第46話『食事会』
――翌朝。
昨日は、よく眠れなかった。
目を閉じても、意識だけがどこか冴えてしまい、浅い眠りを何度も繰り返した夜だった。
(……やっぱり、気が張ってるんだ)
今日、家族と顔を合わせる。
それだけで、身体の芯に冷たい緊張が入り込む。
ふと、扉の向こうから控えめなノックの音。
「お嬢様、ユエルです。お支度のお手伝いに……」
その声に、ようやく現実に引き戻されるような気がした。
カガリは寝台からゆっくりと身を起こし、小さく答える。
「うん、お願い」
扉が開くと、変わらぬ優しい表情のユエルが姿を現す。
その姿を見ただけで、少しだけ張り詰めていた気持ちが和らいだ。
ドレスに袖を通すのは、久しぶりだった。
淡い色合いの上品な布地。貴族としての装い。
「メイドを呼びますか?」
「ううん、自分でできるよ。ただ、少しだけ手伝ってもらえる?」
かつて屋敷にいた頃と同じように。
ルシェリアの息のかかったメイドたちに囲まれていたあの頃、気の抜けない空間の中で、唯一心から信頼できたのがユエルだった。
だからこそ、身の回りのことはできるだけ彼に任せていた。
その関係は、今も変わらない。
ユエルは手慣れた様子で、丁寧に手を動かす。
カガリの髪を整え、襟元を整える手つきには、もはや迷いはなかった。
襟を整えてもらいながら、ふと鏡に映るユエルの腕に目が留まった。
昨日まで巻かれていた包帯が、もう見当たらない。
「……傷、大丈夫だった?」
ユエルは驚いたように少し瞬きしてから、柔らかく笑った。
「はい、おかげで綺麗に治りました。本当にありがとうございました」
「それならよかった」
カガリも、ふっと微笑む。
「あの治癒薬、お嬢様が作ったものだと聞きました。本当に、なんでもできてしまうんですね」
「そ、そんな大したことじゃないよ。簡単な調合でできるの」
「いえいえ、それは十分すごいことですよ!」
「はは、ありがとう」
その真っ直ぐな褒め言葉に、カガリは思わず小さく笑ってしまう。
心が少しほぐれていく。
「リュカたちはどうしてる?」
「客室で朝食をとられています。お嬢様が朝食会から戻られたら、お伝えしますね」
「うん、そうしてくれるとたすかる」
髪飾りを受け取りながら、鏡越しに自分の姿を見る。
――久しぶりに見る“公爵令嬢”の顔。
「……大丈夫ですか?」
ユエルが鏡をのぞき、そっと尋ねる。
カガリは鏡越しに頷き、微笑みを返した。
(大丈夫、できる。負けない)
心の中で静かに言い聞かせる。
そして、気合を込めて部屋を出た。
◇ ◇ ◇
食堂のドアを開けると、すでに家族たちは席についていた。
「おはよう、カガリ」
最初に声をかけてきたのは、エルネスト。
いつものように穏やかな笑みを浮かべている。
「よく眠れた?」
「ええ……部屋の用意、ありがとうございました」
返事をしながらも、カガリの視線は、最上座へ。
だが、そこにサルディアスの姿はない。
「お父様は……?」
「ああ、実は病にかかっていてね。今は起き上がれないんだ。しばらくは僕が、この家の管理を任されることになったよ」
「そう、なんですか……」
(……あのお父様が倒れるなんて)
あの厳格で威圧的な父が病に伏す姿は想像がつかない。
けれど――もう顔を合わせずに済むのは、少しだけ、安堵だった。
カガリは空いている席へ向かい、静かに腰を下ろす。
真正面にはルシェリア。
目が合った瞬間、敵意を含んだ視線が突き刺さる。
だが、カガリは視線を逸らさず、平然とした顔でスープを口に運んだ。
豪華な朝食が並ぶテーブル。
けれど、どれも味気ない。
あの街で、リュカが淹れてくれたスープの温もりには、到底及ばなかった。
「……元気そうでよかったわ。うまくやれてるか心配していたの」
そう言ったのはレイネ。
だが、その口調に温かさはなく、関心も薄い。
「ありがとうございます。体調は崩していません」
「それは何より。お肌も綺麗だし、食事が合っているのかしらね」
「うふふ、お姉さまは器用だから、どこでも順応できちゃうのねー。私は繊細だから無理かもなぁ」
ルシェリアが口元にナプキンを添えて笑うが、目は笑っていない。
「住んでみたら、あなたも気に入るかもしれないわ。とてもいい環境だから」
カガリは淡々と返す。
お互い取り繕うような言葉だけが、表面を撫でていく。
「まあ、それなら安心ね」
レイネがそう締めくくると、また一瞬、沈黙が落ちた。
――そして。
「ところで、お兄様。なぜ私を呼び戻したのですか?」
カガリの問いに、エルネストの手が止まる。
この一言を待っていたのだろう。口元が緩く吊り上がる。
