第50話『スパイ』
王宮の奥深く、謁見の間とは別棟にある私室。
白と金を基調とした調度の中、ひとりの女性――いや、女性の姿をした“王”が、椅子に深く腰かけていた。
アストレアは机の上に広げられた報告書に目を落とし、静かにページをめくる。
ペンを指で弄びながら、ふと顔を上げる。
「……来たか」
気配を察して呟くと、部屋の隅に揺れる影。
そこから、黒いフードを深く被った細身の青年が、まるで闇から滲み出るように現れた。
「レヴィ。遅かったな」
「昨日着いたばかりですよ……こっちまで休みなしで移動して……あの距離を、僕は! 徒歩で!」
レヴィは疲れきった声でぼやく。
目の下にできた深い隈が、長旅と過労の証を物語っていた。
「それなのに“顔を出せ”って……僕がどれだけ寝てないか、知ってます? ギルド側への報告もまとめて、一人で何日も追跡して……こっちの報告もまとめて……こんな重労働なんてきいてない……」
「わかった、わかった。労うべきだったな」
アストレアは苦笑し、手にしていたペンを置く。
「……で」
言葉を切ってレヴィを見る。
「僕は、いつまでこのスパイ任務を続ければいいんです? ギルド側に勘付かれることはなさそうだけど、あいつら人使い荒すぎ……体力的に限界近いんですけど……」
「まあ……お前が彼らの監視役に“偶然”抜擢されたのは、私たちにとってこの上ない幸運だった。できる限りは続けてほしい」
アストレアの声には、ほんの僅かに皮肉の響きが混じる。
彼女は書類の山のひとつを引き寄せ、指先でトントンと揃える。
「リュカ・ヴァレト……セラフィ・エグザル……まさか、彼らが人の姿で戻ってくるとは……」
低く、思案を込めて呟く。
レヴィは肩をすくめ、眉間を揉むように指を当てる。
「迷いの森も静謐の神殿も、その後ギルドが追加で調査してるけど……異常は確認されてない……。
どっちも、完全に“正常化”してる。まるで最初から何もなかったみたいに……」
アストレアの目が細くなる。
部屋の温度が、すっと数度下がったような気がした。
「……ありえない。だとしたら、一体どこへ消えた?」
資料の一枚を抜き取って睨むように見る。
「カイロスという魔導士が、なかなか鋭くて……。
解除スキルが通用したことから、一連の事件はスキルの影響によるものだ、って仮説を立ててる。
金獅子隊の記録詐称についても、かなり調べが進んでるし……王宮を警戒してますよ」
アストレアは顎に手を当て、深く黙り込んだ。
その視線が、次の瞬間、机の上の書類に落ちる。
名前の欄に記されていたのは――
――カガリ・エルグレア
「解除のスキルを持つ令嬢……まさか、エルグレア公爵家の調査とも、ここで繋がってくるとはな。――はたして偶然、か」
レヴィは苦い顔でため息をついた。
「彼女、あっちこっち動きすぎ……普通、の貴族令嬢の行動範囲じゃないですよ……はあ」
レヴィは気だるげに息を吐く。
アストレアは無言のまま書類をみつめている。
指先が、紙の上の名前をなぞり、そして止まる。
「……お前の目から見て、彼女はどう映る?」
その問いに、レヴィは一瞬まばたきをする。
「どうって……え、評価です?」
小さくつぶやきながら、肩をすくめる。
指先で顎をさすり、目を伏せたまま、しばし考え込むように沈黙する。
部屋には、ページをめくる音ひとつない静けさ。
やがて、ぽつりと──
少し迷ってから、レヴィはぽつりと呟いた。
「……お人よし……?」
レヴィの答えに、アストレアの瞳が細められる。
柔らかな微笑みが浮かぶ。
「……そうか。面白い答えだな」
書類を閉じ、椅子に背を預ける。
「もういい、今日は帰って休め」
「……ギルド協会にもそれ言ってくださいよ……てか、え?……もしかして、今の訊くために呼んだんですか?」
「まさか。お前に会いたかっただけさ。……それに」
アストレアは机の端を指さした。
そこには、さっきまでなかった一袋の焼き菓子が置かれていた。
茶色い包装紙に、小さく狩猟祭のマークが印字されている。
「……そこの、それ。君が食べたがっていたお菓子だろう?」
「……えっ」
目を輝かせたレヴィが半歩近づく。
「“お人よしの令嬢”からだ」
その声には、冗談とも本気ともつかない響きがあった。
レヴィは、黙って袋を取ると、しばし見つめ――
「……いい子じゃん」とだけ、小さく呟いた。
アストレアはその背を見送りながら、思考の海へと再び潜っていった。
