第117話『エピローグ』
王国建国の記念日。
夜の王宮は、まるで星々が地上に降りたかのように、無数の灯りに包まれていた。
豪奢なシャンデリアがきらめきを放ち、その光が黄金の大理石の床に反射してゆらめく。
今日の宴には、貴族だけでなく、先の魔物襲撃を防いだ功労者たち――
騎士、市民、研究者まで、身分を越えた多くの人々が招かれていた。
その中心に立つのは、一人の少女。
世界を救った英雄――カガリ・エルグレア。
純白のドレスの裾が月光を受け、まるで光そのものが形を取ったように揺れる。
彼女の姿に、自然と会場の視線が集まっていた。
「はーいっ、世界を救った英雄様に、かんぱーい!」
明るく響いたのは、真紅のドレスに身を包んだシャイアの声だった。
彼女は勢いよくグラスを掲げ、その隣ではディルとガロが半ば呆れたような顔で立っている。
「お前さ、ここは酒場じゃねえんだぞ。もうちょい品良くやれよ」
「はあ? うっさいわね。場が盛り上がればそれでいいの!」
ディルのため息に、ガロが苦笑を漏らす。
その賑やかなやり取りに、カガリの唇にも自然と笑みが浮かんだ。
――世界を救った英雄。
そう呼ばれても、まだ実感はない。
気恥ずかしい気持ちをごまかすようにグラスを傾ける。
その様子を見ていたシャイアが、からかうように笑った。
「田舎町で泥まみれだったあんたが、こんなドレスを着こなす日が来るなんてね~」
「なに言ってんだ。貴族の娘なんだから、こっちが本来の姿だろ」
「それもそっか」
シャイアは肩をすくめ、手の中のグラスを軽く揺らした。
「……まあ、どっかのお嬢様だろうとは、最初から思ってたけどよ。さすがに公爵家はびっくりだよな」
ディルが苦笑まじりに言うと、カガリは少し肩をすくめた。
「あはは……今まで黙っててすみません」
「別に、そんなん謝ることでもねえよ」
ディルは軽くグラスを傾け、金色の液面をじっと見つめた。
その横顔には、ほんのわずかに懐かしさが滲んでいる。
「にしても、公爵家の跡取りで、世界を救った英雄様とは……
なんか、すっかり遠い存在になっちまったな」
冗談めかしているのに、どこか本音の響き。
「えっ……そんな、さみしいこと言わないでください」
カガリは慌てて首を振った。
「私にとって皆さんは、ずっと、冒険者としての憧れの先輩です!
たとえ立場が変わっても、これからも仲良くしてください」
その声には真っ直ぐな熱がこもっていた。
ディルはグラスを持ったまま固まり、わずかに目を丸くする。
やがて照れくさそうに息を吐き、グラスを煽った。
「……ったく。可愛いことばっか言いやがって」
「はー、照れてやんの、きっも」
「あぁ!? 誰がだよ!」
軽口を叩き合う二人に、カガリはくすりと笑った。
懐かしいやりとり。胸に温かさが滲む。
「……あの時、皆さんが私を迷いの森に連れ出してくれなかったら……きっと私は今ここにはいません。
……本当に、本当に、感謝してるし、尊敬してるんです」
それに――と、
カガリの視線が、シャイアへと向かう。
「今回も命を助けていただきました。このご恩は一生忘れません」
カガリの言葉に、シャイアは口元に笑みを浮かべる。
その横顔には、どこか誇らしげな色が宿っていた。
龍晶の深窟――あの深層での出来事のあと、
倒れていたカガリとリュカを救出したのはシャイアだった。
カガリが持っていた通信石でアストレアに状況を伝え、
救援が来るまでの数時間、彼女は二人を守り抜いた。
もしシャイアがいなければ、魔物の群れに呑まれていたに違いない。
夜明けまでの陛下との約束にも間に合わず、ユエルの命さえ失われていただろう。
シャイアはグラスの縁を指でなぞりながら、わずかに目を伏せる。
そして、いつもの調子でぽつりと呟いた。
「運が良かったのよ。あんたも、あたしも」
シャイアは肩をすくめ、グラスの中身を飲み干した。
――何故あの時、シャイアは龍晶の深窟にいたのか。
