第20話『騎士の誓い』
カガリは、カイロスの屋敷を飛び出し、荒れた中庭へと駆け込んだ。
手入れのされていない草地を、彼女の足音だけが静かに踏みしめていく。
やがて、図鑑を胸に抱いたまま、立ち止まる。
風に揺れる前髪を気にもせず、カガリはそっと空を仰いだ。
「…………」
空は、高く、どこまでも静かだった。
その背後から、草を踏む音が近づいてくる。
「カガリ……!」
声に振り返るよりも早く、リュカが駆け寄ってきた。
息を切らせながら、彼女の前で立ち止まり、言葉を絞り出す。
「すまない……あんな言い方、するつもりじゃなかった」
けれど、カガリの表情に、責める色はなかった。
むしろ、少し驚いたように目を見開いて、それから――静かに、首を振った。
「私こそ……ごめんね」
「いや、何も悪くない。悪いのは……俺のほうだ」
「そんなこと……!」
「そんなことない……」と、否定した言葉は、少し掠れていた。
少しの沈黙の後。
カガリは、ぽつりぽつりと、言葉を零しはじめる。
「……スキルがあるってわかったとき、家族は少しだけ喜んでくれたの。
でも、《解除》が使えないってわかった瞬間から、急に手のひらを返された。
“使えない子”って、ずっと……言われてきた。……母がいなくなってからは、特に」
唇を噛みながら、それでも笑おうとする。
「……私ね、ずっと思ってたの。
なんでこんなスキル、持って生まれてきたんだろうって。
でも……リュカを助けられて、その意味を少しだけ見つけられた気がして……」
言葉が途切れる。
カガリの頬から、ぽたりと涙がこぼれた。
「あ……えと……」
――思い出したら、涙があふれてきた。
慌てて顔をそらして、目元を拭う。
(ここで私か泣いたら、リュカが傷つく……)
「ご、ごめんね……泣いて……」
なんとか、笑おうとする。
「これは、リュカのせいじゃなくて……」
でも、じわじわと目にたまる涙が、言うことを聞いてくれない。
鼻をすする音だけが響く。
リュカは、無言で首を振った。
その沈黙を破るように、リュカがそっと彼女に歩み寄る。
そして、静かに、優しく――その身体を抱きしめた。
彼女の肩にそっと添えた手に、言葉の代わりの想いを込める。
「……俺は……」
何かを言いかけたそのとき――
カガリの足元に、そっと一輪の白い薔薇が咲いた。
小さなその花は、淡く光る花粉を舞わせながら、彼女の足にそっと触れる。
カガリの胸の奥に、ふわりと落ちた重石が、静かに、音もなく、溶けていく。
リュカの手が、かすかに震えていた。
何も言わずとも、その花が――彼の想いを伝えてくれていた。
カガリの言葉に応えるように、白い薔薇はもう一枚、ゆっくりと花弁を開いた。
「……ありがとう。慰めてくれて」
やがて彼女は、涙を湛えながらも、かすかに微笑んだ。
リュカはそっと、カガリを腕の中から離す。
その両肩に手を添え、視線の高さを合わせて、まっすぐに見つめた。
そして、静かに、けれど確かな言葉で告げた。
「……お前が行きたいと言うなら、俺は止めない」
「……え?」
「何処へだって、ついていく。
カガリが行きたいと望む場所へ――俺が連れていく。
そして、どんな危険からも……お前を守る」
その言葉は、熱くも激しくもなかった。
ただ、凪いだ海のように静かで――けれど、深く揺るぎないものだった。
まるで、それが当たり前のことだとでも言うように。
まるで、自分の選んだ道が最初からそこにしかなかったとでも言うように。
カガリは、息を呑んだ。
「どうして……そこまで、してくれるの……?」
小さく、震える声だった。
“無能”と呼ばれた日々が、心の奥にまだ残っている。
その言葉が、何度も何度も、彼女の存在価値を削ってきた。
そんな自分に、「お前を守る」と言ってくれる人がいていいのか――
カガリの問いに、リュカは一瞬、目を伏せてから――再び真っ直ぐ見つめ返す。
「大切にしたいんだ。……カガリのことを。カガリの“気持ち”も、ちゃんと――」
静かで、優しい声音だった。
けれど、その奥にある想いは、しっかりと届いてくる。
そのまっすぐな言葉に、カガリの目から、また涙が溢れた。
――そのあと、二人は少しだけ、屋敷のまわりを並んで歩いた。
ゆっくりと、風にあたりながら。
