第30話『景色』
旅の荷ほどきを終えて、二人で日用品の買い出しに出ることにした。
二人で石畳の道を並んで歩く。
いつの間にか、空は淡く黄昏に染まり始めていた。
街を進むたびに、セラフィはその目を細め、立ち止まり、
何かに触れ、何かを確かめるようにして周囲を見渡していた。
その様子は、どこか落ち着かなくも見えたが、抑えきれない興味の色がそこにはあった。
看板の文字を目で追いながら、
「……昔と同じ文字のはずだけど、書体が少し違う気がする」と呟き、
湯気を立てる串焼きの屋台の前では、
「あれは……食べられるものなの?」と、眉をひそめて訊ねてくる。
(……あの頃のリュカも、こんなふうだったな)
ふと、初めてこの街に来た頃のリュカを思い出す。
無口で、どこか周囲に馴染めず、それでも日々の暮らしに、少しずつ色を取り戻していった彼。
今ではこの街の空気の中に、すっかり溶け込んでいる。
(セラフィも、きっと……この景色に馴染んでいけるよね)
そんなことを思いながら歩いていると――
セラフィがふと、立ち止まった。
「セラフィ?」
彼は、小さな広場にある井戸を見つめていた。
井戸の脇には、木製の水車式の汲み上げ装置。
通りすがりの女性が軽やかに足でレバーを踏むと、内部の滑車が回転し、桶の中へと水が注がれていく。
「……あれは、水車仕掛けで動く井戸だよ」
カガリが隣から、そっと声をかける。
「レバーを踏むと滑車が動いて、水が上がってくるの」
「へえ……」
セラフィは目を細め、ゆっくりと井戸へ歩み寄った。
井戸の縁に指先を置き、水が滴り落ちるその音に、静かに耳を傾ける。
「……力のない人でも使えるように、か。……優しい工夫だ」
ぽつりとこぼれたその声に、静かな温度が滲んでいた。
水音の向こうに、なにか遠い記憶でも聴いているようだった。
しばらくそうしてから、彼はふっと、空を見上げた。
夕暮れの街は活気に満ちていた。
子供の笑い声、行き交う人々の声、焼きたてのパンの香り。
日常のすべてが、優しく流れていく。
「……平和だ」
その言葉は、ごく小さく、けれど確かな重みを持っていた。
小さく目を伏せ、言葉を選ぶように、ひと呼吸置く。
「……自分の行動が、誰かを救えていた。
そう、信じられた日々が、確かにあったんだ。
剣を握った意味を……胸を張って語れた時代が……俺にもあった」
空気に染み入るようなその声は、どこか懐かしげで。
けれど同時に、消えかけていた火を、もう一度胸の奥で探すようでもあった。
「……こういう景色が、見たかった。
だから……俺は、最後まで――剣を捨てられなかったんだ」
夕暮れに満ちる街の喧騒を受けとめるように、そっと目を閉じる。
セラフィの声には、押し殺していた熱が宿っていた。
――誰よりも強く、誰よりも正しくあろうとした人。
力の重さと、その責任に、一人で耐え続けた彼が、今ようやく――
それでも生きてきてよかったと思える、ほんのわずかな手ごたえを得たのかもしれない。
「ありがとう。この景色を見せてくれて」
セラフィの言葉に、胸の奥がぎゅっと熱くなった。
黄昏の光に、セラフィの白金の髪が溶ける。
セラフィの銀の瞳には、確かに――“生”の光が宿っていた。
◇ ◇ ◇
二人が屋敷に戻り、扉を開けると、ふわりと、温かな匂いが鼻先をくすぐった。
スープと、焼きたてのパンの香ばしい香り――
それに続いて、キッチンから現れたのは、エプロン姿のリュカだった。
「おかえり。ちょうど、できたところだ」
ダイニングテーブルには、主菜、副菜、スープ、焼き立てのパンまで並んでいる。
彩りも豊かで、まるで宿屋の晩餐のように豪華だった。
「……君、本当に、リュカ・ヴァレト?」
セラフィが小さく呟いた。
ぽかんとした表情でテーブルを見渡しながら、まるで目の前の景色が信じられないように。
「……どういう意味だ?」
「いや……」
首を傾げるリュカに、セラフィはどこか照れたように言葉を濁す。
かつての、戦場に立つリュカしか知らない彼にとって――
エプロン姿で料理を振る舞うその姿は、確かに想像の外だったのかもしれない。
そんなふたりのやり取りに、カガリはつい、くすりと笑った。
つい先日まで、あんな激しい戦いの中にいたとは思えないほど――穏やかな空気がそこにあった。
……そのとき、ふと。
湯気が立つ皿の向こう――整えられたはずの食卓に、小さな違和感をみつける。
目を凝らせば、そこにある食器は三人分。
一つ、足りない。
「……ああ、ナミルが、さっき素材屋から戻ってきて――」
視線に気づいたリュカが、食器を置く手を止めて言う。
「用ができたと言って、街を出て行った。三日後の協会からの聞き取りは、俺たちに任せると」
「え……そんな、急に?」
昼間の、ナミルの様子を思い返す。
どこか落ち着きのない様子だった。
屋敷の中をきょろきょろ見て、どこか遠慮がちで――
あのときは気づかなかったが、今になって、少し胸がざわついた。
(……誘ったの、よくなかったのかな)
問いは、言葉にならないまま胸の内に沈む。
テーブルの端には、預けていた素材袋が置かれていた。
手に取ると、中には、換金された金貨と――折りたたまれた紙片が入っていた。
『楽しかった、ありがとう。 またな!』
たったそれだけの、短い別れの言葉。
けれど、ナミルらしくて、思わず少し笑ってしまった。
「もともと、群れずに生きてきた奴なんだろう。現れる時も急だったし、去り際も風のようだった。
そのうちまた、ふらっと現れるさ」
「……そうだね。でも……お別れの前に、ちゃんとありがとうって言いたかったな」
胸の奥に、ほんの少しだけ、ぽつりと小さな穴があいたような感覚が残る。
けれど――
それでも、また会えるような気がした。
なんとなく、根拠のない、けれど確かな予感として。
「冷めないうちに、食おう」
リュカの言葉に、こくりと頷く。
あらためて、三人で席に着いた。
「うん……おなか、ぺこぺこ」
テーブルに置かれたスープが、かすかに湯気を揺らしていた。