彼らが潜入していた王国の調査隊が、ルネストの洗脳にかけられた際、
スキル所有者のシャイアだけがその支配を免れ、隊を離脱していた。
地図もなく、形を変え続けるダンジョンを、
ほとんど意識も朦朧としたまま、何日もさまよい続けたという。
深層でカガリたちと出会えたのは偶然で、ほとんど奇跡みたいな話だった。
「ふふっ、あたしの方向音痴も、たまには役に立つもんだわ」
「あとゴリラ並みの生命力もな……」
「あ゛?」
肩をすくめたディルに、シャイアがジト目を向ける。
ガロが苦笑いでグラスを掲げた。
穏やかな笑い声が広がり、シャンデリアの光がそれを包む。
カガリも思わず小さく笑みをこぼした。
そのとき。
「ちょっと、お姉様!」
突如響いた声に、三人が同時に振り返る。
そこには、淡いラベンダー色のドレスに身を包んだルシェリアの姿があった。
「こんなとこでなにしてんの! 会場で私を一人にしないでよ!」
「えっ、ひとり? ……パーティーではいつも令嬢たちの輪にいるじゃない」
カガリが戸惑いがちに返すと、ルシェリアは唇を噛み、わずかに声を震わせた。
「お兄様の力ももうないの! そういうの、全部リセットされたのよ」
勢いよく言い放つ声には、苛立ちと不安が混じっていた。
カガリは小さく息をのむ。
――そうだ。
エルネストの洗脳が解けた今、
彼女の身の回りのほとんどが、形を変えてしまっていたことを思い出す。
交友関係も、評判も。何ひとつ、かつてのままではない。
彼女はすべてをゼロから築き直していた。
「言葉遣い、怖いよ。少し落ち着いて」
「ふん」
唇を尖らせながらも、ルシェリアは視線を逸らす。
二人の間に漂う距離は、まだ少しぎこちない。
けれどそれでも、以前よりは確かに近づいていた。
正気を取り戻した父・サルディアスは、
ルシェリアとその母レイネを、自らが屋敷に迎え入れたことを覚えていなかった。
混乱の末、二人を追い出そうとした父を、何とか説得したのはカガリだった。
ルシェリアの《転移》のスキルが家の力として必要だと伝え、
最初は渋い顔をしていた父も、やがて静かに頷いてくれた。
もっとも、サルディアスの体調はまだ完全には戻っていない。
洗脳による偽りの病だったとはいえ、
長いあいだ食も細く、寝台に伏し続けていた体は衰えていた。
ルシェリアの力は、そんな父の不在を補い、家を支える大きな助けとなっていた。
復帰にはもうすこし時間がかかるだろうが、
それでも屋敷には、再び家長としての威厳が戻りつつある。
一見、すべてが昔に戻ったようだったが――でも違うことも、あった。
父と娘の関係が、ほんのわずかに近づいた。
英雄として世間に認められたカガリを、
サルディアスも少しずつ受け入れ、真正面から向き合ってくれるようになった。
何年も悩み続けてきたことが、こんなにもあっけなく変わっていくことに戸惑いながらも、その変化は、確かに嬉しいものだった。
「なにぼーっとしてんの」
「ああ、ごめん、ちょっと考え事してて」
「私が話してる最中に考え事だなんて、いい度胸じゃない」
「ごめんてば」
顔を近づけてくるルシェリアに、カガリは思わず一歩下がる。
その瞬間、背中が何かにぶつかった。
振り返ると、そこには見覚えのある顔があった。
「レヴィさん!」
「あ。カガリ嬢……」
低い声に、思わず瞬きをする。
いつもは黒い軽装の彼が、今夜はタキシードに身を包んでいた。
それでも目の下のクマは健在で、どこか寝不足の影が残っている。
人混みが苦手なはずの彼が、こんな華やかな場所にいるなんて、少し意外だった。
「今日は参加されてるんですね」
「うん。……まあ、取るもの取ったら裏に戻るけど」
「取るもの?」
首を傾げ、彼の手元に目をやる。
そこには、色とりどりのスイーツが山のように積まれていた。
「……これ、全部食べるんですか?」
「もちろん。……僕、燃費わるいんだよね」
