第42話『微笑み』
買い物袋を手に、カガリとユエルは商業通りを抜けていった。
昼をすぎ、陽は高く、瓦屋根の連なる家々を淡い光が照らしている。
「……なんだか、こんなふうに街を歩くの、すごく久しぶりな気がするなあ」
カガリがぽつりと呟くと、隣を歩くユエルも小さく笑って頷いた。
「僕もです。……けど、こうしてご一緒できて、すごく嬉しいです」
日差しのなか、買い物袋を提げながら並んで歩くその時間は、どこまでも穏やかで、温かかった。
――だが。
油断は、一瞬だった。
「おい、そこの姉ちゃん。えらく景気よさそうじゃねえか」
背後からの声。
咄嗟に振り向いたときにはもう、カガリの腕は乱暴に掴まれていた。
「あっ――」
粗末な布を巻き付けただけの衣服。酒の匂いと油の染みついた身体。
目の前の大柄な男が、にやつきながら、こちらを見下ろしている。
その背後には、似たような男がさらに二人。
通りの横道に誘い込むような形で、完全に包囲されていた。
「すみません、急いでるので――」
冷静に言葉を返し、腕を振りほどこうとした。が、男は力任せに腕を引いた。
刹那、カガリの体がぐっと引き寄せられる――
「やめてください!」
ユエルが男に向かって声を張った。
高く、けれどどこか硬質なその声に、男たちは鼻で笑う。
「なんだぁ? ガキがしゃしゃり出てきやがって。邪魔すんな……!」
男の腕が振りかぶられた、その瞬間――
──ギギギ……ッ。と音がした。
耳ではない、感覚に響くような音。
空間そのものが、何かに逆らうように軋んだ。
風が巻き戻る。空気の流れが逆流する。視界が揺れ、世界が歪んで見えた。
目の前にいたはずの男の腕が、ふいに遠のく。
気づけば――カガリの身体は、数歩ぶん、後方へと戻っていた。
まるで、誰かの手に引き戻されたかのように。
「……え……?」
思わず息を呑み、見開いた目が周囲をさまよう。
景色は変わらない。けれど確かに、何かが巻き戻されたような感触が残っている。
脳が、時差に追いつけないような違和感。
男たちもまた、一瞬の空白に呆然としていた。
その隙を縫うようにして――
「……今のうちに、行きましょう!」
ユエルが、静かにカガリの手を引いた。
冷たくも、確かなその手に導かれて、カガリは一歩を踏み出す。
そしてふたりは、別の路地へと身を滑らせた。
古びた石段の陰。
狭い路地の奥でようやく足を止めたふたりは、肩で息をつく。
追跡者の気配は、もうない。
カガリは、隣にいるユエルを見た。
表情は変わらず穏やかだった。けれど――胸の奥に残る、さっきの違和感が拭えない。
「……さっき、何をしたの?」
問うと、ユエルは一拍だけ間を置いて、小さく微笑んだ。
「ん。ちょっとだけ……得意なことをしただけです。……秘密ですよ?」
冗談めかした口調だったが、その笑顔はほんの少しだけ、ぎこちなかった。
(…………?)
カガリは、ふと隣に立つユエルの顔を見やり――そこに、違和感を覚える。
まじまじと見つめて、ほんの一瞬、思考が止まる。
どこかが違う。さっきと、印象が違う。
(……なんだろう。さっきより、少し……)
目元を隠すように垂れる、前髪。
それが、ごく自然に、ユエルの目の半分ほどを覆っていた。
(髪……伸びてる?)
思わず、まばたきをした。
つい数分前まで、あんな位置にはなかったはずの髪の毛。
一晩で伸びる長さじゃない。まして、さっきまで気づかなかったのだ。
(なんで……? 気のせい……?)