◇ ◇ ◇
――狩猟祭パーティ当日。
カガリの私室には、緩やかに笑みを浮かべるセラフィと、視線のやり場に困ったように顔を真っ赤にするリュカの姿があった。
「……すごく綺麗だ」
ぽつりと、セラフィがつぶやく。
その視線の先にいるのは――
パーティー用のドレスに身を包み、髪も丁寧に結い上げられたカガリだった。
深い森のような緑のドレス。裾には小花の刺繍があしらわれていて、華やかでありながら、気品と清楚さを湛えている。
「そ、そう……? 変じゃない……?」
思わず視線を逸らし、カガリは頬に手をやった。自分の姿が見慣れなさすぎて、どうにも落ち着かない。
「まったく変じゃない。まるで妖精のようだ」
セラフィは素直に感嘆を漏らすと、そのまま頬を軽く撫でるように手を添える。
「君を行かせたくないよ……はあ、どうして護衛は入れないんだ……」
「物々しくなっちゃうからね。でも、王族の人も来るし、会場の警備は厳重だから大丈夫だよ」
カガリは安心させようと笑うが、セラフィは眉を寄せたまま、目を細めた。
「僕は、外からの心配をしてるんじゃなくて、中でのことを心配してるんだよ……」
「え……?」
カガリが首をかしげると、リュカが苦い顔をしながら口を挟んだ。
「……いっそ、忍び込むか」
「君が言うと冗談にならないな……」
真顔のリュカに、セラフィは楽しげに肩をすくめる。
「なにか律をかけておく? ≪この身体は傷つかない≫……≪君は誰よりも美しく輝く≫……なんでもできるよ?」
「はは……大丈夫。セラフィがいないところで変な作用が出たら困るし……でも、ありがとう」
にこっと笑うカガリに、リュカは目を逸らすように息を吐く。
「だが、その……俺も少し心配だ……本当に大丈夫なのか?」
「うーん、こういうの久しぶりだから……緊張するけど、失敗しないように、隅でおとなしくしてるつもり」
「いや、そういう意味じゃなくてだな……」
リュカが言い淀むと、カガリはぱちぱちと瞬きをして、上目遣いに見つめる。
「……?」
その無自覚な仕草に、リュカの顔がみるみる赤く染まる。
その瞬間――
ポンッ。と、音が鳴った。
リュカの足元で、淡い桃色の薔薇が咲いた。
「うわっ、ちょっと……!」
「わ、悪いっ!」
慌ててリュカとセラフィは花を散らす。
素早く窓を開けて、桃色の花粉を外へ逃がした。
「……だ、だめだ。風にあたってくる」
耳まで真っ赤になりながら、リュカは逃げるように部屋を出ていった。
「ど、どうしたんだろうリュカ……」
ぽかんと見送るカガリに、セラフィは苦笑して肩をすくめる。
「君はもう少し、自信を持ってもいいと思うんだけどな」
そこへ、控えめなノックと共にユエルが顔を見せた。
いつもと違い、パーティー用に整えられた従者の装いが新鮮だ。
「お嬢様、馬車が到着いたしました。いつでも出発できますが……もう向かわれますか?」
「うん、そうだね……エスネストお兄様との待ち合わせの時間も近いから」
立ち上がろうとするカガリに、ユエルが一言。
「とてもお似合いです……」
少し頬を赤らめながら告げるその言葉に、カガリは照れながら微笑む。
「ユエルも、よく似合ってるよ」
「そ、そうですか……? 良かった……」
ユエルが扉の前に立ち、静かにカガリへと向き直る。
「……それでは、準備はよろしいですか?」
カガリはそっと頷いた――はずなのに、胸の奥が急にざわつき始める。
久々の社交の場。
しかも、王族も出席する由緒あるパーティー。
この服に見合う振る舞いができるのか、自分が場違いだと思われないか、不安が押し寄せてくる。
「カガリ」
セラフィの声が呼び止める。
「なに……?」
振り向いた先で、セラフィはゆっくりと近づき、カガリの手を取った。
「君は、誰よりも強く、美しい。――これは、律ではなくて、君が自信を持てるようにかける、おまじない」
そう言って、そっと手の甲に口づける。
カガリの顔は一瞬で真っ赤に染まった。
胸の奥に残っていた緊張も、不安も、ふわりと吹き飛んでしまった。
「ふふ、いい反応だ」
セラフィが愉しげに笑う。
さっきまでは緊張で重く感じていた足が、なぜか今は、ふっと軽くなる。
恥ずかしさで頭がいっぱいで、もうその場にはいられなかった。
「い、いってきますっ!!」
真っ赤な顔のまま、ぱたぱたと足早に部屋を後にした。
セラフィはその背中を見送りながら、くすりと微笑んだ。




