第14話『繚乱』
膝を抱えて、穴の中で小さくなるカガリ。
かすかに――風をかき分けるような足音と、枝を踏む微かな音が届く。
「――カガリ! どこだ!」
名を呼ぶ声が、森の上から降ってきた。
その声を聞いた瞬間、胸の奥がぎゅっと締めつけられた。
リュカだった。
間違えようもない、あの真っ直ぐな声。
なのに――
(……ダメだ)
返事をしようとする喉が、ひときわ強く詰まる。
(今、こんな情けない姿……見られたくない)
(リュカは、きっとがっかりする)
足もくじいて、穴にも落ちて、自力ではどうにもならない。
弱くて、何もできなくて、無力で――
(迷惑ばかりかけて、また……嫌われるのが怖い)
昨晩の、リュカの横顔を思い出す。
自分のせいで、また彼との心の距離が離れてしまう気がした。
声が出ない。
顔も上げられない。
膝に顔を押しつけるようにして、カガリは蹲ったまま、ただ震えていた。
――すると。
「カガリ」
土壁の上、光の向こうから、リュカの姿が現れた。
彼の瞳が、静かに、まっすぐこちらを見下ろしていた。
怒っている様子は、まるでない。
ただ、何かを見つけたときのような、確かな目で――
次の瞬間。
ためらうこともなく、彼はひらりと土の縁から飛び降りた。
背中から風が流れる音と共に、軽やかな着地音。
わずかに舞った土埃の向こう、リュカの足が、確かに地面を踏みしめていた。
静かに、ゆっくりと、彼はこちらへと歩いてくる。
「っ……!」
カガリは立ち上がろうとしたが、足が痛んで動けない。
その場にしゃがみこんだまま、咄嗟に言葉をぶつけた。
「ごめんなさいっ……!」
震える声だった。
「勝手に一人でクエストに行って、迷惑かけて……私、全然ひとりじゃできないのに……!」
顔を上げる勇気もなく、ぎゅっと目を閉じて叫ぶように言う。
「怒らないで……っ!」
リュカはすぐそばまで来て、少しだけ驚いたように見えた。
けれど、怒りの気配はなかった。
むしろ、苦しそうな表情で、ゆっくりと首を横に振った。
「怒っていない」
その言葉が、まっすぐにカガリの胸を突く。
「……昨日からの俺の態度のせいで、そう思わせていたのだとしたら――すまなかった」
静かで、真摯な声だった。
少しの沈黙が流れる。
リュカが、震えを含ませた息を吐き、静かに言う。
「人との接し方が……わからないんだ」
その言葉の後、風もないのにふわりと空気が揺れた。
リュカの足元に、小さな白い薔薇の花が、ぽつりと咲いた。
それに続くように、周囲の土からも、ひとつ、またひとつと――
まるで光に導かれるように、白薔薇が静かに咲き広がっていく。
花びらは、ほのかな光を宿していて、
そこから舞い上がる花粉は、プラチナ色に煌めいていた。
昨日の桃色の薔薇と違う、今度は――白。
その花粉が、空気をやわらかく包みこみ、胸を締めつけていた不安が、少しずつ溶けていくのを感じた。
「これは……俺の力だ。
――《繚乱》。薔薇の花を咲かせ、花粉に様々な効果を宿す」
リュカは、足元の白い花を見つめながら語る。
「赤は熱、黒は腐食、紫には幻覚……桃色には、魅了。そして白い薔薇は、鎮静・癒しの効果がある」
カガリは息をのんだ。
この優しい、穏やかな空気は――リュカの、この白い薔薇が生み出しているんだ。
「感情が昂ると……無意識にスキルが漏れてしまうことがあるんだ」
リュカの声が、少しだけかすれる。
「それで、昔は……人に避けられた。怖がられた。何も悪いことをしていなくても……。
だから、距離を取った。……誰にも触れないようにしていた」
その言葉に、カガリはようやく顔を上げた。
リュカは言葉を続ける。
「それで、故郷にもいられなくなって、剣の腕を磨いて、戦いの中に身を置いた。
“居ることを許される場所”が、そこにしかなかったから……」
