第72話『沼地の戦い』
柔らかな光が差し込む森の小道。朝露に濡れた葉が、カガリの肩をかすめた。
「この森で一番強いのって、なんていう奴だっけ?」
歩きながら、セラフィがふと問いかける。
「えっと……ちょっと待ってね」
カガリはポーチの中から革の手帳を取り出した。
カイロスが調べてくれた狩猟祭のための資料。そこには、この森に生息する魔物の種類と分布が、手書きで丁寧にまとめられていた。
「……たぶん、最奥にある“泣き岩の洞”に棲みついているネームド個体――《窟王レメドス》だと思う。
巨大なクマとトカゲを掛け合わせたような姿の大型種。咆哮による精神干渉と、厚い岩殻をまとった突進が脅威……」
「なるほど、それにしようか」
「えっ、一番強いのに……?」
「うん、誰かに取られないうちに狩ろう」
セラフィが軽く頷き、何でもないような調子で言った。
「でも……セラフィ、本当に大丈夫?」
カガリの声が不安を帯びる。
「だって、今……セラフィは律を使えな……」
「――まって、カガリ」
カガリの言葉を、セラフィの静かな声が遮った。
その瞬間、彼の表情がわずかに変わる。
何かに気づいたように目を細め、森の奥へと意識を向けていた。
鳥のさえずりが止み、風もぴたりと動きをやめる。
息を呑んだカガリは、反射的に口を閉じる。
セラフィは静かに、鞘に手をかけた。何かの気配を感じ取るように、ゆっくりと目を閉じる。
「……」
葉擦れの音。遠くに、獣のうなり声。
「……そこにいて」
セラフィが目を開けた瞬間――空気が、変わった。
まるで空気そのものが斬り裂かれたかのような鋭さ。風のなかで最初に動いたのはセラフィだった。
――一閃。
姿が消えた、と思った瞬間。獣の咆哮が裏返り、悲鳴に変わる。
樹上から襲いかかろうとしていた魔獣の体が、音もなく斜めに崩れ落ちた。
カガリは息を呑む。
(は、早くて、何も見えなかった……!)
セラフィはすでに、次の敵に向かって踏み出していた。
その剣筋は、舞のように美しく、そして冷ややかだった。
どんなに獰猛な獣も、一太刀で沈む。刃が触れる瞬間、抵抗の暇すら与えない。
「……これが、セラフィの本気……」
カガリの胸がざわめいた。
一体また一体と、敵が斃れていく。
気づけば、森にいた魔獣たちはその気配に怯え、遠巻きにすら近づいてこようとしなくなっていた。
セラフィは剣を収め、振り返る。
「カガリ、大丈夫?」
微笑んだその顔に、血の気は一切なかった。
まるで、散歩でもしてきたかのような穏やかさ。
けれど、その背後に積み重なったものが――すべてを物語っていた。
「う、うん……大丈夫」
言いながらも、カガリの声はかすかに震えていた。
その光景が、ただの“強い”では収まりきらないことを、彼女は直感的に理解していた。
「うーわ、えっぐい剣裁き……」
茂みの向こうから、フェリオとレオルドが現れる。
「マジで何者だよ、お前……」
あっけに取られたような顔で、レオルドがセラフィをまじまじと見つめる。
「あ、ちょうどいい」
セラフィはすっと表情を戻し、二人に向き直る。
「倒した魔物って、どう処理すればいいんだっけ? 教えてくれないか?」
「ああ、ルーン文字が書かれてる札、あれ使うんだよ」
「キャンプで貰っただろ?」とレオルドが自分のものを見せる。
「魔物に1枚ずつ貼れば、集計所に自動転送される」
「これか」
セラフィは腰の袋から札の束を取り出すと、何枚か剥ぎ取り、手近な魔物の骸にぺたぺたと貼っていく。
直後、札が淡く光を放ち――骸がすっと、その場から消えた。
「消えちゃった……」
カガリが目を見開く。
「討伐した個体にしか反応しない仕様だ。人間とか、別のものには発動しないから安心しな」
レオルドが肩をすくめながら補足した。
「すごい、便利ですね」
「文明の利器だ……」
カガリとセラフィが感心したように呟いた。
魔物の骸が光に包まれて消えていくのを見届けながら、レオルドがため息まじりに言う。