「……」
言葉を失う。
この量のスイーツが人の体に収まるとは、とても信じがたい。
呆気に取られて皿の上を見つめていると、ふと、低く笑う声が落ちてきた。
「ふふ、目がまんまる。面白い顔してるよ」
その声音は、意外なほど柔らかかった。
いつも無表情に近い彼が、こんな風に笑うなんて知らなかった。
カガリは一瞬、返す言葉を忘れる。
シャンデリアの光に照らされたレヴィの横顔は、
普段の“影の人”とはまるで違う印象をまとって見えた。
その視線に気づいたのか、レヴィは軽く首をかしげる。
「どうしたの?」
「い、いえ……なんでも」
慌てて首を振ると、彼は小さく肩をすくめた。
「そう。……じゃ、またね」
短く言い残して、彼は再びビュッフェの人混みへと消えていった。
残されたのは、甘い香りと、
ほんの少し名残惜しい沈黙。
「……あれ、確実に寿命縮めてるわ」
ルシェリアのぼそりとした一言に、カガリは思わず吹き出した。
その笑いが小さく弾けた瞬間――背後から、静かな声がかけられる。
「皆さん、楽しそうですね」
その穏やかな響きに、二人は同時に振り返った。
白い礼服に身を包んだサイラスが、柔らかな灯りの中に立っていた。
「サイラスさん!」
驚きと安堵が混じった声がこぼれる。
「こんばんは。その後、体調はいかがですか?」
「おかげさまで、なんとか……」
カガリが頭を下げると、サイラスは穏やかに頷いた。
その横で、ルシェリアの瞳がきらりと輝いた。
カガリの袖をそっと引き、顔を寄せて小声で囁く。
「ちょ、ちょっと……誰、このイケメン!」
「ギルドの受付官の方よ。すごく優しくて、いい人」
「イケメンで優しくていい人!? そんな完璧な人、なんで今まで紹介してくれなかったの!」
ルシェリアの声が思わず弾み、
カガリは慌てて「しーっ……!」と、指を唇に当てた。
そのタイミングで、サイラスが小首を傾げる。
「どうかされましたか?」
「「い、いえっ! なんでもありません!」」
慌てて取り繕った声がぴたりと重なり、場の空気が一瞬だけ静まり返った。
サイラスは驚くでもなく、ふっと穏やかに微笑む。
「仲がよろしいんですね」
その柔らかな声に、カガリは曖昧に笑って肩をすくめた。
「あはは……まあ、はい」
「と、とっても仲良しですっ!」
ルシェリアが勢いよく胸を張る。
サイラスはそんな二人を見つめながら、目を細めて微笑んだ。
その眼差しに、ルシェリアの頬がみるみるうちに赤く染まっていく。
カガリは小さく咳払いをして、妹を横目でにらんだ。
姉妹のそんなやり取りさえも、サイラスは柔らかな微笑を浮かべたまま、静かに見守っていた。
「――こうして、平和な夜を迎えられてよかった。
カガリさんたちのご活躍のおかげですね」
「そ、そんな……わ、私たちだけじゃないですよ」
慌てて手を横に振りながら、カガリは首を振る。
「騎士団やギルドの皆さんが、王都を守り抜いてくださったからです」
「ふふ。そういうところ、あなたは変わりませんね」
穏やかな声が耳に落ちた。
その柔らかな響きに、カガリの頬がじんわりと熱を帯びる。
隣からルシェリアの視線を感じ、照れ隠しのようにもう一度咳払いをした。
「……でも、あの時はもう、どうなるかと思いました」
「……私もです。――皆が、終わりを覚悟した夜でしたね」
サイラスの声が静かに落ち着き、静かに喧噪へと溶けていく。
そのまま少しの間を置いて、ゆるやかに続けた。
「王都全体があの混乱から立ち直るには……まだ少し時間がかかりそうですが」
サイラスは言葉を切り、ホールの奥に揺らめく灯りの向こうを静かに見つめた。
黄金色の光がその頬を照らし、ほんの一瞬、影のような憂いが浮かぶ。
「きっと……大丈夫でしょう」
穏やかな声に、カガリの胸の奥がじんわりと温かくなる。
長い夜を越えて、ようやく辿り着いた平和という言葉が、
今になってようやく現実として息づき始めているようだった。
