第31話『追憶』
夕食を終えたあと、三人は温かな紅茶の湯気に包まれながら、静かにひと息ついていた。
リュカが手元のティーカップを持ち上げながら、ふと口を開く。
「……神殿でのこと、話せるか? 無理にとは言わない。日を置いてからでもいい」
その声音は柔らかくも、真剣だった。
セラフィは一度だけゆっくりとまばたきし、手にしていたカップをそっと皿に戻した。
「……いや、大丈夫。早いほうがいい。俺も……きちんと向き合っておきたい」
言葉を選びながら、少しだけ息を吐いて、続ける。
「正直、記憶は……あまり明瞭じゃない。静謐の神殿には、調査で入ったことは覚えている。だが、何があってああなったのか……詳細は思い出せないんだ」
カガリが、そっとセラフィの横顔を見つめる。
セラフィの瞳は、ほんの少しだけ伏せられ、遠い過去をたぐるように曇っていた。
「ただ……最初に、神殿の律を刻んだときの感覚だけは、うっすら残ってる」
「……“誰も、生きては帰れない”っていう……あの律のこと?」
カガリの問いに、セラフィは静かにうなずいた。
「……あれは、そうするしかないと思った。あの場所に、自分を縛りつけなければならないと感じた。その延長で……神殿に、あんな律が刻まれてしまったんだろう」
「……」
カガリは何も言わず、ただセラフィの言葉を受け止めていた。
「調査隊の亡骸を……見たんだろう?
……覚えていない、けど……きっと、俺が斬ったんだ」
言い切るように、でもどこか苦しそうに、セラフィは呟いた。
「でも……セラフィ……それは、あなたの意思じゃなかった」
カガリが口を開く。小さく、でも確かな声だった。
あの神殿で、“仮面の剣聖”と向き合った時、意思など感じられなかった。
意思どころか、人間としての、温度すらも。
「……ありがとう。……けど、それでも俺は、神殿に“律”を刻んだ。自分に罰を与えようとするだけの意志は、あった。そこに、まだ理性が残っていたのなら………」
セラフィは、そっと視線を落とした。
わずかに揺れる睫毛が、彼の胸の奥に広がる苦悩を映しているようだった。
リュカもまた、言葉を探すように沈黙したまま、ひとつ息をのむ。
そして話題を変えるように、静かに口を開いた。
「……調査隊の中に、魔導士がいた。……覚えてるか?」
「魔導士? ああ……いた。ひとり……」
セラフィは、記憶の奥から引きずり出すように言葉を絞り出す。
「彼は、自ら志願して……半ば無理矢理付いてきたんだ。ダンジョンの“肥大化現象”の原因を探るため、調査隊に同行したいと」
「騎士団からの協力依頼で派遣されたわけではないのか……」
リュカの眉がわずかに動く。
「ああ。何やら、不思議な観測器具を持っていて……」
「これのこと……?」
カガリが立ち上がり、そっとテーブルの端に布に包まれた物を置いた。
中から現れたのは、古びたスキル観測装置――スキルシアーだった。
「……そう、それだ」
セラフィの目が細くなり、微かに揺れる。
「彼はそれで、ダンジョンの中を観察していた。そして……」
そこまで言って、セラフィの声が止まる。
なにかを思い出したように、目がわずかに開かれた。
「……俺のことも、見ていた。あのレンズ越しに、彼が……」
記憶の中。
あの魔導士は、驚いた顔で何かを言った。
「……っ」
ズキリ、と頭を貫く鋭い痛み。
呼び水のように、濁った闇が押し寄せる。
皮膚が焼け、身体が歪み、世界が仮面に覆われていく。
寒さと痛みと、狂気――。
そう……そして、自分は――。
「セラフィ!? 大丈夫!?」
カガリの声が弾ける。
その声に引き戻されるように、セラフィは肩を震わせて顔を上げた。
「顔色が……すごく悪い……」
「……すまない。……なにかを、思い出せそうだったんだけど……」
「無理しないで。……大丈夫、焦らなくていいよ」
カガリの言葉に、セラフィは小さくうなずいた。
「少し……落ち着かせたい。風にあたってくる」
そう言って椅子を立ち、静かにダイニングを後にする。
その背中を、カガリとリュカが無言で見送った。
沈黙の中、リュカがぽつりと漏らす。
「……カゼノアを斬ったのは、やはりセラフィなのだろう」
カガリは、机の上に置かれた布包み――スキルシアーに目を落とす。
その古びた筐体が、静かに何かを物語っているようだった。
「……明日、カイロスさんの館に行こうと思うの。これを、渡しに」
「……ああ、そうだな」
「道は覚えてるし、一人で行ってこようと思ってる」
リュカが、やや驚いた顔でこちらを見る。
「セラフィは、連れていかない方がいいのかなって……。
でも、……今は、誰かが彼のそばにいてあげてほしいの。……一人にはできない」
リュカは少し迷うような顔をして、口を開きかける。
「……なら、俺が届けに行こう。カガリを一人で行かせるなんて――」
「だーめ!」
カガリはぴしゃりと指を立てる。
「リュカは、まだ怪我人なんだよ。明日、ちゃんと治療士に診てもらって」
「普通にしてて治るなら、それで問題な――」
「ダメ! もう。ディルさんとおんなじこと言ってる……」
「……」
「心配しないで。私も冒険者ランクDなんだから、隣町に行くくらい一人大丈夫!」
口をとがらせながらも、強く言い切るカガリ。
リュカは、少し困った顔をしたまま、ようやくしぶしぶ引き下がった。
◇ ◇ ◇
「……なんて言ったものの――」
森の中で、カガリはぽつりと呟いた。
その表情には、明らかに困惑の色が浮かんでいる。
地図も持ってきた。道も間違えてはいないはずだった。
街を出て、街道に沿って歩き、途中の小さな町を越えて。
――昼過ぎには、カイロスの館に着くはずだった。
けれど。
「……ここ、どこ?」
見上げた空は高く、日差しもすっかり登りきっている。
なのに、自分は――森の中にいた。




