第14話 『曙光』
東の空が、かすかに色づき始めていた。
屋敷の窓からは、まだ眠る森の輪郭がぼんやりと浮かんで見えている。
(少し、早く起きすぎたかな)
廊下を歩いて応接室へと向かう。
まだ誰も起きてはいないだろうと思いながら扉を開く。
中から、ほのかに香ばしい香りが漂ってきた。
「おはよう。よく眠れたかい?」
応接室に入ると、柔らかなコーヒーの香りが迎えてくれた。
キッチンスペースの奥で、白衣の青年――カイロスがカップを片手に立っていた。
「はい。お部屋、ありがとうございました」
「久々の来客だったからね。……埃っぽかったんじゃない?」
「あはは……でも、リュカが、全部きれいにしてくれました……」
本当に驚いた。
何十年も閉じられていた空き部屋は、家具も寝具もほこりをかぶっていたはずなのに。
中庭から戻ってきた直後、リュカは無言でシーツを剥ぎ取り、洗濯を済ませ、手際よく寝床を整えていた。それは、あっという間だった。
「へぇ……あいつ、そんな甲斐甲斐しい奴だったんだな」
カイロスは意外そうに笑いながら、湯気の立つカップをもう一つ差し出す。
その表情は柔らかく、久々の人との会話をどこか楽しんでいるようにも見えた。
「昔はもっと堅物な印象だったんだけどな。話してみると、けっこう面倒見がいいのかもな」
冗談めかした口ぶりとは裏腹に、どこか懐かしさを滲ませた言葉。
カイロスはふと視線を落とし、カップの中を覗き込んだ。
そして、ほんの一瞬の間を置いてから――
その声の色が、静かに変わった。
「……静謐の神殿は、本当に危険なんだ。……俺が話しておいて、なんだけどさ」
言葉を切って、カップを口に運ぶ。
「リュカは確かに強い。……どこまで君に話してるかは知らないけど、
二百年前、あいつはまさに“英雄”だった。王国の剣――“繚乱の騎士”として名を馳せた男だ。
腕が鈍っていなければ……普通の相手なら、まず負けることはない」
そこまで言って、カイロスの表情がわずかに陰る。
「……でも、あそこは……静謐の神殿は、
最強の剣聖も……俺の師匠も……帰ってこれなかった場所なんだよ。
――それでも、行く?」
静かに置かれた言葉には、長い歳月を重ねてきた重みがあった。
「……正直、怖いですけど……でも、行かなきゃいけないような気がして……」
俯きがちに、けれどしっかりと口にされたその言葉に、
カイロスはカップを傾けたまま、しばし黙っていた。
そして、静かに言葉を返す。
「……行っても、スキルシアーは見つからないかもしれないし、
仮定していた状況とは違って、君のスキルで打開できる状況ではないかもしれない。
確かなことは、なに一つもないんだよ」
静かだが、重い現実だった。
どれだけ想いがあっても、踏み込む先には、予測もできない危険が待っている。
それでも行くのか――その問いは、言葉にしなくとも、はっきりと伝わっていた。
(カイロスさんが言うのは、その通りだと思う……。何一つ、根拠はない……)
(……でも)
カガリは、わずかに迷うように息を吸い、それでも小さく、頷いた。
「昨日……リュカと、カイロスさんが……こうして……再会できました」
ゆっくりと言葉を探すように、カガリは顔を上げる。
「二百年ぶりに――再会できた。
普通ならありえない、こんな、すごいことが起きた」
その言葉は、静かに、けれど確かに、場に落ちる。
ふっと窓からの風が、カップの縁を撫でるように通り過ぎた。
「だから……もしかしたら、って思うんです」
カガリの声が、少しだけ熱を帯びる。
「もう一度――こんな“奇跡”みたいなことが、起きるかもしれないって」
“奇跡”
その響きに、カイロスの指がぴくりと止まる。
表情からは笑みが消え、ゆっくりと視線を落とした。
「……いや、俺は……奇跡なんて、信じない」
吐き出すように、低い声で呟く。
それは、否定というより――願っても届かなかったものへの、悔しさのようだった。
「だからこそ、……俺は“魔導”の道に進んだんだ」
その目は、どこか遠くを見つめていた。
「式で解明できないものなんて、この世にはない。
生まれた時から、すべてが決まっている。運命も、才能も、悲劇も――全部、最初から組み込まれている“仕様”だ」
カイロスはゆっくりとカップを置く。