心の中にまだ揺れる想いを、少しずつ、落ち着かせるように。
やがて、静かな足取りで――屋敷の扉を再びくぐった。
◇ ◇ ◇
その晩、二人はカイロスの屋敷に泊まることにした。
リュカは、与えられた空き部屋の窓辺に立ち、そっと窓を開ける。
夜風がひんやりと肌を撫でていく。
カイロスは、「朝になったら呼んでくれ」と言葉を残し、研究室に戻った。
隣の部屋にはカガリがいる。
明かりはもう落ちていて、眠っているようだった。
「……いるんだろう」
ぽつりと、窓の外へ向かって声を落とす。
すると、ほんの少しだけ風が揺れ――
暗闇の中から、人影がひとつ、姿を現した。
屋根の端に腰を下ろしていたのは、フードを被った細身の青年。
目の下にはくっきりとしたクマ。どこか、生活感のない顔つきだった。
「……いるけど。え、何……僕に何か用?」
相変わらず、困ったような声音で返してくる。
彼は、迷いの森の調査のあと、ギルド協会の役員に言われてリュカにつけられた“追跡監視係”だった。
姿はあまり見せないが、常に一定距離からリュカの動きを見守っている。
リュカも、それを承知していた。
「屋敷の中での会話、聞いていたか?」
「いや、そこまでは……。命令されてるのは“所在の把握”までだし。……もう行っていい?」
ぼそぼそと、聞き取りづらい調子で言う。
そういえば、彼について、ギルドの役員がこう言っていた。
――“追跡能力は一級品だが、人付き合いに難あり”と。
「……待ってくれ。協会に伝えてほしいことがある」
「え、うそでしょ、君……僕をパシリるつもり……?」
げっそりとした顔をする青年を、リュカは構わず見つめて言った。
「静謐の神殿で、迷いの森と同じ現象が起きている可能性がある」
「ふーん……まあ、確かにそれは報告しといたほうがいいか」
「俺は、調査に入るつもりだ。……ギルドから、誰か腕の立つ人材をよこしてもらえないだろうか」
「………………………………………はあ!?」
今まで眠そうだった目が、ようやく見開かれる。
「ちょっと待ってよ、それ正気!? だってあそこ、SSランクだよ!? 誰が行くの!? 馬鹿なの!?」
「俺の時と同じケースなら、カガリの《解除》で打開できる可能性がある」
「……いや、それ、仮説じゃん。全部想像だよね。……え、これ、僕、全部ツッコミいれたほうがいい……?」
青年の目には、あからさまな呆れと不安の光が宿っていた。
「……え、……本気なの……?」
リュカは短く頷く。
そして――小さく、だがしっかりと言った。
「……あいつが、行くと言うなら、俺は止めたくない」
「……うわあ……」
青年は、大きなため息を吐いた。
「君って、もっと合理主義っぽいと思ってたんだけどな……」
ぐったりとしたように言いながら、青年は懐から小さな木の筒を取り出す。
その筒についている紐を持って、くるくると振り回すと、かすかに風を切るような音が鳴る。
音を聞きつけて、空の彼方から一羽のフクロウが舞い降りてきた。
その脚には小さな革のバンドが巻かれている。
「……まあ、いいよ。紙に書いてくれれば、こいつに届けさせる」
「……助かる」
「……はあ、……めんどくさいから止めないけどさ……」
青年は何度もため息をつきながら、ぶつぶつと「僕は絶対行かないからね……」と念を押していた。
「一応言っておくけど、ギルドの支援は期待しない方がいいよ……。
そんな場所に人員を送り込むなんて命令、出せないだろうし……仮に出たとしても、“はい行きます”なんてヤツ、まずいないよ……」
リュカは短く頷き、紙に必要事項を記した。
それを受け取った青年は、器用に丸めてフクロウの足に取り付ける。
「……万が一、何かあったら、遺言とかは紙に書いといてね。回収はしないけど」
「……ありがたい忠告だな」
夜の風が、ふたりのあいだをすり抜けていった。
そして――フクロウは、夜空へと羽ばたいていった。
※こちらの作品は、『カクヨム』でも連載しています。
https://kakuyomu.jp/works/16818622177469889409
カクヨムの近況ノートにて、キャラクターのラフスケッチを描いていくので、
もしビジュアルのイメージに興味がある方は覗いていってください。




