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第45話『公女の帰還』


使用人たちが慌ただしく門を開ける中、カガリはゆっくりと馬車から降りた。


広い中庭、並ぶ衛兵、磨き上げられた石畳。

かつて何度も見慣れたはずの屋敷の光景は、今やどこか異質に映る。


だが、足を止めることはしなかった。


(ついに……戻ってきた……)


リュカがひとつ、視線で促す。

カガリはうなずき、背筋を伸ばして一歩を踏み出す。


「カガリお嬢様! お久しぶりでございます!」


駆け寄ってきたのは、長年仕えていた執事長――老齢の細身の男、ファリスだった。

白手袋を胸元に添え、深く一礼する。


「お久しぶりです、ファリス。急にごめんなさい。手紙を受け取ったので、急いで戻ってきました」


カガリの声は落ち着いていた。

丁寧だが、決して下に出る言葉遣いではない。

かつてこの家にいた頃の、公爵令嬢としての「仮面」が、静かに彼女の顔に戻っていた。


「お父様に、面会を」


「それが……」

ファリスが言い淀んだ瞬間、後方から新たな足音が響いた。


「カガリ!」


その声音に、カガリは顔を上げる。


現れたのは、兄――エルネスト・エルグレア。

陽の光を浴びて微笑む姿は、まるでよく整えられた彫像のように完璧だった。


「……エルネスト……お兄様」


「来てくれてありがとう。元気だったかい?」


そう言って、エルネストは妹の手をとり、手の甲にそっと唇を寄せる。

形式ばったその仕草には、まるでこの家の空気全体を「元通り」にしようとする意図が滲んでいた。


「返事も書かず、来てしまって……すみません」


「構わないさ。急ぎで駆けつけてくれた、それだけで嬉しいよ」


エルネストの視線が、カガリの背後へと流れる。


「後ろの方々は?」


「護衛です。一人での長距離移動は心もとなくて」


そう応じると、カガリはリュカとセラフィを順に紹介する。

二人は黙って一礼した。

その態度の品の良さに、エルネストはかすかに目を細める。


「なるほど……しっかりした方々のようだ」


リュカの立ち方、セラフィの目線――すべてを観察するように見据えたあと、エルネストは柔らかく微笑んだ。


「長旅で疲れているだろう。今夜はまず、ゆっくり休んでおくれ。

 君の部屋はそのままだ。お連れの方々にも、客室を用意させよう」


「ありがとうございます」


カガリは頭を下げる。だが、その背筋には、わずかなもたれもなかった。


「メイドも付けるよう言ってある。好きな者を選んでくれ」


「誰でも構いません。ただ……従者を一人、選んでも?」


カガリのその一言に、エルネストの瞳が一瞬、わずかに光を鈍くした。


だがその表情はすぐに、いつもの笑みに戻る。


「ああ、もちろん。君が望むのなら、誰でもいいよ」



◇  ◇  ◇



扉が閉まり、セラフィの足音が遠ざかると、カガリはゆっくりと部屋の中央に立ち尽くした。


久しぶりの私室。


見渡せば、そこには変わらぬ光景があった。

白い壁。小ぶりなベッド。几帳面に揃えられた棚。

もともと飾り気のない空間だったが、それが余計に、この家での自分の立ち位置を思い出させる。


運び込まれた荷物の横に佇んでいたのは、黒い長髪の従者。

――エルネストの付き人をしている青年だった。


「ありがとう。そこに置いて」


寡黙なまま、彼は重そうな鞄を所定の位置に置くと、ひとつ小さく会釈して出ていった。


再びひとりきりになる。


カガリは窓辺へと歩み寄り、指先をそっと硝子に触れた。

遠くに広がる庭園――かつて何度も見下ろしていた風景がそこにある。


「……本当に、戻ってきたんだな」


呟いたその言葉は、誰にも届かないまま、淡く空気に溶けていった。


そのとき――

コン、コン、と軽いノックの音。


「入って」


扉が開き、現れたのは――ユエルだった。


目を見開いたまま立ち尽くすその姿に、カガリの息が止まる。


「お嬢様……どうして、ここに……」


ユエルの言葉より先に目に飛び込んできたのは、包帯に覆われた両腕だった。

巻かれた布地の下、赤みが透けて見える。


「その腕……どうしたの!?」


思わず駆け寄る。


「こ、これは……」

「ルシェリア、ね? ――そうでしょ?」


問い詰めるような声ではなかった。

けれど、その語調には、はっきりと怒りと悲しみが滲んでいた。


ユエルは、何も言わなかった。

ただ、目を伏せる。


その沈黙を、カガリは拒まなかった。

代わりに、そっと腕を伸ばして、ユエルを抱きしめた。


「置いていってごめんね……。でも、もう大丈夫だから」


カガリはユエルの肩にそっと額を預けるようにして、優しく囁いた。

ユエルの指先が、わずかに震える。


ほんの少し、息を吸い込んでから、ユエルは言葉を継いだ。


「置いていかれたなんて……そんなふうに思ったこと、一度もないです」


小さな声で返された言葉に、胸が詰まる。


しばらく、二人の間に沈黙が流れる。

それは苦しさではなく、互いを確かめ合うための時間だった。


「でも、お嬢様……どうして、屋敷に……?」


問いかけるユエルの顔には、戸惑いを隠しきれない色が混じっていた。


カガリは、少しだけ困ったように笑う。


「もしかして……僕が渡した、あの手紙……」


言いかけたユエルの顔が、瞬く間に青ざめる。


「……ごめんなさい。僕が……僕が届けたせいで――」


「違うよ。ユエルのせいじゃない。

たぶん、あの手紙がなくても……私は、いつか話をつけに来たと思う。だから、大丈夫」


優しく微笑むカガリに、ユエルの目が潤む。


ふと、カガリの視線がユエルの足元に落ちた。


(……あれ? 靴がちがう……)


