第33話『二百年の帰還②』
カイロスの館に着くと、カガリは扉の前に立ち、浅く息を整える。
手を伸ばして、木の扉に釘打ちされた薄い板を、控えめにノックした。
一度目にここを訪れたときは、返答があるまでに時間がかかった記憶がある。(…というか、リュカが引き摺り出した)
だが今回は――すぐに扉が開いた。
顔を出したカイロスが、一瞬、固まる。
見開かれた目に驚きと、どこか呆然とした色が宿った。
「……まさか。本当に……あそこから、生きて帰ってくるなんて」
掠れるような声で呟いたあと、ほんのわずかに笑って。
「……無事で、よかった」
静かにその言葉を受け止め、カガリも微笑み、館の中へと足を踏み入れた。
そして、ポーチの中にしまわれていた布包みを静かに取り出した。
「……静謐の神殿で拾いました。……カゼノアさんの、スキルシアーですよね」
布を解けば、中から現れたのは、朽ちかけた銀の装具。
カガリはそれを、そっと差し出した。
カイロスは、静かに手を伸ばす。
指先が触れた瞬間、まるで時間が止まったかのようだった。
その小さな装具を手に乗せたまま、彼は長く息を吐き出す。
指先で優しく、名残惜しげに表面を撫でながら、低く呟いた。
「……ああ。そうだ。……これだ……」
目を伏せたまま、その手が微かに震える。
「これを見てると……あんたの顔が浮かぶよ、師匠……」
どこか懐かしさを宿しながら、同時に苦しみもにじむ声だった。
部屋に、静かな沈黙が落ちる。
――言うべきか、迷った。
神殿の奥にあった無数の人骨。その中に、カゼノアのものと思しき遺体もあった。
けれど、それを口にする前に、カイロスがそっと口を開いた。
「……言わなくていいさ」
その言葉は、静かに、けれど確かに胸に刺さる。
「わかってたことだ。ずっと……前から」
カガリは、息を呑んだ。
(……――違う)
――それが本当なら……あんな研究室を、作るはずがない。
時の流れを鈍化させる仕組みを作ってまで、時間の淵に踏みとどまっていた彼。
それはきっと、あの人の帰還を、諦めきれなかったからだ。
どこかで、まだ生きていると――そう信じたかったからだ。
ずっと待ち続けていたからこそ、時間の外に身を置いた。
師のスキルシアーが戻ってきた今――
ようやく、その「希望」が、完全に消えてしまったのだ。
ヒビだらけの心を、つぎはぎしながら持ちこたえてきた男は、
今――確かに、音もなく、
壊れているはずだ。
(……私は……なんて、言葉をかけてあげればいいんだろう)
喉の奥でせき止められる言葉たち。
どれも軽すぎるような気がして、言えなかった。
だから、言葉ではなく――
カガリはそっと、カイロスの手に、自分の手を添えた。
彼の手のひらは少し冷たく、固く、そして……震えていた。
不意を突かれたようにカイロスがこちらを見つめ、ぎこちなく口を開いた。
「……そんな顔するなよ」
苦笑するその声が、少しだけかすれているのに気づいてしまって、こらえきれずにカガリの目から涙がこぼれる。
「……なんで君が泣くのさ」
小さく呟くその声が、どこまでも優しかった。
カガリが流す涙を見つめていると、彼の中のなにかが、すこしだけ、ほどけていった。
「……いつのまにか、……二百年も経ってた……。
きっと……もっと早く、目を覚ますべきだったんだ」
小さく笑い、カイロスは顔を伏せた。
「……ありがとな。……ようやく、終わりにできる」
その言葉は、まるで――
長く閉ざされていた扉に、ようやく手がかけられたような声音だった。
カイロスは、抱いていた装具を見下ろし、ひとつ息をつく。
そして、ふっと口調がいつもの軽さを取り戻す。
「はあ……やっぱり、パッと見るだけでも全然違うな。俺が作ったガラクタとは比べ物になんねえや」
「……でも、カイロスさんのスキルシアーも……ちゃんと、助けになってくれてたよ」
そう言って微笑むカガリに、彼は一瞬、目を細め、肩の力を抜いたように笑った。
「……時間をくれ、今度こそ、ちゃんとしたやつを組む。……必ず直すよ、このスキルシアー」
「朝までにはできるから、今日は泊まって」そう言いながら、装具を抱えて奥へと向かおうとする。
けれどその背を、カガリが慌てて呼び止めた。
「……あ、のっ……」
立ち止まったカイロスの手を、そっと握る。
「もし……寂しくなったら、いつでも呼んでください。……夜中でも……飛び起きて行きますから」
その言葉に、彼の肩がわずかに震えた。
「あ、ご、ごめんなさい。……その、なんというか、」
研究室へ向かうカイロスの背が、ひとりきりの寂しさをまとっているように見えて、
気づけば、声をかけていた。
カイロスの反応に、言葉を間違えただろうかと不安になる。
しかし、一拍おいて、カイロスは静かに笑った。
「……ははは。それは……ちょっと、反則じゃない……?」
振り返らずに、ぼそりと呟いたその声に、微かな震えが混じっていた。
少しの間を置いて、ゆっくりと振り返る。
「ありがとう。……まあ嬉しいけどさ、俺も男だってことは忘れないでくれよ?」
照れ隠しのような軽口をひとつ。
カイロスはカガリの頭を、くしゃりと優しくなでた。
それから、もう一言も交わさず、静かに研究室の扉を開け、中へと入っていった。