「……君の顔を見て、安心したかったんだ。
手紙を送っても返事がなかったから、どうしてるか気がかりでね」
彼は一呼吸置いて、さらに言葉を継いだ。
「それと――狩猟祭の季節なのは、覚えているかい?」
「……ええ」
年に一度、王都の貴族たちが集い、魔物を狩る祭。
その実力と名声を競う、貴族たちの社交の場でもある。
「今年も南部で開催される予定だ。本来なら、僕が家を代表して参加するんだけど……お父様が倒れてしまったからね。
今回は、僕もルシェリアも、輸送準備や来賓の対応に追われる」
「……それで?」
「君に、この家の代表として狩猟祭に参加してもらいたいんだ」
「私が……?」
意外な申し出に、カガリは眉をひそめる。
「ああ。君が冒険者として活動しているのは、風の噂で聞いていた。
どうかな? 引き受けてくれないか」
「あらまあ、素敵な話じゃない?」
レイネが、まるで舞踏会の話でもするように軽やかに言う。
カガリは一度目を伏せてから問い返した。
「狩猟祭が終われば、またあの街に戻っても?」
「もちろん。君の好きにしていい。
でも――できれば、この屋敷に残ってほしいと僕は思っているよ。
君との関係も、やり直したいんだ」
甘い言葉で懐柔しようとしている。
懐かしさにほだされるとでも思っているのだろうか。
けれど、そんな戯言に騙されるほど、今の自分は甘くない。
「……狩猟祭に参加する代わりに、一つお願いがあります。きいていただけますか?」
「もちろん。僕にできることであれば何でも」
即答だった。用意されていたような言葉に、また小さく警戒心が芽生える。
けれどカガリは、それを表に出さず、一度だけ深く息を吐いた。
「ユエルを連れて帰りたいんです。他には何も望みません」
その瞬間、ルシェリアの顔が歪む。
場の空気が変わった。そして――。
カンッ、と甲高い音が響いた。
ルシェリアが手にしていたフォークが、白いテーブルクロスの上で跳ねる。
「……あの子は、今、私の召使いよ。お姉さま」
吐き捨てるような声。
その声色には、執着と敵意が滲んでいた。
「ああ、あなたが可愛がってるあの子ね。……カガリ。別の子じゃだめなの?」
レイネがやわらかく言う。だがその笑みは、底知れぬ冷たさを含んでいた。
まるで、貴族の“正解”を押しつけるような響き。
かつてなら――ここで引いていた。
無駄な波風を立てないように、言いくるめられるままに。
けれど今はもう、違う。
「鞭で叩くことが、可愛がることなんですか?」
言い切るその声に、迷いはなかった。
「彼はもともと、私が連れてきた子です。私の従者です」
自分の意思を貫く。
それが、いまのカガリの選択だった。
(昔みたいに、口を噤んでやり過ごすことも)
(曖昧に笑って流すことも)
(――私は、もう、しない……!)
はっきりと、強い目で言い切ったカガリの姿に、
テーブルを囲む家族の空気が、一瞬ぴたりと止まる。
昔なら、何も言い返さずに俯いていたあの姉が――
今、まっすぐ前を見据えて言い返している。
ルシェリアは苛立った。
「……だから! 今は私のだって言ってるでしょ!」
怒鳴るルシェリアの声が、響いた瞬間――
「ルシェリア」
エルネストの静かな一言が、ぴたりと場を制した。
低く鋭いその声に、空気が凍る。
「……カガリの願いをきこう。彼は君の自由にしていい」
エルネストは、あくまで穏やかな声でそう言った。
だが、その一言には絶対の強制力があった。
「ありがとうございます」
カガリは軽く頭を下げる。
ルシェリアがいくら睨みつけようと――関係ない。
妹の怒りなど、兄にとっては取るに足らない瑣末事だ。
ルシェリアは何も言い返せず、唇を噛み締めていた。
「狩猟日の一週間前には、開幕パーティーがある。そこにも出席してもらいたいんだ」
何事もなかったかのように、エルネストは話を続ける。
「ドレスが必要になると思うが、デザイナーを屋敷に呼ぶかい? それとも、店に行く?」
柔らかく笑いながら尋ねる。
妹への気遣いと優しさを織り交ぜた、優しい兄のような口ぶり。
「久しぶりに街の様子も見たいので、店まで足を運びます」
あくまで冷静に。感情は混ぜずに答える。
言葉の端に、静かな意思を込めた。
エルネストは少しだけ目を細め、すぐに微笑を取り戻す。
「そうか。なら、貸し切りにしておこう。気兼ねなく見られるようにね。
……安心して楽しんでおいで」
静かに話はまとまり、カガリはナプキンを置いて立ち上がる。
背後からルシェリアの鋭い視線が突き刺さるのを感じながらも、
まっすぐに背を伸ばして、食堂を後にした。




