第1話『追放』
──その日、カガリ・エルグレアは、すべてを失った。
高い天井、磨き抜かれた大理石の床。
幼い頃から慣れ親しんだはずのその場所は、なぜか今日はひどく遠く感じられた。
「無能なスキル持ちなど、エルグレア家には不要だ。」
──冷たく、乾いた声。
それを口にしたのは、父――サルディアス・エルグレア公爵。
美しく整えられた髭と、鋭く冷たい瞳。
その視線には、娘に向ける情のかけらもなかった。
カガリは、言い返せなかった。
言い返す言葉も、意志も、この場には許されていなかった。
応接室には、家族と呼ばれる者たちがそろっていた。
けれど誰一人として、カガリを庇おうとはしない。
継母であるレイネ・エルグレアは、紅茶を口にしながら静かに嘆息をつくだけ。
まるで“失敗した奉公人”に処分を下すような無関心をみせる。
「……まあ、残念だけれど、仕方ないわね。あなたには、家の名にふさわしい成果も実績もなかったもの」
淡々と告げられる言葉には、憐れみも怒りもない。
そこにあるのはただ、“不要な者の整理”という事務処理的な響きだった。
その隣に座るのは、異母妹のルシェリア。
《転移》という貴重なスキルを持ち主で、愛らしさと気品に満ちた“完璧な令嬢”。
カガリを見下ろすその瞳に、感情はなかった。
──いや、ただ一つ、“安堵”の色だけが、ほんのわずかに浮かんでいた。
(これでようやく、私が「唯一の娘」になれる)
口には出さない。けれど、その視線がそう語っていた。
そして――この家の主であり、国の政務にも深く関わる老練な貴族、サルディアス・エルグレア公爵。
彼の言葉は、父としてのものではなかった。
それは“処分を下す者”の、形式に則った声だった。
「カガリ・エルグレア。──今日をもって、お前を貴族籍より除籍する。今すぐ立ち去れ」
それが、カガリに告げられた“追放”だった。
その追放の理由は、単なる失望ではなかった。
それは、貴族派遣任務における“失態”に対する、粛清でもあった。
カガリは数日前、護送隊の監視役として、物資の輸送任務に同行していた。
名目は「経験を積ませるための実地訓練」だったが、実際には、
「うまく立ち回れば、エルグレア家の名も立つだろう」
といった、公爵家の“面子”を保つための道具にすぎなかった。
──だが、その任務は悲劇に終わる。
山間の道中、突然、何者かに襲撃された護送隊。
誰も“敵の姿”を確認できず、兵士のひとりが叫ぶ。
「スキルだ! 隠形系か──!」
パニックの中、護衛兵たちの怒声がカガリに向けられる。
「お前、スキルを持ってるんだろう! 何とかしろ!」
恐怖に、手が震える。心臓が叫ぶように脈打つ。
けれど、どんなに念じてもスキルは発動しなかった。
「……っ、できない……」
その一言が、決定的だった。
「何のために連れてきたと思ってるんだ、こいつは!」
「スキルが使えねえなら、ただの足手まといじゃねえか! この、――無能め!」
そうして護送は失敗に終わり、帰還後、報告を受けた父の怒りによって、追放が決まった。
カガリは理解していた。
──あの家に、自分の居場所など最初からなかったのだと。
高貴な生まれ。けれど早くに母を失い、優秀なスキルを持つ後妻の連れ子に居場所を奪われた。
貴族教育だけは施されたが、彼女の努力が評価されることは一度もなかった。
せめて――何か、誇れる“力”があればと願っていた。
そして神に与えられたスキルが、《解除》。
発動中のスキルを無効化するという能力。
けれど、その能力は“実用に難あり”と判断された。
これまで一度たりとも、カガリはスキルを使用できたことがなかったのだ。
その結果、彼女はこう呼ばれるようになった。
──無能。
──役立たず。
──家の恥。
貴族社会は、能力の有無だけで人を測る場所だった。
“使える者”と“使えぬ者”。
彼女は後者に分類された。
「……カガリ」
その声に、カガリは小さく顔を上げた。
応接室の奥、ひとり静かに控えていた青年が歩み出る。
カガリの異母兄――エルネスト・エルグレア。
冷静沈着で感情をあまり表に出さない彼は、常に屋敷の政務を淡々とこなし、父からも信頼されていた。
家族の中で唯一、カガリに対して直接罵声を浴びせることはなかった男。
そんな彼が、なぜか懐から小さな包みを取り出した。
「これを、持っておいて」
布に包まれたのは、銀のブローチだった。
かつてカガリの母が身につけていた形見──いつの間にか“なくなっていた”と思っていたそれが、彼の手にあった。
「……それは……」
「保管しておいた。君が望むなら、いずれ返そうと思っていたが……今が、ちょうどいい機会だろう」
エルネストの声は穏やかだったが、どこか計算された距離感を滲ませていた。
「……君がこれからどうするかは知らないが。スキルというのは、“いつどう使えるか”で価値が変わるものだ。……そのことは、忘れないように」
一瞬、彼の瞳が冷たい光を宿す。
それはまるで、“役に立てばまた拾ってやる”とでも言いたげだった。
カガリは、戸惑いながらもブローチを受け取る。
「……ありがとう、お兄様」
「礼には及ばない。君のことは……覚えておくよ」
覚えておく――
その言葉は、情ではなく、“記録”や“備え”のように聞こえた。
言葉を残し、彼は父の隣に静かに戻る。
その背中から、カガリに向けられた温もりのようなものは、どこにも感じられなかった。
彼女は、ただ俯き、ブローチを胸に抱きしめた。
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