リュカの瞳は、遠い何かを見つめているようだった。
「昨日、あの時……スキルがまた漏れて、焦った。あんなことになって、嫌われると思った。お前の心を、操ろうとしたわけじゃないんだ」
言葉の一つひとつが、丁寧に重ねられていく。
「拒まれるのが怖かった」
リュカはぎゅっと手を握る。
「あんな大きな屋敷に、誰の手も借りずに一人で暮らしていた。何か……事情があるのは、すぐにわかった。
それでも、弱音を吐かず、明るく振る舞って。俺のような得体の知れない人間を受け入れ、気にかけてくれた。
……それが、どれだけすごいことか」
白い花が、また一輪、静かに咲く。
「そんなお前を、俺は……傍で支えたいと思っていた。だから、カガリの……あの時の言葉は、嬉しかった」
胸に押さえていた想いが、ゆっくりと零れていく。
「でも……自分の感情が、また誰かを傷つけるんじゃないかと、思うと……どうすればいいのか、わからないんだ」
カガリは、じっとその言葉を受け止めていた。
リュカが、こんなに、自分の気持ちを言葉にしているのは初めてだ。
なんとか必死に伝えようとしてくれている、その、まっすぐな気持ちが伝わってくる。
リュカは、ゆっくりと膝をつく。
「お前が望むなら……俺は、傍にいたい。……仲良く、なりたい」
その声は、震えていなかった。
まっすぐで、誠実で、どこまでも――真剣だった。
カガリの目に、自然と涙が浮かぶ。
エルグリアの屋敷にいた頃。
何をしても、どれだけ努力しても、誰も振り返ってはくれなかった。
でも――リュカは自分のことを、見ていてくれたのだ。
一人で頑張る姿も、不器用に笑う日々も、弱さを隠して踏ん張っていた心も――
全部、見てくれていた。
心が、ほんのりと温まっていくようだった。
(誰かに、自分が頑張っているって、ちゃんと見てもらえるって……)
胸の奥が、じんわりと熱を帯びていく。
(……こんなに、うれしいんだ……)
それは今まで、一度も味わったことのない感情だった。
「……ありがとう……ありがとう、リュカ……」
足元に咲く白い薔薇の香りが、静かに、優しく、辺りを包んでいる。
桃色の薔薇は、――近づきたい、仲良くなりたい、という想いの表れ。
白い薔薇は、――慰めたいという、彼の優しさだ。
(リュカのスキルは……リュカの心そのものなんだ)
胸が、ふわりと熱くなった。
「傍にいてほしい……私も、もっと仲良くなりたい……」
小さな声で、けれど確かに答える。
「……ありがとう。……これからもよろしくね、リュカ」
白い花畑の中で、ふたりの間に、またひとつ、あたたかな何かが芽吹いた気がした。
リュカのまなざしが、ほんのわずかに揺れ、口元が、持ち上がる。
無表情に近かった彼の顔に、初めて見るやわらかさが宿った。
「一緒に、帰ろう」
張り詰めていた空気が、ふっと緩む。
そして――
「足……怪我してるんだろう」
リュカがカガリの足元を見つめた。
「えっ……」
一瞬の間を置いて、彼はそっとカガリを抱き上げた。
「ちょっ……ちょっと待って!? おろして!」
「歩かせるわけにはいかない」
抱きかかえられたまま、耳まで赤くなったカガリをよそに、リュカは薔薇の蔓を操って、器用に落とし穴の外壁をよじ登っていく。
「リュカ、恥ずかしい!」
「俺たち以外、誰もいないだろ」
リュカは、爽やかに――笑った。
森の静けさの中――
ふたりの距離は、また少しだけ、近づいていた。
※こちらの作品は、『カクヨム』でも連載しています。
https://kakuyomu.jp/works/16818622177469889409
カクヨムの近況ノートにて、キャラクターのラフスケッチを描いていくので、
もしビジュアルのイメージに興味がある方は覗いていってください。