「不平等だなって思うことも、理不尽だなって思うことも……
そういうものとして“最初から決まっていた”なら、納得できる。
世界は複雑に見えて、本当は単純なんだ――式さえあれば、すべてを説明できるはずなんだ」
彼の口元がわずかにゆがむ。
自嘲にも似た笑みが浮かぶ。
「……だから、異質であるスキルの存在も――解き明かしたかったんだ、あの人と」
カイロスは言葉を吐き出すように、少しずつ胸の内をさらけ出していく。
それはまるで、ずっと誰にも言えずにいた想いだった。
「そうじゃなきゃ……俺は……」
かすれた声とともに続けかけたその言葉を、彼はふいに止めた。
言ってはいけない言葉を、咄嗟に飲み込むように。
その瞳が静かに伏せられたとき、彼の中の何かが、まだ過去に囚われたままであることを――カガリは悟った。
(カイロスさんは……私と、同じなのかもしれない……)
“期待して、裏切られる”、心の痛みを知る人。
何かを信じようとして、失って――それでも諦めきれずに、前に進もうと藻掻いて……。
(――でも、上手くいかなくて、苦しいんだ……)
カイロスは、片手で髪をかき上げた。
そして、わざとらしく肩をすくめて笑ってみせる。
「……悪い。話が逸れたな。……人と話すのが久しぶりすぎて、うっかり喋りすぎた。今のは忘れて」
その声音はひょうひょうとしていたが、どこか苦味を帯びていた。
けれど、重くなりかけた空気をごまかそうとするその仕草が、かえって優しさにも見えた。
そんな中、廊下を歩く足音が聞こえ、扉が音もなく開く。
腰に剣を下げ、支度を整えたリュカが、部屋の中へと入ってきた。
「……もう、出る気満々じゃないか。お前」
カイロスが、手にしたカップを揺らしながら言った。
リュカは静かに頷く。
「道中で物資を整える必要がある。……早いうちに発とうと思ってな」
決意は、すでに固まっている――そんな気配が感じられる。
カイロスはふっと息を吐いた。
「お前も変わったな……」
「ん? ……まあ、二百年経ってるからな」
「……二百年……そうか。二百年かぁ……」
リュカの言葉に、カイロスはふと視線を落とす。
「……そうだよな……もう、それだけの時間が……」
カップの中で揺れる黒い液面を、じっと見つめながらこぼれた呟きだった。
やがてカイロスは気配を振り払うように、わざとらしく咳払いした。
空気を変えるようにして、彼は机の隅に置いていた手帳――あの図鑑を、そっと差し出す。
それは、昨日カガリに見せたスキル図鑑だった。
「君にあげるよ。情報は力だ。……役立ててくれ」
そう言って、手帳をカガリに渡す。
さらにもう一つ――と、
小さな金属片とレンズが組み合わされた、簡素な装置を取り出す。
「これは……?」
カガリが受け取ったそれは、首にかけられるよう、細い革紐が通されていた。
「――破損したスキルシアーの構造をもとに再現した“支援具”だ。
簡易的な作りだけど、スキルの波紋くらいは視えるはず。……たぶん一度きりしか使えないし、使用中の負荷も重い。
だけど、ないよりはマシだろう?」
カガリはそっと装置を手のひらに包む。
「ボロっちいな……本当に使えるのか?」
「失礼な! 二百年前の粗悪品とにらめっこしながら、限られた材料で組み直した、渾身の一作だぞ!?」
その掛け合いに、ふっと笑いがこぼれる。
重苦しかった空気が、少しだけ和らいだ。
「……ありがとう、カイロスさん」
「礼は、帰ってきてから言ってくれよ」
そう言って、カイロスは肩をすくめて笑った。
――出発の時が、迫っていた。
屋敷の扉を開き、朝の光の中にリュカが一歩を踏み出す。
「準備はできてる。出発しよう、カガリ」
「……うん!」
背に荷を背負い、振り返ることなく歩くリュカのあとを――
カガリは、しっかりとした足取りで追っていく。
「いってきます!」
玄関先で手を振ったカガリの声に、カイロスは小さく頷く。
ふたりの姿が道の向こうに消えたあと。
屋敷に、静かな風が吹き込む。
カイロスは誰にも聞こえぬ声で、ひとりごとのように呟いた。
「……俺はまた、見送る側か。……二百年経っても……」
遠くを見つめながら、彼はそっと空を仰いだ。
曙の空は、どこまでも澄んでいた。
――朝日が、昇ろうとしている。
