監視してるの……?」
セラフィが、ぽつりと呟いた。
「そう! ありえないよ! ほんと! 俺がそういうのできるスキル持ちだからって、酷使しすぎ」
彼の苦労は、目の下の深い隈が何より雄弁だった。
「就職先変えたらいいんじゃねえの?」
レオルドが言う。
「それが、そうもいかない事情があるから困ってんの……」
レヴィは睨むように言いながら、ぼさぼさの髪をぐしゃっとかいた。
「姿を見せてくれるまで、君の存在すっかり忘れてた。……まさか王都まで来ているとは思わなかったよ」
「僕も、王都まで出張させられるとは思わなかったよ」
セラフィの言葉に、眉間にしわを寄せるレヴィ。
ふと、最近もその顔に見覚えがあるような気がした。
(どこだったかな……)
記憶を探る。
王都に来てから、そんなに移動をしていない。
思い当たる場所は限られている。
(あるとすれば……――)
「パーティ……?」
「ん?」
「レヴィさん、狩猟祭のパーティー、会場にいました……?」
問いかけに、レヴィは一瞬だけ動きを止めた。
けれど、すぐに何でもないような顔で肩をすくめる。
「いや。そんな人が多くて騒がしい所……僕が行くわけないでしょ……」
「そうですか……」
じゃあ、どこだっただろう。
思い返しても、確信の持てる場面が浮かばない。
考え込むカガリの様子をちらと見やり、レヴィはわずかに視線を逸らして、小さく咳払いした。
「とにかく、このまま東に行けば狩猟区域に戻るから……。じゃあね」
レヴィはひらりと木の上に跳びあがる。
そして去り際、不意にカガリを振り返った。
「……まあ、今日のは、セルフィーユ・ブリゼのお返しね」
「……?」
ふっと、口元にだけ笑みを浮かべると、レヴィの姿は木立の陰へと消えていった。




