表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
31/120

第30話『景色』


旅の荷ほどきを終えて、二人で日用品の買い出しに出ることにした。


二人で石畳の道を並んで歩く。

いつの間にか、空は淡く黄昏に染まり始めていた。


街を進むたびに、セラフィはその目を細め、立ち止まり、

何かに触れ、何かを確かめるようにして周囲を見渡していた。

その様子は、どこか落ち着かなくも見えたが、抑えきれない興味の色がそこにはあった。


看板の文字を目で追いながら、

「……昔と同じ文字のはずだけど、書体が少し違う気がする」と呟き、


湯気を立てる串焼きの屋台の前では、

「あれは……食べられるものなの?」と、眉をひそめて訊ねてくる。


(……あの頃のリュカも、こんなふうだったな)


ふと、初めてこの街に来た頃のリュカを思い出す。


無口で、どこか周囲に馴染めず、それでも日々の暮らしに、少しずつ色を取り戻していった彼。

今ではこの街の空気の中に、すっかり溶け込んでいる。


(セラフィも、きっと……この景色に馴染んでいけるよね)


そんなことを思いながら歩いていると――

セラフィがふと、立ち止まった。


「セラフィ?」


彼は、小さな広場にある井戸を見つめていた。


井戸の脇には、木製の水車式の汲み上げ装置。

通りすがりの女性が軽やかに足でレバーを踏むと、内部の滑車が回転し、桶の中へと水が注がれていく。


「……あれは、水車仕掛けで動く井戸だよ」

カガリが隣から、そっと声をかける。


「レバーを踏むと滑車が動いて、水が上がってくるの」

「へえ……」


セラフィは目を細め、ゆっくりと井戸へ歩み寄った。

井戸の縁に指先を置き、水が滴り落ちるその音に、静かに耳を傾ける。


「……力のない人でも使えるように、か。……優しい工夫だ」


ぽつりとこぼれたその声に、静かな温度が滲んでいた。

水音の向こうに、なにか遠い記憶でも聴いているようだった。


しばらくそうしてから、彼はふっと、空を見上げた。


夕暮れの街は活気に満ちていた。

子供の笑い声、行き交う人々の声、焼きたてのパンの香り。

日常のすべてが、優しく流れていく。


「……平和だ」


その言葉は、ごく小さく、けれど確かな重みを持っていた。


小さく目を伏せ、言葉を選ぶように、ひと呼吸置く。


「……自分の行動が、誰かを救えていた。

 そう、信じられた日々が、確かにあったんだ。

 剣を握った意味を……胸を張って語れた時代が……俺にもあった」


空気に染み入るようなその声は、どこか懐かしげで。

けれど同時に、消えかけていた火を、もう一度胸の奥で探すようでもあった。


「……こういう景色が、見たかった。

 だから……俺は、最後まで――剣を捨てられなかったんだ」


夕暮れに満ちる街の喧騒を受けとめるように、そっと目を閉じる。

セラフィの声には、押し殺していた熱が宿っていた。


――誰よりも強く、誰よりも正しくあろうとした人。


力の重さと、その責任に、一人で耐え続けた彼が、今ようやく――

それでも生きてきてよかったと思える、ほんのわずかな手ごたえを得たのかもしれない。


「ありがとう。この景色を見せてくれて」


セラフィの言葉に、胸の奥がぎゅっと熱くなった。


黄昏の光に、セラフィの白金の髪が溶ける。

セラフィの銀の瞳には、確かに――“生”の光が宿っていた。



◇  ◇  ◇



二人が屋敷に戻り、扉を開けると、ふわりと、温かな匂いが鼻先をくすぐった。


スープと、焼きたてのパンの香ばしい香り――

それに続いて、キッチンから現れたのは、エプロン姿のリュカだった。


「おかえり。ちょうど、できたところだ」


ダイニングテーブルには、主菜、副菜、スープ、焼き立てのパンまで並んでいる。

彩りも豊かで、まるで宿屋の晩餐のように豪華だった。


「……君、本当に、リュカ・ヴァレト?」


セラフィが小さく呟いた。


ぽかんとした表情でテーブルを見渡しながら、まるで目の前の景色が信じられないように。


「……どういう意味だ?」

「いや……」


首を傾げるリュカに、セラフィはどこか照れたように言葉を濁す。


かつての、戦場に立つリュカしか知らない彼にとって――

エプロン姿で料理を振る舞うその姿は、確かに想像の外だったのかもしれない。


そんなふたりのやり取りに、カガリはつい、くすりと笑った。


つい先日まで、あんな激しい戦いの中にいたとは思えないほど――穏やかな空気がそこにあった。


……そのとき、ふと。

湯気が立つ皿の向こう――整えられたはずの食卓に、小さな違和感をみつける。


目を凝らせば、そこにある食器は三人分。


一つ、足りない。


「……ああ、ナミルが、さっき素材屋から戻ってきて――」

視線に気づいたリュカが、食器を置く手を止めて言う。


「用ができたと言って、街を出て行った。三日後の協会からの聞き取りは、俺たちに任せると」


「え……そんな、急に?」


昼間の、ナミルの様子を思い返す。


どこか落ち着きのない様子だった。

屋敷の中をきょろきょろ見て、どこか遠慮がちで――

あのときは気づかなかったが、今になって、少し胸がざわついた。


(……誘ったの、よくなかったのかな)


問いは、言葉にならないまま胸の内に沈む。


テーブルの端には、預けていた素材袋が置かれていた。

手に取ると、中には、換金された金貨と――折りたたまれた紙片が入っていた。


『楽しかった、ありがとう。 またな!』


たったそれだけの、短い別れの言葉。

けれど、ナミルらしくて、思わず少し笑ってしまった。


「もともと、群れずに生きてきた奴なんだろう。現れる時も急だったし、去り際も風のようだった。

 そのうちまた、ふらっと現れるさ」


「……そうだね。でも……お別れの前に、ちゃんとありがとうって言いたかったな」


胸の奥に、ほんの少しだけ、ぽつりと小さな穴があいたような感覚が残る。


けれど――

それでも、また会えるような気がした。

なんとなく、根拠のない、けれど確かな予感として。


「冷めないうちに、食おう」


リュカの言葉に、こくりと頷く。

あらためて、三人で席に着いた。


「うん……おなか、ぺこぺこ」


テーブルに置かれたスープが、かすかに湯気を揺らしていた。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