◇ ◇ ◇
「静謐の神殿までは、徒歩だと二日はかかる。……馬を借りよう」
街道沿いの広場――
簡素な腰掛に並んで座り、買い足した物資を袋ごと足元に置いたまま、リュカがぽつりと告げた。
「え、馬……?」
カガリは、思わず顔を上げる。
馬に乗ったことなど、一度もなかった。貴族の家に生まれたとはいえ、乗馬の訓練など受けさせてもらえる立場ではなかったからだ。
「そっか……リュカは騎士だもんね。……私、乗ったことないんだけど、大丈夫かな」
「一緒に乗るから心配しなくていい。俺が後ろから支える」
「え? あ、うん……」
言葉を返したものの、カガリの思考はそこから先へと飛んでいた。
(それって……かなり、密着するよね……)
想像してしまった。
背中にリュカの胸が触れる。両腕で自分を支える――その距離。
急に、頬がかっと熱くなる。
「どうした?」
リュカが、何気なくこちらを見る。
「う、ううん! なんでもない!」
(リュカと行動を共にするようになってから、よく思うんだけど……)
――私は、今まで、あまり人と触れ合ったことがなかったんだよね。
優しく手を取られることも、頭を撫でられることもなかった日々。
家族の誰も、心を寄せるような言葉をくれなかった。
スキンシップなんて、遠い世界のものだった。
(リュカは……たぶん、違う。心は開かなくても、人と交わって生きてきた人だ)
騎士として、人々とともに戦い、背を預け合うような関係の中にいたはずだ。
(なんだか、私ばかり気にしてて……余計に恥ずかしい)
そんなふうに思った途端、胸の奥がそわそわと騒ぎ出す。
――リュカはどう思っているんだろう。
平然としている彼の横顔を見るたび、余計に自分の反応が浮いているような気がして、顔が熱くなる。
そんなカガリを見ていたリュカが、ふと心配そうに眉をひそめた。
「……本当に大丈夫か?」
「全然大丈夫! 気にしないで!」
リュカの心配そうな声に、明るく返そうとした――そのときだった。
彼の指が、すっと伸びてきて、頬にひんやりと触れた。
「……少し、熱っぽい気もするが……」
「!?!?!?!?!?!?」
心臓が飛び出るかと思った。
反射的に、椅子から跳ね上がってしまう。
「だ! だ、だ……大丈夫だから! 本当に!!」
慌てて立ち上がり、足をもつれさせながら、反対側へと下がった。
そして――背中に、何かがぶつかる。
「わっ、ごめんなさい!」
あわてて振り向く。
そこにあったのは、しっかりとした胸板。勢いよくぶつかった自分に、微動だにしない体。
――見上げると、そこには、一人の青年が立っていた。
筋肉質だが、すらりとした体格に、整った顔立ち。
けれど、それよりも先に目を奪われたのは――
彼の髪のあいだから、ぴょこん、と立ち上がった“それ”だった。
(……耳?)
人間のものとは思えない、獣のような柔らかそうな耳。
まるで犬のように、ぴん、と立ち、カガリの視線に反応するようにぴくりと動く。
驚いて声も出せずにいると、彼がふわりと微笑んだ。
「はぁーーーっ、やっっっと会えたぁ!」
「!?!?」
その青年が、いきなり体ごと――覆いかぶさってきた。
「はぁー、そうそう、このにおい。うん、あんたに間違いない」
「え? え? え? え???」
わけも分からず、青年に抱きしめられたまま硬直する。
「カガリ!」
リュカが即座に間合いを詰め、青年の腕からカガリを引き剥がすようにして、彼女をぐっと抱き寄せる。
突然のことで、気がつけばカガリは、今度はリュカの胸元にいた。
「……何者だ、お前」
リュカの声は、低く鋭かった。
腕の中にいるカガリを守るように、その視線が、青年を真っ直ぐに射抜く。
青年はと言えば、腕を広げたまま、悪びれもせずニコニコと笑っていた。
「俺? ――俺はナミル! よろしくな!」
ピン、と犬耳が元気に揺れる。
無邪気な笑顔を浮かべながら、青年は当然のように名乗ってみせた。
※こちらの作品は、『カクヨム』でも連載しています。
https://kakuyomu.jp/works/16818622177469889409
カクヨムの近況ノートにて、キャラクターのラフスケッチを描いていくので、
もしビジュアルのイメージに興味がある方は覗いていってください。