第28話『呪縛の終わり』★
黄金の装甲が、音もなく――風に舞うように崩れ落ちていく。
ひとつ、またひとつと剥がれ落ち、その下から現れたのは、
色素の薄い、透けるような肌と、淡く明るい白金の髪を持つ男だった。
あまりにも静かで、あまりにも美しい――
……それが、かつて“最強の剣聖”と呼ばれた男、セラフィの姿だった。
仮面に覆われていた眼差しが、ゆっくりと――初めて、まっすぐにカガリを見つめた。
空と霧の境を思わせるような、銀の瞳。
その視線に、もはや殺意はない。
ただ、長い長い時を経て、ようやく誰かと目を合わせることを許されたような、
静かで、どこか温かな光が揺れていた。
正気を取り戻したセラフィは、静かに剣を納めると、崩れるように膝をつく。
剥がれ落ちた装甲が、崩れてただの灰になる。
風に乗ってふわりと舞い、彼の肩からそっと離れていった。
震えていたのは、肩か、手か、それとも――心か。
しばらくの間、誰も、言葉をかけることができなかった。
――セラフィ・エグザル。
彼は、常に“正しく”あらねばならないと、己を縛り続けてきた男だった。
《絶対律》という絶大なスキルは、一切の抵抗を許さない。
すべてをねじ伏せる、圧倒的な“力”。
それは時に、セラフィの意図とは無関係に、
彼の周囲に――無慈悲な“刃”として突き立つことがあった。
ほんの些細な決断が、すべてを焼き尽くしてしまったこともある。
たとえ、その選択が「誤り」ではなかったとしても。
取り返しのつかない結果が訪れるたびに、彼はそれを“自分の過ち”と感じていた。
絶対的な力を持つ者には、絶対的な責任が伴う。
律とは、世界に刻む命令――それも、“絶対の命令”だ。
ならば、誤ってはならない。
ならば、心を乱してはならない。
ならば、力にふさわしい人間でいなければならない。
そうして彼は、感情を殺し、意志を封じ、
誰かと過ごす温もりまでも、自ら遠ざけて生きてきた。
だが、……それでも、過ちは起きた。
どれだけ慎重に律を刻もうと、
その力はときに狂いを生み、誰かを傷つける。
またひとつ、またひとつと、
取り返しのつかない出来事が積み重なっていくたびに、
セラフィの心に巣くったのは――
「自分は、力を持つに値しない存在だ」という、強烈な自己否定だった。
“生きて帰ってはならない。”
彼がこの神殿にかけた《絶対律》は、外敵を拒むためではない。
それは――自らを、永遠にこの場所に封じるため。
“罰”として、彼自身に課した呪いのようなものだったのだ。
律とは、世界に刻む“法”。
彼はその力で――自分の人生すら閉ざしていた。
しかし、いま。
《解除》の力が、その呪縛を静かに、けれど確かに――断ち切った。
「………………ありがとう」
ぽつりと零れたセラフィの声は、
どこまでも静かで、どこまでも人間的だった。
その震えのなかには、
力ではない、弱さに似たあたたかさが宿っていた。
「……まだ……俺に、“帰っていい”って……言ってくれる人が、いたんだな……」
かすかに揺れた瞳に、光がにじんだ。
言葉にならない想いが、胸の内で静かに溢れていく。
その姿を見つめながら、カガリは小さく、深く頷いた。
――その一言に込められていたのは、誰かからの赦しだけではない。
セラフィ自身が、自分を赦すための、最初の一歩だった。
「……セラフィ……」
リュカが、息を吐くように名を呼ぶ。
振り返ったセラフィは、かすかに微笑を浮かべた。
「……やあ。……久しぶりだな、リュカ……」
仮面の奥に閉じ込められていた声が、
いまや確かに、“生きている人間”の響きを取り戻していた。
傷ついたリュカの身体を支えながら、
カガリたちは、ゆっくりと神殿の出口へと向かう。
“誰も生きて帰れない”と恐れられていた、静謐の神殿。
その呪いが、今――確かに終わりを告げたのだった。
◇ ◇ ◇
同じ頃。
王都の中心、白銀の塔の奥にある王宮の一室では、重厚な静けさが支配していた。
部屋の中央――
磨き上げられた木製の大机の上に、精緻な世界地図が広げられている。
色の薄れた紙面には、各地に点在するダンジョンの座標が記されていた。
その地図をじっと見つめるのは、ひとりの女性。
深紅の礼装を纏い、背筋をまっすぐに伸ばした姿には威厳があった。
――王国の現女王陛下。名を、アストレア・レーヴァティア。
その目は、ある一点を捉えたまま微動だにしない。
まるで――何かを、確信しているかのように。
扉が、静かに開く。
中に入ってきたのは、黒衣の報告官だった。
「……報告を」
彼女がわずかに顔を向け、低く告げる。
「イースバレー荒地にて観測された龍晶の深窟に、微細な歪曲の兆候が確認されました」
「龍晶の深窟……」
その名をゆっくりと繰り返し、彼女は地図のその地点を指先でなぞる。
「現時点では、まだ初期段階……ですが、肥大化の兆しと見て間違いありません」
「……そうか」
彼女は小さく、しかし確かな口調でそう応じた。
その横顔には、かすかに――重たく沈んだ影が差していた。
長く揺れ動く白銀の髪。
その奥の瞳が、再び世界地図の一点へと向けられる。
やがて彼女は、かすかに唇を動かす。
「……まだ、終わっていない」
その声は、どこまでも静かで、どこまでも確かだった。