首を傾げたその動きに合わせるように、ユエルもまた、まねをするように小首をかしげた。
「……怪我とか、してないですか?」
「……あ、うん。大丈夫。ありがとう」
「なら、よかったです」
静かに返されたその言葉は、どこまでも穏やかだった。
けれど、その笑顔の奥に隠された“何か”を、カガリの直感は、確かに感じ取っていた。
何が起きたのかはわからない。けれど、あの“巻き戻るような感覚”は、この少年が起こした現象だ。
カガリの胸に、静かな波紋が広がっていた。
「……ユエル――」
言いかけた、その瞬間。
「ほんとうに、寄り道がお好きね、ユエル」
――声が、空気を凍らせた。
氷を削るように冷たい声音。嘲るような響き。
カガリが反射的に身構えると、細いブーツの足音が、路地の奥からゆっくりと響いてくる。
向けた視線の先に立つのは、整えられた金の髪をなびかせた、貴族然とした美貌の少女。
――ルシェリア・エルグレア。
「あーらあら。お嬢様のはずのあんたが、自分で買い物? 偉いわねえ、泣けてきちゃう」
甘ったるい声音に毒をひそめ、ルシェリアはゆっくりと歩を進めてくる。
その指先が、ユエルの肩に触れたとき、カガリの背筋に寒気が走った。
ユエルは一歩も引かず、けれど抗わず、静かに頭を下げた。
「……も、申し訳ありません、ルシェリア様。僕の不注意で、少し時間を――」
その声音は、どこまでも従順だった。
だからこそ、カガリの胸の奥がぐっと痛む。
歯を噛みしめて、一歩踏み出した。
「ユエルに手紙を渡したのはあなたなの?
――そんなことしなくても、《転移》で自分が来ればよかったでしょう!」
抑えきれない怒りが、思わず言葉になって飛び出す。
だがルシェリアは、微笑すら崩さず、まるで芝居でも見るような顔つきで言った。
「私が行ったら、お姉さまは、門前払いするでしょ?
それに……久しぶりに、可愛い、可愛い、ユエルに会えてよかったじゃない。私のおかげよ?」
どこか楽しげに、駒を進めるような調子。
まるで自分がこの場の“演出家”であるとでも言うような空気だった。
ふと、ルシェリアの視線がユエルの足元に落ちた。
その目が細められる。
さきほど買い与えたばかりの、新しい靴。
丁寧に仕立てられたそれが、彼の足元で控えめに光っていた。
「……はぁーーーー。あんたって変わらないのね。
お人好しで、無駄に誰かに優しくしようとするそれ」
言い捨てるようなその声に、カガリの目がすっと細まる。
「……ルシェリア」
一言、低く呼ぶと、ルシェリアはそのまま言葉を重ねた。
「そうやって聖人ぶるところ、昔からまったく変わらない。
あんたのそういうところが昔から嫌いなの。優しくした見返りで、好かれたいだけのくせに」
静かだった空気が、ぴり、と音を立てて張り詰める。
今にも火花が散りそうな一触即発の空気――
その中心で、ユエルがすっと頭を下げた。
「……ご、ごめんなさい、ルシェリア様。すぐに帰ります。だから、どうか、これ以上のことは……」
その声が、ふたりの間に落ちた。
ルシェリアはしばらくカガリを見つめていたが、やがて肩をすくめ、小さく笑う。
「……ふん。ま、いいわ。手紙がちゃんと届いたか、確認しに来ただけだから。今日はこれでおとなしく帰ってあげる」
ルシェリアの指が空をなぞる。
光の筋が集まり、ハート形に空間が裂けた。
彼女のスキル≪転移≫――空間を跳躍する術。
「ユエル、行くわよ」
その指がユエルの腕を取る。
光が、ふたりを包み込もうとした瞬間――
「まって!」
咄嗟に、カガリの声が空気を切り裂いた。
ユエルが振り向く。その瞳に、一瞬だけ、確かな揺らぎがあった。
迷い。後ろ髪を引かれるような、その一瞬の逡巡。
「ユエル……」
名前を呼びかけるカガリの声が震える。
「僕は……大丈夫です」
ユエルの声は、ゆっくりと、けれどどこか自分に言い聞かせるように続いた。
そして、カガリが言葉を返すよりも早く――光が、ふたりを包む。
裂かれた空間が淡く輝き、空気が揺れる。
ユエルの姿が、光の中に飲み込まれていく。
光に溶けゆくユーンの瞳が、最後の瞬間にこちらを真っ直ぐに見つめ、
かすかに、口の端だけで微笑んだ。
「だめ――!」
手を伸ばすが、もう届かない。
指先をすり抜けるように、転移の光はふっと消える。
残されたのは、誰もいない路地。
静まり返った空間に、風がひとすじ吹き抜ける。
カガリはその場に立ち尽くした。
胸の奥で波紋のように広がる不安と痛みが、呼吸を重くする。
手の中の買い物袋の重みが、奇妙なほど遠くに感じられた。
重さではなく、空しさだけが、手のひらに残されていた。




