第2話『再生の兆し』
馬車の車輪が土を軋ませる音が、遠ざかっていく。
残されたのは、風の音と――誰もいない、寂れた館だけだった。
カガリは、母の形見である銀のブローチを握りしめながら、軋む扉を押し開ける。
(……ほんとうに、誰もいない)
辺境の森の外れにあるこの館は、かつてカガリの母が暮らしていた場所。
父の再婚後は放置され、使用人すら寄りつかない“空き家”となっていた。
だが今は、彼女の“追放先”だった。
埃をかぶった階段。ひび割れた窓枠。
それでも、どこか懐かしさを感じるのは、子どもの頃にほんの短い間だけここを訪れた記憶が、微かに残っているからかもしれない。
「……ただいま。お母さん」
誰もいない屋敷に向けて呟いたその声は、虚空に吸い込まれていく。
鼻をつくのは乾いた埃と、湿気の混ざった木の匂いだった。
薄暗い廊下に、誰の気配もない。
――いや、もう長い間、誰もここを訪れていないのだろう。
蜘蛛の巣のかかった壁、床に積もった枯れ葉と砂。
それでも、この場所だけは、カガリにとって“戻ることを許された最後の居場所”だった。
カガリは旅装の裾を払って玄関に上がると、深く息を吐いた。
「……片づけ、からだね」
それは、誰にも聞かれることのない独り言。
けれどその声に、屋敷がかすかに応えたような気がした。
最初に手をつけたのは、かつて母が暮らしていた私室だった。
窓はきちんと閉じられていたはずなのに、隙間風で砂が入り込み、床はうっすらと灰色に染まっていた。
枕元に置かれていた古い布団は、湿気とカビにまみれており、とても眠れるような状態ではない。
それでもカガリは、黙々と掃除を続けた。
「はあ、やらなきゃいけないことが、がたくさん……」
ぽつりと吐いた弱音は、誰の耳に届くこともなく、古い木の壁に吸い込まれていった。
水場の位置を確認し、バケツに水を汲んで床を拭く。
棚に積もった埃を払い、何度もぞうきんをすすぎ直しては、手を動かし続ける。
途中、古びた食器や、半壊した椅子に小さくため息を漏らすこともあったが――
(手を動かしてる間だけは、何も考えなくてすむ)
そう自分に言い聞かせるように、彼女は働いた。
やがて、夕暮れが迫り、部屋の窓から差し込む光が、埃の粒を黄金色に染めていた。
私室の片付けをひと段落させたあと、カガリはふと廊下の奥を見やった。
そこには、重く閉ざされた扉。
錆びた金属の取っ手には、いつか昔にみた、母の指輪の装飾と似た紋が掘られていた。
「……書斎、だったかな」
昔、母に手を引かれてこの部屋を覗いた記憶がうっすらと残っている。
おそるおそる扉を開けると――中は、薄暗い空間だった。
窓のカーテンは閉じられ、光はほとんど入らない。
その代わり、室内の空気には、古紙とインクの匂いが染みついていた。
「……こっちも、ひどいな」
床には本が散らばり、書棚の一角は崩れかけていた。
椅子の脚も折れ、机の上には埃の層が積もっている。
それでもどこか、ここだけは“時が止まっている”ような、不思議な静けさがあった。
カガリは、日が暮れる前に少しでも片付けようと、再び手を伸ばした。
倒れた椅子を脇に寄せ、棚から落ちた書物を積み直し、机に溜まった埃をぞうきんで拭う――
そのときだった。
ぞうきんが滑った机の表面から、“何か”が音を立てて転がり出てきた。
小さな、金属製の装置だった。
眼鏡のような形だが、明らかに“道具”のそれではない。
片方のレンズにだけ、薄く刻まれた魔導式の文様。
そして、錆びかけたフレームに、読めない古い文字が刻まれている。
「ルーン文字、かな……?」
何気なく拾い上げたその瞬間――
なにかが、彼女の中でざわめき始めていた。
(……なんで、こんなものが……?)
そっと机の上に置き直し、カガリはその装置をまじまじと見つめた。
これは、母のものだろうか。それとも、もっと古い時代の何か……?
カガリは恐る恐るその小さな装置を装着してみる。
右目だけを覆うように取り付けると、次の瞬間――激痛が、頭を貫いた。
「……っ、あ……!」
視界が歪み、耳が裂けるような音が流れ込んでくる。
「……なにっ、……うぅっ」
部屋の中が、まるで二重写しのように波打って見える。
体が崩れ、彼女は思わず壁際に倒れ込んだ。
倒れた先には、ひびの入った古びた鏡。鏡の中で、見覚えのない“揺れる光の帯”が浮かんでいた。
鏡に映る自分の胸元から、淡く揺らめく“波紋”のようなものが広がっている。
銀のブローチ。その中心から、微かな光のゆらぎ。
(……光ってる……?)
ブローチを取り外し、確認する。
その中央から、淡く光る波紋が浮かんでいた。
ブローチを裏返し、驚く。
その裏には、あるものが刻まれていた。
見たことがある、“スキル印”と呼ばれる形が。
──《感知》。
それは、兄、エルネストの従者が持つスキルだった。
印を刻み込んだ対象の位置を探知する、監視・追跡用のスキル。
“最後の情け”として渡されたブローチ。
けれどそれは、彼女の動向を監視するために仕込まれた“発信機”だったのだ。
優しさを装った裏切り。
期待すらしていなかったはずなのに、心の奥が静かに冷えていくのがわかる。
(……私、ずっと……見張られてたんだ)
怒りでも悲しみでもなかった。
それは、ただ静かに――彼女の中で“何か”が、決定的に壊れていく感覚だった。
(……こんなもの……消えて!)
その強く切実な願いが、視界の中の波紋を突き破った。
波紋が、砕けた。
ブローチの光が一瞬だけ閃き、そして……消える。
──《解除》。
それは初めて、カガリのスキルが発動した瞬間だった。
“意図的”ではなかった。
“理屈”でもなかった。
(……使えた……?)
ブローチの裏に刻まれていたはずの、スキルの波紋は跡形もなく消えていた。
驚きと同時に、ひと筋の希望が胸に宿る。
だがそれも束の間、視界が急に暗くなり、足がもつれる。
カガリの身体は、音もなく床に崩れ落ちた――
そして、再び静寂が、辺境の館を包み込んだ。
※こちらの作品は、『カクヨム』でも連載しています。
https://kakuyomu.jp/works/16818622177469889409
カクヨムの近況ノートにて、キャラクターのラフスケッチを描いていくので、
もしビジュアルのイメージに興味がある方は覗いていってください。