カガリの視線に気づき、ユエルが慌てて口を開く。


「あっ……ルシェリアお嬢様の機嫌を損ねてしまうので、部屋に隠してあるんです。

 せっかくいただいたのに、使えずにごめんなさい」


ユエルは俯きながら、罪悪感を押し隠すように微笑んだ。


カガリはそっと、ユエルの手に触れた。


「……今日からは履いて」


「えっ?」


「わたしが、ルシェリアには……もう、手を出させないから」


カガリのその言葉は、かつての自分では絶対に言えなかったものだ。


家族に背を向ける覚悟。

それを口にした自分に、カガリ自身も少しだけ驚いていた。


その小さな変化を、ユエルも敏感に感じ取った。


「……お嬢様……」


ユエルの声が、かすかに震えていた。


そのとき、扉がノックされた。


「リュカだ。……入るぞ」


リュカの声とともに、セラフィも入ってくる。

ユエルを見て安堵した表情を見せた二人だったが、傷の包帯を見ると、瞳の奥に怒りの色が灯る。


「……カガリ、お前が調合した治癒薬、使うぞ」


「うん。お願い」


リュカは荷物の中から薬瓶を取り出すと、そのままユエルの前に立った。


「ユエル、俺の部屋に行こう」


「えっ? あの……」


「ここで脱ぎたくないだろ?」


優しく声をかけながら、手を差し伸べる。


ユエルは一瞬、きょとんとした表情を見せるが、言葉の意図を理解すると、申し訳なさそうに小さく首を縦に振った。

戸惑いが残る表情のまま、そっとその手に従う。


「すぐ戻る」とリュカが一言だけ残し、二人は静かに部屋を後にした。

あとに残されたのは、セラフィとカガリ。


「……カガリ、スキルシアー使える?」


唐突な問いかけに、カガリは一瞬まばたきをした。

セラフィの顔を見ると、その視線はまっすぐ、どこか真剣だ。


「え? うん……今?」


「うん。ちょっと、部屋の中を確認してみて」


言われるまま、カガリは小さな眼鏡型のスキル観測具――《スキルシアー》を装着した。


視界に重なる光の干渉波。

その中に、違和感のある揺らぎが映る。


「……なにかある。荷物の下の方、そこ」


セラフィがしゃがみこみ、鞄の裏を探る。


見つけにくい位置に、小さな印のようなものが刻まれていた。

スキル特有の光が微かに灯っている。


「≪感知≫のスキル印か。――位置把握だけで、盗聴まではされていないと思う」


「いつの間に……」


「エルネストは≪感知≫のスキル所有者なの?」


「ううん。表向きにはそういうことにはなってるけど……実際は、お兄様の付き人の力なの。さっき荷物を運んでた、長髪の人……たぶん、彼が」


「……覚えておこう」


セラフィの瞳が鋭く光る。


「今、表向きにって言ったけど……ということは、エルネストはスキル能力者ではないんだ?」


セラフィの問いに、カガリはうーん、と唸る。


「スキルを持ってなくて、面子のために偽ってるのか、

 あるいは、もっと別のスキルを隠してるのか……。正直、私はお兄様のこと、あまり知らないの」


カガリの声が、少しだけ弱々しくなる。


(……そう。この家の事は、よく知らない)


この家で、ずっと遠巻きにされていた日々。

言葉の外で排除され、無能のいらない子だと教えられていた、あの時間。


――思い出しただけで、指先がわずかに震える。


「……大丈夫」


ふわりと、後ろからあたたかい腕がカガリを包む。

驚いて振り返ると、そこには穏やかな笑みをたたえるセラフィの顔があった。


「俺がいるよ」


その言葉が、胸に沁みる。

優しく抱きしめられて、心の奥に滲んでいた不安が、ふっと溶けていくようだった。

怖くない、もう独りじゃない。


(なんか、ほっとするな……)


――そう思った瞬間、不意に気づいてしまう。


(――でも、近い……!)


抱きしめられた温度と匂いに、カガリの顔がじわじわと赤く染まる。


「セ、セラフィ……あの、もう……」

「ん?」


「だ、だいじょうぶだから……もう、いいよ……?」


セラフィはくすりと笑った。


「顔、赤いよ」


その無邪気な笑みに、カガリはさらに耳まで赤くなる。


(セラフィって、リュカより絶対スキンシップ多い……!)


ふいに、窓の外から風が吹き込む。

けれど、カガリの頬の熱は、冷えるどころか、しばらく冷めそうにないのだった。



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