「……はい。きっと大丈夫だと思います」
自然と口からこぼれた言葉に、自分でもほっとする。
微笑みながら、息を静かに吐き出した。
少しの間、言葉が途切れた。
会場のざわめきが遠くで揺れ、柔らかな音楽だけが流れていく。
やがてサイラスは、何かを思い出したようにカガリへと視線を戻し、
穏やかに、いつもの微笑を取り戻した。
「――そうだ、カガリさん。あなたに、伝言を預かっているんです」
「伝言ですか……?」
「はい」
静かに頷きながら、彼の口元にわずかな笑みが宿る。
灯りを映した瞳は、穏やかで、やわらかく揺れていた。
◇ ◇ ◇
バルコニーの扉を開けると、夜風が頬を撫でた。
煌めく灯りと音楽の喧騒は遠く、ここだけが別の世界のように静かだった。
満月の光が石畳を照らし、薄く白い靄が庭園を包んでいる。
カガリは欄干に手を置き、静かに息を吐いた。
――サイラスから受け取った伝言は、
バルコニーで会いたいという、それだけの言葉だった。
胸の奥で小さな鼓動が鳴る。
誰からの伝言なのか、答えはわかっていた。
夜風に揺れる髪を押さえながら、空を見上げる。
星々が、まるで祝福するように瞬いていた。
「きれいな星……」
小さくこぼした声が、夜気に溶けた。
その瞬間――背後で、そっと扉の開く音がする。
足音が近づく。
胸の奥がそっと反応した。
振り返る。
視線が重なった瞬間、すべてが伝わった。
カガリは微笑み、そっと囁いた。
「……待ってたよ」
相手の返事は、風に溶けて夜の静寂へと消えていく。
カガリはそっと一歩、近づいた。
その瞳には、深い信頼と愛情が満ちていた。
月光の下、二つの影がゆっくりと重なっていく。
祝宴の音が遠ざかる。
夜は優しく、静かに――二人を包み込んだ。
Fin.
最後まで見届けてくださった皆さまへ
『追放された公爵令嬢が、スキル《解除》でイケメンたちを救ったら超溺愛×逆ハーレムができました。』
第117話エピローグをもちまして、本編は完結となります。
番外編を含め、全120話という長い旅路でしたが、
ここまで読み続けてくださった皆さま、本当にありがとうございました!
ラストは、あえて誰も登場させない形で締めくくらせていただきました。
病室でカガリを迎えたのは誰だったのか。
そして、バルコニーで彼女を呼び出したのは――誰だったのか。
その答えは、ぜひ読者の皆さまの想像に委ねたいと思います。
もともと私は文字書きではなく、絵描きとして活動しており、
「キャラクターを描きたい」その気持ちがすべての始まりで、デザインの材料がほしくて世界を作り、物語を紡ぎ始めました。この作品は、そんな私が人生で初めて描いた長編です。
物語を「広げる」「締める」ということが、こんなにも難しいのか――
書きながらたくさん悩み、学び、少しずつ形にしてきた作品でした。
本編の執筆が終わり、ようやく、やりたかったことに着手できるところまで来た気がします。
これからは表紙イラストやデザイン画など、
絵の方向からもこの物語の世界を広げていけたらと思っています。
また、各キャラクターの後日談や、悪役エルネスト視点の補完エピソード、
続編にあたる新しい物語も、構想として少しずつ温めています。
いつか形にできるよう、ゆっくりと進めていくつもりです。
そして、このあとがきも含め、もしこの物語を最後まで見届けてくださった方がいましたら――
感想やレビュー、ブックマークや評価など、どんな形でも構いません。
ほんの一言でも足跡を残していただけたら、とても嬉しいです。
どのくらいの方がこの結末まで読んでくださったのか、
そしてどんな気持ちで物語を見届けてくださったのか、知れることが、とても大きな励みになります。
このお話が、皆さんの心のどこかに少しでも残っていたら、何よりの幸せです。
ここまでお付き合いくださり、本当にありがとうございました。