「お前の後を歩いてたら、一匹も獲物に出会えそうにないな」
「じゃあ、ついてこなければいいのに」
レオルドの苦笑に、セラフィは軽く肩をすくめて笑って返す。
「別に付いてってるわけじゃないし! この先の沼地に行きたいだけだから!」
急に声を張ったフェリオの様子に、カガリも小さく笑った。
「沼地……」
メモをめくって確認する。
「あ、沼地にもネームド個体がいるんだ」
――《瘴泥の王・グレモルド》
ゼリー状の肉体に、泥や骨を取り込んで巨大化する魔物。周囲の小型スライム系の魔物を指揮し、集団での溺死を誘う。
「それいいね。群れなら数も稼げそうだし。……沼地経由して、奥の洞窟に向かおうか」
「ちょっと! そいつ俺らが先に狙ってたんだけど!」
「早い者勝ちでしょ、こういうのって」
鼻息を荒くするフェリオに、セラフィはにこにこと笑った。
(……なんだか、今日のセラフィ、楽しそうだな)
カガリは、そんな彼の横顔をちらりと見やる。
いつもの静かな笑みとは少し違う、わずかに高揚の混じったその表情。
こういう顔もするんだ、と、セラフィの“人らしい”一面が見られて胸の奥があたたかくなる。
こうしてあれこれ話しながら、結局一緒に肩を並べて歩いて、4人は森を抜けて沼地のほとりへとたどり着いた。
「うわ……すっごい臭い。選択ミスったかな」
フェリオが鼻をつまむ。
漂う瘴気、ぬかるんだ地面、どこかで響く水音。
生き物の気配が濃密に漂う中、すでに何組かの参加者が散開し、戦いの準備を進めていた。
「油断すると足を取られるから気をつけて。ここ、見た目以上に危険だよ」
セラフィの声が、一瞬だけ鋭さを帯びる。
そして、その視線が――沼の奥、ゆっくりと立ち上がる巨大な影に向けられた。
盛り上がる泥の山。
それはやがて形を成し、巨体が姿を現す。
――瘴泥の王・グレモルド。
ぬかるみを突き破るようにせり上がるゼリー状の巨躯。
その内部には、取り込まれた動物の骨や人の装備と思しき金属片までもが見え隠れする。腐泥と瘴気を撒き散らしながら、グレモルドは呻くように鳴いた。
「……おお、でっか」
レオルドが思わず呟いた声が、沼に沈む。
それだけではない。グレモルドの周囲には、大小さまざまなスライム型の魔物たち――“瘴泥の眷属”たちが蠢いていた。
それらが一斉にこちらを向く。静かな沼地が、一気に生き物の気配に満たされる。
「い、いっぱい居る……!」
カガリが声を震わせる。
「泥から無限に湧くのか?……まるでモグラ叩きだな」
レオルドは沼地の縁に踏みとどまり、ぐっと腰を落とす。
その拳には、分厚い革と金属を編み込んだ戦闘用グローブ――鉄の砕拳が鈍く光る。
「へえ。その装備、やっぱ拳闘士か。貴族にしては珍しいね」
セラフィが言う。
「レオルドの家は、王国一無骨な戦闘貴族だからね。北部の鉄壁って呼ばれてる」
フェリオは気安い調子で続けながらも、どこか誇らしげな声音だった。
「北の鉄壁……聞いたことある。辺境伯の……なんて言ったかな」
セラフィが目を細める。
その言葉に、カガリは驚いた。
(セラフィが知ってるってことは……二百年前から名が通ってる家っていうことだ……)
(腕相撲の時も思ったけど、この二人――やっぱり、ただ者じゃない……)
貴族なのに。冒険者じゃないのに。
まるで戦場で鍛えられたような気配が、ふたりにはあった。
「さて――」
フェリオが剣を抜き、空気を裂く。
「ビビってる温室育ちくんたちに、見せつけてやろうか」
妙に気合いの入ったフェリオに、セラフィもふっと笑う。
腰に静かに手を伸ばし、自身の剣を抜いた。
一閃――音もなく抜かれたその細い刃は、静謐な威圧を放つ。
「カガリ、沼には近づかないようにね」
「う、うん!」
カガリがうなずいたその時――
湿った空気が、ぐにゃりと揺れるような気配が走った。
泥の下から、ぐつぐつと沸き立つ音。
ズルッ、と音を立てて黒い塊が次々に姿を現し、スライムの群れが一斉に跳ね上がる。
――戦端が、切って落とされた。




